18.少女の見る夢(1)
リゼッタとローグが仮初めの協力関係を結んでから、数日が過ぎ――フォルテンはある種、異様な雰囲気に包まれていた。
昼夜を問わず、ローグの配下らしき男たちが、レイゾを探すために顔を険しくして街中を駆け回っている。
レイゾの居場所を示す情報には賞金がかけられ、ローグの息のかかった店の従業員や住人なども、絶えず目を光らせていた。
それに混ざるのはあまりに非効率ということで、ギルダスたちは普段は『背徳の楽園』で待機し、リゼッタが魔装具の気配を感知したらすぐにその場所へ急行するようにしていた。
にも関わらず、レイゾを捕まえることはできていない。
雲をつかむという段階でもなく、何人もその姿を目にしてはいる。だが、結局は最後のところで取り逃がしていた。人数を活かして追い詰めようにも、人間離れした動きと素早さで最終的には逃してしまう。
それ以外にも、レイゾが見つかるのが常に夜ということも影響していた。その姿は、距離を置くと闇にまぎれてしまう。
そしてギルダスとリゼッタだけが違和感を感じることなのだが――レイゾが刃を交えるのを避けるように逃げ回っていることも、彼を取り逃がす要因のひとつになっていた。
追跡者が少数の場合でも、なぜかレイゾは返り討ちにしようとはせず、姿をくらませてしまう。
だが、それだけだったらそう深刻な事態にはならない。
問題は――夜な夜な、被害者が出ているということだ。被害者は共通して、フォルテンの裏の顔役とも言える、悪漢どもを束ねる組織の有力者たちだった。
だが、レイゾとの因果関係も、どれか一つの勢力に加担しているというわけでもない。それこそ無造作に選ばれ、殺されたとしか思えないような顔ぶれだった。
殺され方も、一人目がめった刺しにされたかと思えば、二人目は撲殺、三人目は原形が残らないほどバラバラに引き裂かれていたりと、だんだん無残なものになってきている。
その影響は少しずつ、確実に浸透していった。
次の夜には誰が殺されるかわからないという状況の中、ローグだけではなく、他の組織もレイゾ探しに動き始めていた。必然、異なる組織の者同士での無意味な衝突も起きている。
まるで関係のない者までレイゾとの繋がりを疑われる始末で、人死にが出るほどの騒ぎも一度や二度ではない。
町中が、殺気立っていた。
『背信の町』の二つ名通り、フォルテンは今や疑心暗鬼に満ちていた。
「おい! 酒が来てねえぞっ!」
「おう、こっちもだ。皿も空いちまったぞ。トロトロやってんじゃねえよ、ったく!」
その夜も、不安の吐け口を求めるかのように『背徳の楽園』は盛況だった。
一階の食堂には、“待ち”の客が溢れて、すべての椅子が埋まっている。テーブルの周りや厨房を、客を取るには日の悪い娼婦たちが忙しそうに動き回っていた。
いつものような浮ついた雰囲気はなく、酒を飲んで猥談や莫迦話に興じるでもなく、男たちはしかめ面で料理と酒を口に運んでいた。
ぽつぽつと不満を口にし、不安を並べたてることでようやく激情を抑え込んでいる者もいる。落ち着かなそうに体を揺らしている者もいた。
少しでも料理や酒が遅れると怒鳴り声が飛んでくるので、女給をしている娼婦たちも忙しくならざるをえない。聖域ということで自制が効いているのか、今のところ客同士のトラブルは起こっていないが、ちょっとした拍子で殴り合いに発展してもおかしくないような雰囲気だった。
そんな空気の中、
――ガシャンッ!
食器の割れる高い音が、一瞬の静寂を生んだ。
「なにしやがる!」
顔を青くした少女――リリーネに、客の一人が怒声を浴びせる。床に料理が散乱し、その一部が客の服を汚していた。
給仕の最中に皿を落とし、飛び散った料理が客の服にかかる――いつもならよくあることだとすぐに視線を逸らす男たちも、一斉に振り向いて野次馬めいた眼差しで今後の展開を興味深そうに予測しはじめる。
まるで――他人の不幸を待ちわびるかのように。
吐き出される男の怒りを、リリーネは顔を伏せて受け止めていた。ただじっと、男の怒りが治まるのを待っている。
そんな態度が火に油を注いだらしく、男は萎縮するリリーネの襟を掴んで持ち上げた。酒臭い息と、好色の眼差しが細い首筋を這いまわる。
「……たまにはこういうのもいいかもなぁ」
「っ……」
その呟きを耳にしたリリーネの顔から、血の気が失せる。それに割って入るように、女給をしていた娼婦の一人が男をなだめにかかった。
「ごめんなさいね、お客さん。その娘はまだ客を取らせていないんです。なんだったら私がお相手しますから――」
「うるせえっ。今夜はこいつに決めたんだ。早く部屋に案内しろ」
男は、かなり飲んでいるらしい。聞く耳を持たず、赤ら顔で喚き散らす。
リリーネが苦しげな顔で、周囲に助けを求めた。だが応じる者はいない。
止めていた娼婦が突き飛ばされ、リリーネは抵抗することもできずに引きずられていき、
「ぐおっ!?」
急に男が奇妙な声をあげて、身をよじった。
襟を掴んでいた手から力が抜け、少女は床に尻もちをつく。
「いて、いてぇ! 誰だクソ、ふざけや、がっ、ぐぁあああっ!!」
リリーネを持ち上げていたのとは逆の腕が、男の背中で捻りあげられていた。
「これから寝るところなんだ。騒ぐんなら余所でやれ、余所で」
ぶっきらぼうな少年の声に、リリーネは目を丸くする。
「て、てめ――」
――ギチィ。
「あ、がぁあああああ!」
苦悶に歪んだ男の額から、ぷつぷつと汗が噴き出る。そのまま腕がへし折られるのではないかと思うほど限界まで曲がり、
「――はい、そこまで」
場違いなほど落ち着いた声が、緊張高まる空間に割って入った。
「ここは血を流す場所ではないわ。そういうことは外でやってくれないかしら」
騒ぎを聞きつけたのだろう。サフィーナが妖艶な笑みを浮かべたまま、階段を下りてくるところだった。
そのまま近づいてきたかと思えば、男に密着し、懐に小さな布袋を忍ばせる。
「とりあえず、今日のところはお引き取り頂ける?」
ギルダスの耳に、ジャラ、という硬貨の擦れ合う音が届いた。
手打ち代ってことか……。
男から毒気が抜けていき、サフィーナの視線が一瞬ギルダスに向けられる。その意味を悟って、ギルダスは男を解放した。
「料金はけっこうです。またのご来店をお待ちしていますわ」
「……へっ」
男はいかにも、仕方ねえなあ、といった顔を作って、『背徳の楽園』から出ていく。
残った客が拍子抜けしたような顔をしているのを、サフィーナはぐるりと見渡した。そのままニコリと笑い、
「少し酔いが醒めてしまったかしらね。お詫びとして、今ここにいらしたお客さんの飲食代はすべてタダにさせてもらいます。……それで許してもらえるかしら?」
瞬間、歓声があがる。これ幸いと客はそれぞれに新しい注文を矢継ぎ早に頼みだし、その場がにわかに活気づく。さっきまでの張りつめていた空気が、一瞬で緩んだ。
――大したもんだな。
ギルダスが感心するなか、サフィーナは愛想よく笑顔を振りまくと、座ったままのリリーネに手を差し伸べた。
「あなたは休みなさい。少し働き過ぎよ」
「……すいません」
助けを借りて立ち上がり、悄然としながら汚れた床を見下ろす。料理と割れた皿の破片が、磨かれた床を汚していた。
「そこは他の娘に掃除させておくから」
「はい……」
肩を落とし、とぼとぼと歩きだしたリリーネを、ギルダスは苦い顔で見送った。
……余計なことしちまったな。
あんなことをするつもりはなかったのだが、気づいたら体が動いていた。
リリーネの姿が厨房にある勝手口から外に出たのを見届けると、サフィーナがギルダスに向き直った。
「あなたも――」
「ああ、わかってるよ」
ギルダスは肩をすくめて階段へ向かった。
先ほどから、好意とは無縁の感情を肌で感じていた。
ローグの流した情報が広まったおかげで、表だって命を狙ってくる者はいなくなったが、疑いが完全に晴れたわけではない。
今のところまっすぐにその疑いをぶつけてくる者はいなかったが、酔いが回ったらどうなるかまではわからない。進んで新しい騒動の火種になるつもりはなかった。
客だけではない。娼婦たちも、巻き込まれるのを恐れるようにギルダスと距離を置いている。
苛立っているのはこっちも同じなんだがな――
ここ数日の外出は、今のところすべてが無駄足に終わっている。リゼッタの言っていた通りになったわけだが、うれしいはずもない。
つい先ほども、魔装具の居場所へ駆けつけて、人一人分の肉塊が散乱しているのを目にしたばかりだった。
「……くそっ」
忌々(いまいま)しさを短い言葉で吐き出して、ギルダスは部屋へと引き上げていった。
◆
『背徳の楽園』の裏庭で、リリーネは壁にもたれて休んでいた。
「ふう……」
自分ではそれほど疲れているつもりはなかったが、こうしていると溜まった疲労が一気に体にのしかかってくる。
失敗、しちゃったな……。
落ち込みながら、ここ数日の過ごし方をリリーネは振り返っていた。
自分でもよく働いたと思う。日課の仕事はいつもよりも手早く片付けて、食事後もすぐに動き出し、手が空いたら普段は行き届かない場所の掃除をしたりなど――
サフィーナにはっきりと言われるまでもなく、働き過ぎということは自覚していた。
けれど、やることがあれば、体を動かしていれば、それに没頭していられる。クタクタになるまで働けば、ベッドに入ってもすぐに眠れる。
余計なことを、考えないですむ。
――リリーネがミリの死を聞いたのは、五日前のことだった。
リリーネを含め、『背徳の楽園』の娼婦たちが一ヵ所に集められてその話を聞いた。
事故に巻き込まれて――
サフィーナは、ミリの死の理由を、そう語った。
その事故がどういったものだったのか、誰も訊かなかった。誰もがその言葉を信じていなかったが、そのことを口に出しはしなかった。
初めてではない。外出した娼婦が、“不慮の事故”で命を落とすというのは。
だから、遺体は自分が確認した後で埋葬したというサフィーナの言葉を聞いても、不自然に思う娼婦はいなかった。
一様に表情を暗くして、あるいは隠しようのない悲しみを涙に託して。それでもいつも通り、『背徳の楽園』の娼婦たちはやるせない気持ちを押し隠しながら一日を過ごした。彼女たちに、悲しみに暮れている余裕はない。
サフィーナの話に、リリーネは“嘘”の響きを感じ取れなかった。
それでも、と思う。
なにかの間違い、勘違いという可能性もあった。真実とは思えなかった。思いたくなかった。
その目で死体を見ていないリリーネには、サフィーナから伝えられた姉の死はまるで実感が沸かなかった。
空虚な瞳が、『背徳の楽園』のささやかな農園を映す。
そこはゼノの襲撃時に踏み荒らされ、ひどい有様になっていた。いま植えてある分の収穫は絶望的だろう。
……ここも手入れしなきゃ……
ふと、農園を任された時のことを思い出す。
この農園の世話が、リリーネに与えられた最初の仕事だった。
『背徳の楽園』に来てそう過ぎていないある日のこと。当時、心を閉ざしていたリリーネをミリが連れ出し、見せてくれたのがこの農園だった。
ちょうどいくつかの野菜の収穫時期で、色彩豊かな畑を目にして、自分の中の灰色だった世界が、ほんの少し色を取り戻したことを彼女は知った。
どこか誇らしげに、私が育てたのよと教えてくれたミリに、リリーネはたしか自分もやってみたいというようなことを言った覚えがある。
その日から、ミリはリリーネに農園の手入れの仕方を一から教えてくれた。
やり方を覚えたころには二人で交互に手入れをして、ミリが『背徳の楽園』から出ていく日には託された。泣きじゃくるリリーネをそっと抱きしめ、
――二人で見てた農園のこと、お願いね。
そう頼まれたのだ。
ミリが帰ってきた時にこの有様では、きっとガッカリしてしまう。
帰って……帰って?
「……ぅ」
視界がにじむ。目尻に溜まる涙を、リリーネは袖で拭った。
限界だった。なにかの間違いだと信じ続けるのは。いつかきっと、何事もなく帰ってくると思いこむのは。
それでも――
信じたくない。ミリが、“姉さん”が死んだなんて。
リリーネは壁からそっと体を離し、ふらふらと歩き始めた。その行く先は、娼館の正門、その外側――
前にミリから聞いたことがあった。
――本当に好きな人がいるのよ。こんな商売をしているけれど、その人は心の底から私を愛してくれるの。滅多に会えないんだけど、今度、その人とこっそり会える場所ができるの。……本当はそのための場所じゃないんだけどね。
その話を聞いた時は、なんとなく羨ましさのようなものを感じると同時に、ミリのほころんだ表情の中に陰が混じっているのを不思議に思った。
ミリがいなくなってから日が経ち――姉を身請けしたという商人が、彼女のために別宅を建てたという話を聞いて、リリーネはその陰の正体に気づいた。
――あれは、その商人への罪悪感だったんだろうな。
そして今、もしかしたら姉は、そこに隠れているんじゃないだろうか? その話に出てきた、本当に好きな人と一緒に。
なんの根拠もない思いつきだった。だが、それ以外に心当たりのないリリーネの中では、その思いつきは確たる現実にすり替わっていく。
サフィーナからは、今は絶対に外に出てはいけないと言われている。町全体が物騒なことになっているのは、客同士の会話からも知っていた。
知ってはいても、リリーネの足は止まらなかった。ふらふらと夢遊病患者のように頼りない足取りで門をくぐる。不幸なことに、サフィーナも娼婦たちも、それに気づいた者はいなかった。
「……」
ふと、ただ一心に姉に会いたいと思うリリーネの心中に、一抹の不安が湧きあがる。
ここ数日、夜になると感じる不快感のことだった。大抵は長続きしないが、その感覚はなんとも言い難いものがある。
背筋が粟立つどす黒い悪意のように感じたかと思えば、死人の瞳のように光のない虚無感に思える時もある。
しかもそれらは、はるか遠くから感じる気がするのだ。
……どうでもいいや……。
どうにも言葉にしづらい、あまり馴染みのない感覚だったが、リリーネはそれをミリの死を聞いたのが原因の、精神の変調だと思いこんだ。
漠然とした不安を意識の隅に追いやりながら、リリーネは歩き続けた。
そこに行けば、姉に会えると信じて。それ以外のことから目をそむけて、少女はただ歩き続けた。