序
世界には奇跡が満ちている。
世界を創造せし神や空を舞う竜、威風漂う魔人や、果てには異形の怪物、儚き妖精もこの世界には存在する。
――そう信じる人々はあまりにも多い。たとえ生まれてから一度たりとも、それらを自分の目で見ていなくても。
それでもただ一つ、この世界には身近な奇跡が存在する。人の魂が具現化したものとされるそれは、『魂精装具』と呼ばれる。古い言葉で『ソレスタ』――精錬されたもの――とも呼ばれるそれには、いくつかの特徴があった。
そのほとんどが、なんらかの武具の形をしていること。それを破壊された人間は心を失い、死人同然になること。また、普通の武具にはありえない特殊な能力を備えていること。
そして、ソレスタを使える人間を一般に『精錬者』と呼称する。
「ハァ、ハァ――」
息が苦しい。まだそんなに走っていないのに。
『言われなくてもわかってるだろうけど。用事を済ませたらすぐに帰ってきなさいよ。最近は特にきな臭いから』
――ごめんなさい。
リリーネは出かける前に言われたことをふっと思い出し、心の中で謝った。
そのことを守っていれば、こんなことにはならなかったのに。買い物に行った先で引きとめられても断って、すぐに帰って来ていたら追われることもなかった。
苛立ちの混じった野卑な声が、リリーネの背中に浴びせられる。リリーネを追いかけている男たちの声だ。
さっきよりもかなり近くから聞こえた気がして、リリーネは振り返りかけた。だが、もしそれで目の前にいたら――そう思うと恐怖が湧きあがってきて、そうすることすらできない。意気地のない自分を情けなく思い、涙が出そうになる。
「ハァ、ハァ――」
苦しいけど止まれない。止まったら、捕まる。そうなったらなにをされるのか――
危機感がリリーネを急き立てたが、足がもつれてうまく走れない。路が険しいというわけではなく、単純に自分の足がうまく動いてくれなかった。
混乱してがむしゃらに走るうちに、リリーネは自分がいまいる場所さえよくわからなくなっていた。すっかり慣れた街並みのはずなのに、出口のない迷宮に迷いこんだような気さえしている。
「ハァ、ハァ……ッ!」
目の前に壁が迫り、曲がろうとしたときだった。リリーネは悪寒を覚えて、反射的に首をすくめる。
次の瞬間には突き飛ばされ、壁に体を打ちつけていた。息が詰まる。痛みに動きを止めた彼女に、男たちはすぐに追いついた。三人。体を壁のようにして、取り囲む。
「手こずらせやがって」
男のひとりに手首を掴まれ、強引に頭の上で抑えつけられる。手荒い扱いに、掴まれた手首が痛みを訴えた。ほどこうと体を揺するがビクともしない。リリーネの弱々しい抵抗を苦ともせず、男たちは顔を突き合わせた。
「こんなガキでいいのか?」
「まだ下働きなんだろ」
「こいつで人質になるのかよ?」
「いいんじゃねえか? サフィーナは身内に甘いって話だしよ」
「にしても、こんなガキじゃお楽しみもできやしねえな」
「オーガスあたりに有料で回したらどうだ? あいつはガキが好みらしいぞ」
「そりゃダメだ。あいつはやりすぎるからな。下手すりゃ殺しちまうよ」
すぐそばで交わされるおぞましい会話にリリーネは恐怖で身を震わせ、歯を打ち鳴らした。
だれか、助けて――
助けを呼ぼうとしても、喉が凍りついたかのように声が出せない。かわりに目だけで救いを求める。
すぐに絶望で目の前が暗くなった。道行く人は、誰もかれもが目をそらして通り過ぎるだけだ。
改めて思い知った。ここはそういう町なのだ。自分の危険をかえりみず、無償で人助けする人なんていない。
頬を涙が伝った。男たちの会話が、胸を突く。人質という単語と、そのあとに続いた名前に。
これからなにをされるのかという恐怖よりも、姉と慕っている人たちに迷惑をかけることへの申し訳なさで、胸がいっぱいになった。
「ごめんなさい……お姉さん」
リリーネは呟き、その声が思ったよりも通ったことでようやく気づいた。
男たちの会話が止まっている。とうとうどこかへ連れてかれるのか。観念して顔を上げ――
「……?」
男たちの顔が、ある一点に向けられているのを見て、戸惑いに瞳を揺らした。そこになにがあるのか、男たちの体に隠れてリリーネには見えない。男たちのものではない舌打ちが聞こえた。
ひとりが、リリーネを囲む輪から離れていく。少し歩いてすぐに立ち止まった。
「見せもんじゃねえ。関係ねえのはひっこんでな」
脅すのに慣れた口調。低い声音。そのとき初めて誰かがそこにいるのだと、リリーネは気づいた。
けど――
期待は、しなかった。誰かはわからないけど、きっとあの人もすぐに立ち去ってしまうんだろうな。
その後に続く言葉を男が言うまで、そう諦めていた。
「――ガキ」
間髪入れずに、コッ、というなにかを叩く音が聞こえた。男の顎が揺れて、全身からくにゃりと力が抜けた。
ドガッ!
大きな音を立てて、その体がくの字に折れ曲がる。そのまま前のめりに倒れた。なにが起こったのか、リリーネには見当もつかない。
「テメエッ!」
もうひとりの男が飛びかかる。一瞬だけ人影が見えた。男たちよりはるかに小柄な体つき。自分よりは大きいだろうけど、それでも大した違いがあるようには思えなかった。
女の……ひと?
リリーネが疑問が浮かべるその間にも、事態は進展していく。人影に拳をかわされた男の脇に、深々と肘がめり込んでいた。
「カ……ハッ」
脇腹を抑えてよろめいた男は、次の瞬間、絶叫を上げる。
ボギィッ、という音とともに、膝が本来なら曲がらないはずの方向に曲がっていた。
「なっ……く――」
手の拘束が解かれた。リリーネを抑えつけていた男は、顔を青くして数歩後ずさるなり、背中を向けて逃げ出した。
走りだすその背を、人影が追っていく。その肩口が、猛烈な勢いで男の背中にぶつけられた。悲鳴を上げて男は倒れ、体を路面に打ちつける。
痛みに呻く男に人影が歩み寄り、無造作に足を持ち上げた。その背中から発せられる気配に、リリーネは動くこともできない。
「な、なにを――」
男の目が怯えに揺れる。足が、勢いよく踏み下ろされた。
「ガッ――」
あっさりと顎を砕かれ、男は口から血反吐を吐きながら白目をむいた。
なんの躊躇も見せずに、膝を抱えてのたうちまわる男と、前のめりのまま悶絶した男にも同じようにすると、ようやくリリーネの存在に気づいたかのように顔をあげた。
「――ッ!」
顔を青くして目の前で起こった惨劇を見ていたリリーネは、思わず息を呑んだ。
三人の男を半殺しにしたのは、リリーネとそう歳が変わらなそうな少年だった。立ち回りでまくられたフードの下から、血で染めたような赤い髪が露わになっている。栗色の外套と同じ色をした瞳が、探るようにリリーネを見つめていた。その険しい眼差しは、年齢にそぐわないほど険しく荒んだもので、リリーネは目をそらすこともできない。見つめ返すうちに、少年の右眉から髪の生え際まである傷跡に、リリーネの視線は引き寄せられた。
少年がふっと目をそらし、忌々(いまいま)しげに顔を歪める。舌打ちをすると、すぐに背中を見せて走り去っていった。リリーネが声をかける暇もない。
少年が見えなくなってもしばらくの間、リリーネはそこに立ち尽くしていた。
なんだったんだろう……。
すべてが夢のなかの出来事のように思えた。けれど、苦痛を訴えることもできない男たちと、打った体の痛みが、これを夢でないと教えてくれる。
「なんだったんだろう……」
今度は声に出した。答えが返ってくるはずもなく、リリーネの声は風にさらわれて消えていった。