その漆 美結のエピソード
美結のそれに初めて気づいたのは、たしかマーリが小学校三年生の頃だったと思う。
そのときの学校はまだ科目が少なかったから、ピンクのランドセルを背負ったマーリが帰るのはいつも午後の二時か三時くらいになった。帰るとたいてい母親が居間のソファに寝転がりながらバラエティ番組を見ていたので、普段は「ただいま」と言うだけで通りすぎることができたけれど、その日は少し様子が違った。
聞けば美結の父親が交通事故に遭って、病院に担ぎ込まれたというのである。
それですぐに行けそうだったのが親族の内でも専業主婦であるマーリの母だけだったものだから、入院するのに必要なものをいくつか鞄に詰め込んで、そしてこのマーリも緊急時に役立つべく、その荷物持ちの一人として一緒に駆けつけることになった。
交通事故とはいっても、駐車場の前を歩いていたら歩道を横切る車に足を踏まれたとかで、何もその程度のことで空手有段者のあの丈夫そうな妹の旦那がどうこうなるとは思えなかったけれど、どんな鍛え方をしていても足の甲の骨までは一般人のそれと変わりないから、変な踏まれ方をして何本かポリっとやってしまったらしいのだ。
受付で入院手続きの用紙を渡され、うんうん悩む母のそばにすることもなく立っていると、マーリの視線のはるか先、混雑する病院の入口から叔母と美結が小走りにやって来る。
「姉さん、どう? うちの旦那」
「平気よ。さっきもそこの救急外来で先生に軽口叩いていたし」
「まったくもうっ、普段は身体のことに関して偉そうなことばかり言っているくせにっ」
と、怒っているのか安心しているのか、どちらともつかない顔で叔母は言う。
「うふふ、人生こんなこともあるわよ。それより良かったじゃない。その程度で済んで」
ふたりの大人はそうして会話に夢中になる。その下で、マーリと美結はお互いににこっと微笑んで、久しぶりに会うものだからちょっと気恥ずかしい微妙な距離を保ちつつも、マーリはポケットに入っている飴をひとつ美結に渡すのだった。
幼い美結はただちに包み紙を取り去ってお口に入れると、
「あま~い」
と、可愛らしく笑ってくれたものだからマーリも嬉しくなった。
そして自分も飴を舐めながら、その母たちを待っていたけれども用紙が完成するとしばらくはすることがないらしくて、そこの待合席では、やっぱりお互いにどうでもよさそうなことを熱心に話しだすのである。
やがて口の中の飴もなくなってしまって、美結が少しぐずりだす。マーリはちょっと心配になって、思い切って母に相談をしてみた。
「ねえ、お母さん。あそこの売店で飴買ってもいい?」
母は気軽く「いいわよ」と言って、五百円硬貨を一枚くれた。マーリは思わず目を丸くして、
「わあ、すごい!」
とびっくりした声をあげる。
なんたって、子供の頃はまだ盆と正月くらいしかお小遣いを貰えなかったものだから、その大きな硬貨を指に挟んでまじまじと見入ってしまった。
マーリは心底嬉しいにつけても、まさか、「叔父さん、轢かれてくれてどうもありがとう!」などと言えるわけもないから黙っていたけれど、とにかくそうして美結とふたり、手を繋いで機嫌よく売店に向かったのである。
売店といってもコンビニのような間口を広げた明るそうな店舗ではなくて、食堂のすみを仕切って拡げた古風な感じのする店であった。入口と違って奥の天井は大きな配管などもむき出しのままで、やっぱり市が経営する病院だと費用の工面もいろいろ大変らしかった。
しかしまあ、子供にとっては目的の物があれさえすれば良かった。
そこの入口には高く横長の案内板が掲げられていて、まわりに色とりどりの細かな字がたくさん書いてあった。店内は大きな大人たちばかりであったので、マーリは入るのにちょっと躊躇ってしまった。
「入ろ?」
美結がそう言って手を引く。とたん、なんだか視界がぐらりとして、マーリは思わずつんのめってしまうのである。
「あ、あれれ?」
「おねえちゃん?」
「あ、ううん。なんでもないよ」
この子はこんなにも平気なのに、大きな自分の方が臆するだなんて……。
そんな気持ちを隠すかのようにマーリは元気に笑ってみせた。
「わあ、見たことのないお菓子がある」
病院の売店は仕入れのルートが他とはいろいろ違っているらしく、マーリにとっては珍しいものばかりであった。
車輪のようなスナック菓子、すぐに双六にでも転用できそうなサイコロの飴、そしてこのカルミンってなに? と、なんだかよくわからないラムネっぽいの。そのお味はちょっと想像がつかなかった。
とにかく、マーリはそれでミルクとイチゴの混ざった可愛らしい飴を選んでみた。ところが美結の方がさっきからどうも大人しい。
それで気になってその子のつむじを見てみると、下の段に置かれた円柱状の容器にたいへん夢中になっているようなのである。
「美結ちゃん。お菓子決めたの?」
マーリが聞くと、その容器を一つ持って、
「おねえちゃん、これがいい」
と、見せてきたものはどう見てもお菓子ではなかった。
「美結ちゃん、これちがうよ。お菓子じゃないよ?」
「でも、これがいいのっ」
マーリと手をつないだまま、美結はその紅葉のような手で持ったお気に入りのものを一生懸命に説明してくるのだ。パパはごま塩、ママはたらこ、そして自分は海苔たまなどと、その三色ふりかけの使用方法を事細やかに。
もともとお菓子を買うために来たのだけれど、このことを今の夢中になっている美結に納得させるには、マーリにとって、小さな子に時計の針の読み方を教えるよりも大変そうだった。
それで―――
「じゃあ美結はそれでいいのね? あとでイヤって言っても、だめだよ?」
「うん」
おそらく自分の飴を後で半分あげることになるのだろうけど、その笑顔を見ていると、なんでも許せるような気分になってしまうのだから困ったもの。
美結はこの頃からたいへん可愛くて、周りの大人の目をよく惹く子でもあったから。
母親たちのところへ戻ると、美結はマーリから手を放して自分の母のところに駆け寄った。そしてその腰のところに抱き付くと、
「ねえ、おかあさん、これえ」
そんな舌足らずな声で三色ふりかけを嬉しそうに掲げてみせるのである。
叔母と、そして見たことのない男の人が、そんな美結を見てにっこり笑っている。
―――あれ、この人は誰だろう?
そこには濃い暗い色の制服にベストを着こんだ大柄な男の人がいて、背中には白地で大きくポリスと英語で書いてあった。その英語の意味は分からなくとも、マーリにもこの人が警察官であることくらいはなんとなく想像ができた。
マーリはその警察官を見上げたまま、あの大きな喉仏の突起がよく動くのをわくわくしながら観察していた。本物の警察官なんて、マーリの日常にはとても縁遠いものであったから、自分がとつぜんテレビの世界にでも迷い込んでしまったような気にもなって、ちょっと嬉しかったのだ。
ところが―――
「あいたっ」
突然刺すような痛みが左手に感じられて、マーリは何事かと、その手を顔の前にもってくる。
とくに変わった様子は……、いや、ちょっと血色が悪いようで、そこに痺れているような感覚もあった。そしてそのじんじんする感覚がしだいに増すと同時に、刺すような痛みも強くなってくるのである。
「ねえ。お母さん」
そう呼びかけながら、叔母と警察の人の話を興味深そうに聞いている母の袖を、大丈夫な方の手で引く。
「なあに、マーちゃん?」
「手が痛いの」
マーリは母の顔の前にその痛い方の手を掲げてみせた。
「どこが?」
「この手」
最初は何でもないようにただ眺めていた母も、やがてはなんだか驚いたような声を上げて、
「マーちゃん、どうしたのこれっ!」
マーリの見ているその前でも、自分の手がみるみる赤く腫れあがってくるのがわかった。マーリは事の成り行きが理解できずにただ茫然としていたけれど、母は慌てるようにマーリの腰を抱きかかえると、すぐさま救急外来の方へ走り出すのである。
本来は関係者以外立ち入り禁止のはずだけど、幸いにも叔父のほかには救急の外来がなかったので、そこで当直の医師が見てくれることになった。
そのときの医師はたまたま整形外科が専門だったらしく、マーリの手の状態を見ると何かに感づいたようだ。その手を氷水で冷やしながら、奥のレントゲン室へただちに案内するのである。
「ええっ、折れてるんですか?」
母がびっくりした声を上げた。
「正確には折れている、というよりも、ヒビが入っていると言った方が適切でしょうねえ……」
PCの画面に映し出されたレントゲン写真を見ながら医師がいろいろ説明をする。母はすっかり当惑しきっているようだけど、本人だってそうである。看護師さんが冷やしてくれているその手が痛くてこわばって、グーもパーもできやしないのだから。
「―――ふむ、そうですねえ、内出血もいくつか見られることですし、なにかこう、重たい扉にでも挟んだ、といったところですかな?」
その医師がマーリの顔を覗き込みながら問いかけてくるが、そんな覚えなどまったくなかった。そもそもそんなことをされればマーリだって泣き出してしまうのだろうし、今でさえ、なんだか責められているような気持ちになって、眼を赤く腫らしているのだから。
「とにかく消炎鎮痛剤と、あとその手を固定させておきますから、しばらくは無理に動かさないように。そうそう、先程のご主人と違って、入院しなくともお嬢ちゃんは帰れますよ」
いえあの身体と態度のでかいのは妹の旦那です、と母は一応の訂正を申し入れていたようだけど、マーリはますますわからない。美結とふたり、手を繋いで一緒に売店へ行っただけなのに。
マーリが思わぬ怪我をしてしまったので、あとは叔母に任せて早々に帰ることにした。
「マーちゃん、知らないうちにどこかで手を挟んだのかもね」
帰りのタクシーの中でも、母はギプスで固定されたマーリの手をだいぶ気にしているようである。炎症が治まるまでは心臓より高く上げていたほうが良いということで、マーリもなるべくそうしていたのだけれど、やっぱり疲れてきて、三角巾の中から出したりしまったりを繰り返していた。
「お母さん、これ、なんか臭いがして、嫌い」
「仕方ないでしょ、お薬なんだから」
それも不可抗力のひとつらしくて、マーリはすっかり気落ちしてしまう。
「……そんな顔しないの。じゃあ今夜は、マーちゃんの好きなものを作ってあげるから。何がいいの?」
「……べつに、いい」
「じゃ、カレーなんてどう? マーちゃん好きでしょ」
そこにはできるだけの養生をして早く治すように心がけて欲しいという母の願いもあったようだけど、やっぱり、大人はわかっていない。
目の前にぶらさがるカレーごときですぐさま前向きになれるほど、いまどきの子供というのも楽な仕事ではないのだから。
なんたって、明日も学校はある。
朝の決められた時間にきりきりと始まるのである。この不自由で嫌な臭いのする左手をずっと庇いながら、それまでには宿題の算数ドリルをやらないといけない。おまけに漢字の読み書きテストもあるらしいし。
マーリは母の前で大きくため息をついた。
怪我をしても休ませてはもらえない現実を思えば、ますます憂鬱になってきて、とてもとても、気の晴れるような気分にはなれなかったのである。
その日の晩遅く、マーリの寝入った後に、叔母が家に訪れることになった。
なにやら申し訳なさそうに菓子折りまで用意してきて、玄関の床の上に丁寧に手を支えると、そこで深々と頭まで下げてくる。実の姉に向かって――――
「姉さん、このとおり、ごめんなさい!」
「な、なあに、どうしたのよ、一体?」
とにかく家の中にあげる。この時間に人が来ることはまずなかったので、テレビの前の父親も発泡酒片手にステテコ姿ですっかり油断していた。それで寝室にまで戻ると、慌てて引っ掛けてあるスラックスを穿くのである。
「やあ、みっともない姿で、こりゃまた失礼」
そうしてお互い対座できる位置に落ち着くと、そこでまた叔母のお辞儀が始まるのだ。しばらくはじいっとしてなかなか頭をあげなかったけれど、
「実は―――」
叔母がふたりの前でこう切り出しながら、あのマーリの怪我は、美結のせいであると明かすのである。マーリの母は吃驚してしまって、その話をしばらくは黙って聞いていたけれど、どうにも俄には信じられなかった。
「ちょ、ちょっとまってよ。美結ちゃん、まだ小学校にもあがっていない子供なのよ。あんな可愛らしい子が、そんなことできるわけないじゃない」
「なら、姉さん、これ見てちょうだい」
叔母がバッグから取り出したハンカチの包みの中には、粉々になった三色ふりかけの容器があった。
「……これは?」
「マーちゃんが怪我したのを知って、美結が握りつぶしちゃったの」
マーリの母はその一欠けらを指で摘まんでみる。実に硬そうなプラスチックの破片だ。これを、あの可愛らしい美結がやったというけれど……。
本当に?
「父親譲りなのよ、たぶん……」
たしかに妹の旦那は身長が二メートルを超える立派な体格の持ち主で、脳の成分のほとんどが筋肉でできあがっている化け物でもあったけれど、はたして、後天的に獲得したそんな形質が子供にまで遺伝することなどあり得るのだろうか。
もとより、彼女は姉夫婦にそう明かしたところで不利になるばかりで、何を得するわけでもない話だけれど。
「話しだすと長くなるから……。とにかく、わたしも普段から美結に気をつけるよう口酸っぱく言っていたんだけど、今日、大好きなマーちゃんと会って、あの子、ついつい気が緩んでしまったみたいなの……」
そうした遺伝のメカニズムは未だ定かには解明されていないが、事実、親が子孫に対してそのような適応力を授ける事例がいくつも報告されている。
それが三人の兄たちを差し置いて、この美結が受け継ぐことになってしまったのだから困りものだ。筋力にふさわしい男子が持てばいろいろ世間の役にも立てられようが、はてさて、こんな可愛い娘が持っていても無用の長物。いやいやそればかりか、よけいな罠にでもなりかねないのだから。
うっかり助平心などを持ち合わせて近づこうものならば、あっと言う間に粉砕骨折である。
マーリも、そうしたものを海やプールでさんざんに見せられてしまったものだから―――
「お姉さん、ちょっとまだ、動かないでくださいましね」
「う、うん…」
こうして、今この場で美結好みのファンシーめいたメイクを施されながらも、何も言えずにじっと堪えていたのは、実はそういうわけなのだ。
もちろん、美結の方は良かれと思ってやっていることで、本人が嫌がっていることを知ったなら、これもまた違ってくるのだろうが、大好きなお姉さんが自分の手でより可愛く綺麗になってゆく様が嬉しくて仕方がないらしく、その点において、美結はマーリのたいへんな崇拝者であった。
「わあ、お姉さん、素敵ですよ!」
その出来栄えに自ら感激したように美結は嬉しがる。
手鏡を渡されたマーリの方も、まあ美結の言う通りに自分の顔がたいへん可愛らしく整えられていることに驚かされた。
「すごい。なんか自分じゃないみたい……」
「うふふ、何言ってるんですか。素材が良いからこそ、そんなに可愛くなれるんですよ」
「そ、そうかな……」
マーリも満更ではなかったが、やっぱりなにかこう、本心から喜べない後ろめたさもそこにはあった。ほんとうならもっと心から感謝してあげたい。べつに美結が嫌いなわけではないのだし、ただちょっと、あのときのトラウマさえなかったら……。
それでも、朗らかな声は続く。
「あとはお洋服ですね。実はお姉さんに似合いそうなものを、わたし、いくつか用意していたんです」
「ふ、服も?」
その身構えるようなマーリの言葉の内には、「やばい!」という感じが多分に含まれていた。
美結の選んでくれる服というものが、いつも過剰なまでにファンシーでメルヘンチックで、なおかつロリータでもあったのだから。
「ほら、見てくださいな。可愛いでしょう?」
美結の想い描くマーリの姿というものは、本人のお気持ちさえ排除してしまえば、その服に似合っていて大変ふさわしいものであった。
「あ、うん……、そうだねえ」
苦手なものに対する従順さ、マーリは型の如くに返事をする。
それから美結はその服をマーリの胸にあてがうと、再びにっこりとしてこちらが服を脱ぐのを待つのである。マーリはお腹が痛くなってくるようで、少し顔がこわばってきた。
「どうしました?」
「え、いや、ちょっとあたしには小さいかなあって……」
「そんなことないですよ。わたしはお姉さんの身体のサイズをすべて、ナノメートル単位できちんと把握してますから」
「ナ、ナノメートルって……」
つまりはDNA単位で、と美結は冗談めかして言ったつもりらしいが、あながち冗談とも思えないところが恐ろしい。
マーリは仕方なく着ている服を脱ぎかけて――――まあそのときも、やっぱり美結の嬉しがる気持ちを崩してしまうわけにはいかなかったから、少しも嫌そうにしたりせずに、とにかく笑うしかないのだった。
ところが、そこでふいに聞き慣れた音楽が鳴りだすのである。
突然のことに美結と二人、顔を向き合わせて思わず目をぱちくりとさせた。
「な、なんでしょう?」
「あっ、これあたしだ!」
マーリは自分のスマホが鳴っているのを知ると、すぐさまポケットから取り出し画面を見る。
「あれ、この子……」
そこには白玉君の名前が表示されていた。
マーリははっとして、思わず凝視してしまう。
なんと素敵なタイミングで連絡してくるのだろう、この男の子は。そしてこれがただの連絡でないことくらい、マーリにもすぐに理解できるのだった。
彼はまだバイト中のはず。となれば、店長、あるいはベテラン組のいないうちに、きっとなにか自分たちの手に負えないようなトラブルが発生したに違いないのだ。
マーリはその彼の名を表示したスマホをただちに耳に当てる。
『あの、もしもし、マーリさん?』
そこからした声は、天来の福音のようにしてマーリの耳にも心地よく届くのだった。