その伍 乃夕ちゃんとバイト
秋太くん……いやいや、白玉君はまだ乃夕のことをそんなに知っているわけでもないから、バイトに連れて行くよう頼まれたときには困ってしまった。
人の多い街の往来を、乃夕と一緒に連れ立って歩いて(?)いてはまちがいなく衆目を集めてしまうのだろうし、それどころか知り合いにでもうっかり見つかって、妙な嗜みをお持ちであると疑われでもしたらたいへんだ。なんたってこの乃夕、なにもしないでじっとしているだけなら、小さな女の子が好むような、たいへん可愛いらしいお人形さんなのだから。
それで白玉君は乃夕を連れずにすます工夫をいろいろ考えてみたのだけれど、その工夫はちょっとできそうになかった。
「だあめっ。わたしもついて行くの! わたしが人間に見られるようになった責任はあなたにも……ちょっとはあるんだから、わたしをおいてけぼりになんかしちゃ、だめよ」
「責任て、そんなの僕にあるの?」
「あるのっ」
「どんな?」
「そんなの、わたしが言えるわけないじゃない!」
と、なんだか分からないことをこう強く主張してくる。
「バイトの間だけ、家で待ってるだけなんだけどなあ。ねえ、僕のお母さんは料理が上手だよ?」
そこのところだけは「うっ」と、何かに胸をつかれたような顔をしていたけれど、
「でも、その間ずっと、あなたがどうなっているのか分からないじゃない。もしも彼女さんが来ちゃったら……」
乃夕の言うその彼女さんとは、当然、マーリのことである。
昨晩、お腹いっぱいになって漫画を読みだした乃夕の隣で、その残されたお弁当のおかずを食べているうちに、やっぱり連絡があったのだ。
「――――というかさ、そもそもなんで乃夕は僕なんかのところに来たのさ。僕なんかのところよりも、もっとこう、すごい資産家とか、有名な芸能人とか、人間を観察するにしたってそっちのほうが面白そうだし、居心地もずっと良いと思うんだけどな」
白玉君は考えれば考えるほど、こんな狭い部屋にまるで物語に聞くような妖精さんのいることが不思議に思えてならなかった。
昨晩から今朝にかけての一連のことだけでも、今までの常識を一息に吹き飛ばしてしまうほどの出来事である。この乃夕のやること成すことすべてが新鮮さに光って見えて、まったく興味に尽きないのだから。
「ねえ、白玉はわたしが嫌いなの?」
などと、乃夕が突然そんなことを聞いてくるものだから、
「そんなことないよっ、絶対、ない!」
と、白玉君は頬をぶんぶん振るって否定する。
「なら、連れってってよう」
そう言って、乃夕はやっぱりほっぺを引っ張ってくる。なにかこの娘にはそうしなければならない特別な強い理由でもあるのだろうか、とにかく、言うことを聞かなければ今の乃夕を大人しくさせるのは無理そうだった。
「わかった、わかりました。連れて行ってあげます」
「わあ、ほんとう!」
乃夕はたちまちに両手を挙げて嬉しそうにする。
「でもさ、あのマーリさん、会えるかどうかわからないよ。なんたって大学のテストといったら、やっぱり高校なんかとは違ってずいぶん大変なのだろうし、それに終わってもさ、疲れ果ててすぐに様子見になんか来れないでしょ。現にシフトも明日からになってるし」
それは必修科目のことで、選択科目の方はけっこういい加減なものも多いのだけど、まだこのときの白玉君が知る話ではない。
「なに言ってるの。女の子は好きな男の子と一緒にいたいものなのよ」
「そうかなあ? でもなに、そんなにも乃夕はマーリさん見たいの?」
白玉君は不思議そうに首をかしげる。
「うん、見たい。白玉にふさわしい娘かどうか、きちんと自分の眼で確かめてみたい」
まるで嫁に出す娘の相手を気にするお父さんのような口ぶりである。
とにかく、そのままの姿では目立って仕方がないので、
「………つまり、他の人にわたしの存在がバレなければいいわけでしょ?」
「そりゃそうだよ、バレたら日本中大騒ぎだ。それどころか、捕まって解体されて標本にでもされちゃうかもしれないよ」
「冗談じゃないわ。そんなことさせるものですか。わかった、絶対バレないようにするから。大丈夫、わたしにも考えがあるの」
「ほんとうに大丈夫かなあ」
「とらすと、みーっ!」
眼の前で羽の生えたちいさな娘の精いっぱいの決意で演じられるその言葉こそが、白玉君にはやっぱり気がかりで、たいへん不安になるのであった。
試験の終わったその日のお昼、マーリはさっさと家に帰ろうかとも思ったのだけれど、同じ学部の友人たちと一緒にぶらぶら学食へ行ってみる。
これから海外へ旅行にでかける楽しそうな人もいれば、実家に戻って両親の手伝いをしなくちゃいけないから大変だとか、まあそんな感じの連中と中へ入って席に着くと、中央のテーブルに他の学部の学生がひとかたまり、そこに奈々の姿もあった。
遠くから見ていると、テーブルに置いたノートを指さして彼女らは一頻り、先の試験での答え合わせでもしているのか、ずいぶん賑やかそうである。
マーリはこのところの疲れもあってか、あくびが出るのを噛み殺しながら、皆の会話の中でぼんやり頬杖をついていた。
もうテストはない。責務を無事に果たすことのできた者の喜び。微睡む中にあっても嬉しいような気持がしみじみ湧いてくる。
そんなとき、奈々はこちらを見てはじめて気づき、ちょっと赤くなって笑うのだ。
マーリもその奈々に手を振り返す。
基本、あの子は寂しがり屋で、自分に自信があるようでないから、皆で集まったときは常にああして何かを話してないと不安なようだった。中学の時には、そんな彼女の独演会にマーリはよく付き合わされたものである。
「あの英文科の女の子、マーリの友達なのか? よくできる子のようだね。英語も達者で、うらやましい」
マーリの対面に座る男子がそんなことを言う。
「その得意な英語を生かして、よく外国に出かけているようだけど……、なあに茂くん。奈々を狙ってるの?」
「狙ってるって、そんな、人聞きの悪い」
ふうん、とマーリは猫のような眼つきで、その彼の表情を推し量るようにのぞき見る。
「ふふふ、だめだめ。茂くんがどんなにイケメンだって、あの子、ちゃあんと彼氏がいるんだから」
「ああ、そりゃ残念」
そうしてかぶりを振って、心底残念そうな顔をした。
それが本当に残念なのか、それとも演技なのか、彼の噂を聞く限りでは、後者のようでもあるけれど。
「でもさ、なんかリーダーって感じで、そつがないよね。最近はああいう女子が増えてきたって感じだな。身近でもさ、ね、マーリ?」
などと、真打を迎えるがごとくの口ぶりに、マーリもちょっとむっとしてみせて、
「いったい誰のことを言ってるのよ」
「ああ、いやいや、そういう女子の方が、かえって繊細で傷つきやすいっていうか、ほら……」
どんなにイイ男であっても、毛を逆立てる子猫の前では如何ともなし難し。これがその良い見本となるらしい。とはいえギャラリーともなれば平気なようで、自分たちへ害が及ばないことを幸いに、ちょっとした悪戯心から、囃したててくる者がいる。
それで誰かが言ったらしい、「喧嘩するほど仲がいい」と、呟いたつもりで皆にも聞こえるように言うものだから、さっそくマーリの背後に何人かが寄って来て、
「え、なに。マーリってそうなの?」
「もう、茂くんと付き合っちゃえよ」
などと無責任に言ってくすくす笑うのである。
面と向かい合えば噛みつかれるのは分かっているのでその位置からの戯言なのだろう。まったく人の気も知らないで――――このマーリさん、意外にも大学ではいろいろ声をかけられていて、その幼い容姿の一番初めの被害者が彼だったわけなのだけれど、お互いの不名誉ともなるので、あえて口にしなかった。
やがて、マーリは業を煮やしたのか、
「ああ、もう、うるさい!」
と、周囲を一喝。
「このあたしにカレシができるわけないとでも思っていたの? ほっほっほ、お生憎様ね。あたしにもカレシいますからっ。心配ご無用!」
とにかくこの雰囲気を散らす事ができれば良いと思って、つい、そんなことを口にしてしまう。ところが―――
「ええ、マジ? こんどの被害者は誰?」
「だいじょうぶ? うちのアニキが弁護士の卵やってるんだけど、連絡付けてあげよっか?」
とまあ、こうなのである。
「あんたたちいったい普段からあたしを……いや、そういう眼で見ているのは分かっていたけどさ。ずいぶんと容赦がないじゃん」
「だって、マーリは我らがマスコットだからねえ。皆はこう冗談ぽく言ってるけれど、やっぱり心配しているんだよ」
と、女子の一人が言う。
「何を心配してるっていうのよ」
「あれ、知らない? 一部に熱烈なファンがいるって噂よ」
「やめてよね、もう」
その一部とやらがどう考えてもまともであるとは思えない。とはいえ、彼氏がいると言ったことは、まあ本当のことでもあるけれど。
あの可愛らしい容姿の白玉君であれば、たしかに自分の隣にあってもよく似合うのだろう。けれどもあれはあくまでごっこのつもり。いずれはあの男の子にも本心から恋焦がれる娘が現れるに違いないのだ。マーリはそれまでの露払い、いわばお手伝いのつもりだったから。
それにこのマーリさんも、まだまだ、心は花も恥じらう麗しの乙女である。
理想に憧れる情動は誰にだって止められやしない。きっといつかはあたしだって素敵な大人の女性となって――――
とはいえ、あの男の子がとても可愛らしく思えてしかたなく、思わず唾をつけてしまったのも、また事実なわけでして。
「そういえば、今頃はもうバイトに出てるはずよねえ……」
可愛い弟を心配する姉のようなつもりになって口にする。
久しぶりに我が愛車をぶるんぶるん乗り回すのにも、良い口実となろうから。
真夏の陽は白昼に天高くのぼる。その陽射しの下にさらされて、店へやって来る客も皆、汗ばんでいるようである。
お昼の忙しい時間帯は入り口近くのレジからずっと離れられないから、白玉君もちょっと上気したように頬を赤くしていた。
「お弁当、温めますか?」
「いや、家に持って帰るから。あ、箸もいらないからね」
「はい、わかりました」
夏の定番と言えばやっぱり冷やし中華に蕎麦だろう。
そう目論むこちらを尻目に意外とこってり系のものに人気が集中する。それでまあ、故障して一つしか使えないレンジが大変なことになってしまって、いらいらする客の応対をすることもしばしば、それでもなんとか無事にやり繰りしていた。
客の空く頃になり、ようやくバイトのリーダーから休憩を言い渡される。
白玉君は奥の事務室へ行くつもりで、レジ近くのコーヒーマシンのはるか向こう、駐車場わきに立っている大きなケヤキを見上げてみた。眼を細めても何が見えるわけでもないけれど、妖精さんがそこで待っているらしいのだ。
―――だいじょうぶかなあ、乃夕
バイト中、不審に思われてしまうので、わざわざそこにまで出かけて見上げるわけにはいかなかったけれど、今日のこの暑さ、さすがに心配になってくる。
それでよく冷えたお茶でも持っていってあげようと思い、事務室の冷蔵庫を開けてみたところ、
「あら、白玉。やっと休憩?」
中にそのご当人がいらっしゃるのだ。
乃夕っ! と思わず叫びかけて、両手で口をおさえこむ。
それで周囲を見まわして、近くに誰もいないのを確認すると、
「こらっ、乃夕。冷蔵庫の中に入ってちゃだめだよ!」
「えー、でも涼しいよ?」
「そりゃあ涼しいだろうけどさ……」
乃夕はそこで平然として、白玉君の騒ぎなどどこ吹く風のご様子だ。
お母さんが仕立てたばかりの服を着ていた乃夕は、ちょっとフォーマルっぽいデザインのワンピース姿で、それだけでもずいぶんと印象が違ってくるもの。
きちんと脚を折りたたんでおにぎりの横に畏まって、もちろんそれは白玉君への敬意などではなく、たんに冷蔵庫が狭いからなのだろうけど、まるで諸手に末広を添えぬばかりの上品な佇まい。馬子にも衣裳とはこのことなのだろう。
それを白玉君は両手で掬い上げるように持ち上げると、外の卓の上にそっと置きなおすのだ。
乃夕は不満そうなお顔で見上げて、さっそく文句を言ってきた。
「なあに、せっかく気持ちよかったのに」
「いくら気持ちよくてもダメです。冷蔵庫は食べ物をしまうところなんだからね。それよりも、他の人に見つかったらどうするつもりだったの?」
そこではじめて乃夕はあっと口にして、
「ああそっか、わたし、見えちゃってるんだっけ……」
と反省すること一頻り。けれども白玉君は他のことが気にかかる。
「なに? 前にもこんなことしてたの?」
「あるわよ。羽を動かすと身体が熱くなるから、夏は冷蔵庫の中がちょうどいい心地よさなの」
もちろんそれは人間に見えない時の話なのだろう。じゃなかったら、今頃世界はたいへんだ。
「でもさ、これ、食べ物を入れるところなんだから、やっぱりダメだよ」
「う……。まあそう言われると、たしかにお行儀が悪いかも」
乃夕は羽を唸らせ飛びあがると、冷蔵庫の扉を足で押し開けて、
「あなたたち、ここはダメなんだって。ほら、さっさと出るの~」
白玉君はびっくりだ。
「えええっ、まだいるのっ?」
大慌てで冷蔵庫の扉を大きく開けてみたけれど、中には賞味期限のあやしいものばかりが詰め込まれているだけで、とくに、乃夕らしき娘が入っているわけでもないらしい。
ところが、乃夕は周囲を見回しながら何やらぶつぶつ呟いているのである。そこにはちゃんとしたお相手が、つまりは見えないお仲間でもいるらしい。今まで聞かされていた内容からも、そのくらいのことは推測できた。
「あ、そうだ。白玉ちょっとそのまま」
乃夕はそう言うと、白玉君が開けたままの冷蔵庫の中へふたたび飛び込んでゆく。
「こらっ、乃夕」
「違うわよう。忘れ物とるの~」
その忘れ物とは、バイトにでかける前に乃夕自身が拵えたものだった。
メモ帳を小さく四角くちぎって、上に穴をあけて、糸を通して結ぶのはさすがに手伝ってあげたけれど、その長方形の紙に乃夕みずからがペンを取り、全身を使って支えつつ、『テスト運転中』などと、よたよたした字で書きあげる。
それを首にかけると、両手で持ち上げた髪の下に糸をしまい込んで、
「どう?」
これがまた偉そうに胸をそらして聞いてくるのだ。
「なんのつもりさ……」
白玉君も呆れたように嘆息する。
自慢げな顔をする乃夕の胸元には、テスト運転中と書かれた紙片が一枚ぶら下がっているだけ。何かで見かけたものを真似してそうしているようだけど、これが人に見つかっても大丈夫なような乃夕の秘策らしかった。
「きちんとこれしてないと、見つかったときに言いわけができないじゃない?」
そもそもお人形さんが言いわけをしてくる時点で、もうすっかりアレなのですけれど、せっかくの工夫なのだし、白玉君も乃夕の好きなようにさせていた。