風の学園 四
風の学園は、お花茶屋駅近くのお花茶屋伝道所の境内にある。詩音は、下校後、そこを訪ねて半分開きの門を通り、中へ入って行った。
そこは昭和二十四年に建てられた壊れそうな建物を、そのまま使っていた。開け放たれさ各部屋からは、都区内では珍しいほどの広さの園庭が見渡せる。早い時間であったためか、そこにはまだ詩音と同じか歳下の少年たちがまだ帰らずに残っていた。学校に行きづらい少年たち不登校児や彼らのために働く援助者などで満席だった。
元々葛飾区は、庶民的で暮らしやすいところだが良くも悪くも貧しい地域であり、神にとって宝である貧しい民たちも多く住んでいた。それゆえ、天のみ使いにより神の選びと恵みとが伝えられていた。「貧しい者は幸いである。恐れることはない。」と。そこに、風の学園があるのは至極自然なことだった。
室内外はどこも楽しく賑やかだった。ある少年達は数人で好きなサッカー主体のスポーツと好きな時間に五教科を学べるカリキュラムを組んでいた。ある少女は好きな時間に絵を描き基礎的な科目を自由に学ぶことで一日をすごしていた。
詩音が所在ない様子でそれらの風景を見ていた時、山形牧師が話しかけてきた。
「ここはいいところでしょう?。」
「はい。」
詩音はためらいながら答えていた。みんな楽しそうに過ごしている。しかし、楽しみを考えたことのない詩音にとって何がしかの居場所があるとは思えなかった。そこに突然ガタイの良い中学生の苛立った声が聞こえた。
「起きること割ることの全てのこと⁇。俺にはわからないよ。」
「だから、実際の数割る場合の数だと説明したじゃない?。」
援助者も困っている様子だった。確率の章らしく、場合の数や分数という言葉が飛び交っている。詩音は何気無く近づいた。詩音は思わず彼らに声をかけていた。
「野球の試合でフライが上がった時、キャッチャーが取るのは何回に一回でしょうか?この例ならわかるわよね。」
その中学生とその援助者は、ぽかんと詩音をみていた。算数、数学の得意な詩音には、基礎的な数学は難しくなかった。詩音は続けた。
「九人のうちの一人だとすると、九回に一回はとることになるわ。」
その次の瞬間に、その少年が答えていた。
「野球ならわかるぜ。……俺、小学生の頃ショートやってたんだ……。」
彼の語尾の声は何かを思い出したように急に消え入っていた。そこを離れるように詩音を導きながら、山形牧師がかたった。
「彼は不登校児ですが、もう中三で受験なので、こうして勉強を教わりにきているのです。」
ここにきている子供達は、人に対して何か躊躇いのような顔色を見せる。やはり何かを抱えているらしい。今の詩音にはよくわかった。
「いい教え方ね。」
背後を通り過ぎた若い女性から声が掛かった。職員らしい。その後ろ姿が権淑姫のように感じられた。いや、権淑香にも似ていたかもしれなかった。いや、知っているように感じたのかもしれなかった。
「ここに勉強しに来ないかい?」
山形牧師が言った。詩音は素直に答えていた。
「はい。」
次の日から詩音は風の学園に通い始めた。詩音は他の児童生徒と同様に好きな科目を持ち込んでいた。援助者は持ち込まれた教科に応じた援助を与えることになっているが、詩音の質問と取り組んでいる問題は日毎に難しくなった。しかも、詩音は質問以外会話をしようとはせず、詩音と指導者はすれ違いが多かった。このような状態だったから、日を追うごとに援助者は音をあげるをあげるようになった。詩音は山形牧師の想定より孤独なままで学習に貪欲だった。
この様子を見て山形牧師は、その詩音の姿を伝道所書記の宏に観察させて指摘した。
「彼女に孤独な殻から出てもらうには、彼女に自らのタラントを認識させなければ。愛に飢えているなら、愛することに敏感でなければ。」
宏は風の学園から車椅子で帰る途中、車椅子を押す詩音に語りかけた。
「風の学園で一生懸命に勉強しているみたいだね。」
「でも、指導者の方は、無駄な話をしてかえって邪魔になっています。」
「じゃあ、僕も邪魔だよね。」
宏は背後の詩音を見上げた。詩音は顔を伏せ、ためらいがちに上目遣いで宏を見た。
「いえ……。それはないです。」
宏は前を向き、続けた。
「ためらっているね。やはり、うるさいと感じているよね。でも、反抗期だから、そう感じるだろうね。それは我慢しなければ。」
宏は一生懸命なあまり、詩音の反応を確かめていなかった。他方、詩音はこの種の語り合いはだんだん苦手になっていた。ただうなづいている。そうして宏が一方的に話していると、詩音は一言大きく答えた。
「邪魔なんて一度も思っていません!」
その剣幕に、宏は口を閉じて背後を振り向いた。詩音の顔は宏を看病していた時の、幼くも必死な顔だった。それでも宏は父である顔を続けようとし、詩音の変化を無視して前を向いた。
家に着き、詩音が宏を介助しながら宏の書斎に着いた時、詩音は宏にすがりつき、ごめんなさいという言葉を繰り返した。宏は、詩音を憐れに思い抱きとめた。彼は再び父であることに失敗していた。宏は静かに一言を付け加えた。
「フリースクールで頑張るなら、他の子達にも勉強を教えてあげたらどうかな。」
「でも、それでは帰りが遅くなってしまう。私は宏さんを大切にしたい。」
「その愛を言うなら、あなたより後ろに続く者へも愛を注いでほしい。」
それは詩音にとって初めての感覚だった。ためらいがちに宏に聞いていた。
「でも、どうすれば?」
「君は一度、確率の学びに悩んでいた男の子に声を掛けていたはずだ。それを続ければいいじゃないか。君が人にしてあげられることはもっと有るはずだ。」
そう宏は言った。その時から詩音は風の学園の本当のメンバーとなった。教えることは復習にもなり、指導者からも態度を褒められた。自らの学習で打ち込んだのは数学、国語英語、理科、そして社会科だった。その学力は双葉中学でも評判となるほどだった。長いような短い一年だった。風の学園は、詩音にとってまるでやる気を絶えず燃やさせる風が吹き上げる嵐のようなところだった。
まもなく葛飾の貧しい民達にも再びよいしらせを天使達が伝えにくる。クリスマスを過ぎればすぐ受験だった。