表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/12

風の学園 三

 ようやく春らしい日の差し込んだベッドの上で、宏は眠っていた。詩音は再びその端正な寝顔に見とれていた。思わず駆け寄ってすがりたいという衝動に駆られ、それを我慢していた。

「お父さんのことが心配かい?。」

 泰造はそう話しかけてきた。詩音が宏を見つめる時の表情に強い何かを感じたのかもしれなかった。

「こんな状態でお前をここに来させるのは、避けたかったんだが。」

 泰造は詩音を連れ出して上千葉小学校への道を歩いていた。

「お前が私たちの家に引き取られた後、実は先日、お前のお父さん、宏さんの会社に、お前の母さん、つまり綾子が押しかけたらしくてなあ。お前を返せとか、お前の親権を返せとか、どこにいるか教えろと騒いだらしいんだ。それでも宏さんは取り合わなかったんだが、結局警察官が来て不法侵入で強制退去のうえ検挙されたらしい。その後、彼女の親である私たちの家を探し当てて詩音を返せ、金を貸せと騒いだわけなんだ。」

 詩音はいつまでも纏わりついてくる母親の狂気に身震いした。詩音は思わず歩幅が小さくなった。その様子に泰造も気づいていた。

「この辺りは、庶民的で暮らしやすいところだね。隣近所も助け合うところらしい。だからこそ宏さんは此処を選んだんだなあ……。実はな、綾子が宏さんのところへ来た直後、お前の身を案じた宏さんは、あの家をお前のとの共同名義にして買ったそうなんだ。表向きは会社の保養施設で、部外者立ち入り禁止、ガードマン常駐になっていただろう?」

 二人はさらに歩いて農産高校沿いの遊歩道を歩いていた。農産高校の温室群には様々な春の花が咲き乱れていた。もう日差しは春本番だった。

「宏さんはそのあと気が緩んだのか、倒れたんだよ。入院先の慈恵医大の先生によれば、以前の脳出血の後遺症で、大きい血腫があって、それが原因だったそうだ。すでに取り除いて退院もしたが、しばらくは安静にしておく必要があるそうだよ。」

 詩音は、温室の中に大切に世話を受けている蘭の花を見ていた。多分、宏も看護をされなければ生きて行けないのかもしれなかった。

「しかし、此処にいるにしても、食事と家事はどうしたものかなあ。お花茶屋伝道所の山形牧師にもお願いはしておくが……。」

「あの、私やります。」

詩音は思わず声を上げていた。

「母と暮らしてきた時は、なんでもやってきましたから。」

 泰造と別れ、詩音は同潤会住宅に戻った。帰宅後に宏の部屋を覗いて見たが、寝かされていた宏は痛々しかった。

「宏さん。」

詩音はやっと宏にすがりつくことができ、涙を流していた。ガランとした広い家にシオンと宏の二人きりになっていた。


 ふたたび中学を移った詩音は、新年度より双葉中学校に通い始めていた。しかし、家事や介護を考えて、予備校は辞めてしまっていた。五月の初夏、庭の芝生は勢いを増し、その周りの植え込みも新緑から万緑へと季節を変えていた。宏は季節の勢いに押されるようにようやくに脳の障害からリハビリを始めた。しかし宏は、部屋に詩音を入れたがらなかった。血が繋がらないことが二人だけはわかっていたとしても、宏は詩音の前で父であることをやめる気は無かった。しかし、詩音は宏を失いたくない家族として慕いまた心配をした。その慕い方は、父に対する思慕のようであり、また、かけがえのない相手に対する愛のようでもあった。


 リハビリは、もう一ヶ月も続いていた。五月の終わりころのある日、宏は詩音がいつも用意している昼食を済ませ、強い日差しの下で宏は初めて庭に出た。そのまま庭から同潤会住宅の道沿いに歩行練習を繰り返していた。長い間寝ていたために歩行訓練は困難を極めていた。しかも、暑い日差しに晒され、気づかぬうちに脱水していた。

 中間テストの終わった詩音は、早々と双葉中学校から帰ってきた。それは宏にとって幸運だった。詩音は、人通りのない同潤会住宅の曲がり角に、宏が倒れている処を見つけて駆け寄った。その時、詩音の呼ぶ声に応じて玄関先に居たガードマンも駆けつけて来ている。宏は詩音とガードマンによって床に運ばれた。宏は運ばれる途中で意識を回復したものの、横にされたその場で疲れ切ってそのまま寝てしまった。ブラウス姿で看病にあたった詩音も、冷房が効き始めた室内で覚えず宏の傍に寝ていた。

 ひととき、いやふたときほどたった後、薄暗い夕暮れの室内で宏は目覚めた。宏がその横に身じろぎする動きに気づいたが、それは添い寝をしていた詩音だった。詩音は宏が目覚めたことに気づいて抱きついたが、そのときの二人の状況に宏は驚かざるを得なかった。宏は詩音の幼くも必死な顔を見、そして暑さゆえにブラウスがはだけた詩音の胸の谷間が視線に入った。宏はいつのまにか成長した胸に一瞬凍りつき、振り切るように横を向いた。宏は言った。

「なぜ僕の横に?。なぜ僕を……。」

「それは…わたしの…宏さんだから。」

 その答えは微妙な言い方だった。その曖昧な意味のまま、宏は拒むこともできずに、また詩音を守れるのが彼しかいないことに気づいて、拒む返事はできなかった。

「僕を介抱してくれたんだね。ありがとう。でも……。」

「そのあとは言わないで……。」

 詩音は思わず宏を黙らすように腕に力を込めた。

「ごめんなさい。でも、わかっているわ。父親に添い寝なんていけないことだと言うんでしょ。でも、それは戸籍の上だけの話。私たちしか知らないだけで、現実には私は父が不明な不倫の子です。」

 宏は、今までの詩音が経験してきた虐待と孤独とを思い出し、自ら不倫の子と言った詩音の思いを憐れに思った。心の何処かで他人であることがわかっているためか、抱き寄せたいという強い衝動があった。しかし、詩音が自殺に追い込まれ、また父の愛に飢えている憐れな境遇であるだけに、詩音の父親であろうとすることを止める気にはなれなかった。自分を強いて言葉をついだ。

「ここにいるのは許すよ。しかし、僕のために塾をやめたのは良くない。君には、まだ本当の友人がいないだろう?。それは、親の愛が不足しているからかもしれないが、また、引っ越しばかりしていたからかもしれないが、今までの境遇が原因であることはわかっている。」

「…」

「君は僕にだけ注意を向けている。本当は外に目を向けることを覚えて欲しい。多分、それには自信が必要なんだろうね。僕は陸上部で高校や大学まで頑張ってこられた。友人が多くできた。保険会社に職を得たあと、友人たちのおかげで不動産会社を起こすことが出来ている。君は何が出来るかは、わからないが………。でも、何か一つでも努力を続けて見なさい。普通の人を凌駕するものを身につけなさい。凌駕できなくてもいい。ひたすら努力する姿だけでも、人は一目を置くよ。それが自信につながり、人の繋がりが始まるよ。」

「…」

「努力は孤独なことだから、君なら出来る。僕は応援するよ。そうだな、試しに、君は山形牧師の風の学園に通って見ては?。」


それは、双葉中学校の近くにあるフリースクールのことだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ