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導く者

 結婚式の打ち合わせの後、辻堂詩音はふと空を見上げていた。空を南から吹きあげる雲は、イースターにふさわしく再び春が確かにくることを約束していた。その空を見上げながら物思いにふけって居る詩音の隣に、祖父と若い未来の夫が座っていた。それぞれが詩音にとって心の支えであり、この二人が並んで居るこの時が詩音にとって喜びの時だった。祖父母と養子縁組をして辻堂と苗字を替える前、苦しかった中学高校時代を乗り越えられたのは、彼らとその友人達、そして知らぬ人々が応援してくれて居るという思いだった。それほどまでに、揺さぶられることが多かった。


 …………


 上原家から児童相談所へ連れてこられた詩音は、行く宛も生きる宛もなかった。詩音は、戸籍上の父、田山宏のもとへ行くしかなかった。しかし、児童相談所で掛けてくれた電話で父と電話で話した時には、電話口の父宏の戸惑いを感じていた。

「私、詩音です。ご無沙汰しています。」

 詩音は思い切って声を出してみた。躊躇しては道が閉ざされてしまう。

「詩音なのかい?。何年ぶりだろうか。お母さんの許を出てきたというのは、一体全体どうしたというのかい?」

 詩音は表向き父との同居に積極性を示しつつも、不安なまま児童相談所の職員と共に父の住む東日暮里のアパートを訪ねた。そこは、日暮里中央通りを南に行く途中、右に二つほど折れた、日陰となったところにあった。戸を叩くと、中から若い女の声が聞こえて来た。

「はーい。」

 カチリという音とともに、中から出て来たのは、なんのなく取り巻く雰囲気に覚えのある女だった。新しい結婚相手なのだろうか。電話口での父のためらいはこの人のせいなのだろうか。それとも、詩音が単に戸籍上の子のためだったからか。


「田山様のお宅ですか?」

「はい、そうですが。あなたは、詩音さん?」

「はい。」

「お待ちしていました。お入りね。」

 兼ねてから用意されていたかのような、少し狭目の部屋に通された。小さなタンスと卓袱台だけがある畳の部屋だった。西日がまだ強く当たる部屋だった。児童相談所の職員は既に父親たちとの事前の準備は済んでいたらしく、事務的な連絡と確認とをしたのちに帰って行った。詩音は一人で若い女と向かいあった。


「改めて、はじめまして。私は、アルバイトであなたのお父さんの秘書をしているの。田山常務は、まだ会社から帰ってくる時間ではないから、伝言をお伝えするわ。….………。近くの茅野台中学校には、明日編入手続きをしに行きます。夏休み明けから通うことになると思うわ。」

 この若い娘は、権淑姫と名乗った。淑姫は、詩音と同じように細っそりとした体つきだった。淑姫はテキパキと用事をこなしてアパートを出て行った。残された詩音は、再び不安な一人の時間を過ごすことになった。十年近く会っていない父親と言う人はどんな人なのだろう。その人は、血の繋がりがないことを知っていて迎えてくれているのだろうか。中学校へ行くとして、どんなところなのだろう。これからどんな生活になるのだろう。朝晩の食事はどうするのだろう。教材や制服は?。母にカバンさえ売り払われて、手元には教科書とリコーダーしか残されていなかった。いろいろな不安が渦巻いていた。特に、高校進学を希望する詩音は、そのことだけでも頼み込みたかった。


 夜遅くになって、宏が淑姫を連れて帰って来ていた。

「寄って行ってくれないかい?」

「田山常務、お嬢さんとはしばらくぶりですか?」

「そうだな。」

「それなら、これから親子水入らずですよね。お邪魔してはいけないので、私はここで失礼します。」

「そうか。それは残念だ。娘も君を頼りにしているだろうから。」

 ドアの外で、そんな声がしていた。いきなり父親という人と二人きり?。そんな戸惑いと不安とを淑姫はスッと理解したかのように、立ち寄ることに変更してくれていた。

「そうでしたね。お嬢さんはまだここでの生活に慣れていないのは存じ上げています。ですから今回だけは特別に、立ち寄らせていただきますね。」

 詩音は思わず名も知らぬ自分の守護者に感謝していた。


 詩音は、九月始めに茅野台中学校に編入学した。ちょうどその月の中ほどが学園祭の時期だった。夏休みの終わり、学園祭の直前に編入してきた詩音は、既にクラス催しで活動して一体感のあるクラスでは、孤立感を感じざるを得なかった。放課後にクラス全員が加わるはずのミーティングも、知らされていなかった。それどころか文句をいえば、クラスメイトたちは異口同音に「後から来やがってタダ乗りかよ。だから、よそ者は嫌なんだよ。」と言ってはばからなかった。さらに、編入したクラスでは詩音が貧しい在日韓国人という噂が立っていた。土曜の夜さえ多忙で不在の宏の代わりに、その秘書権淑姫が編入手続きに同行してくれたのだが、その彼女の名前とあまりに質素な衣服のせいで、噂となったらしかった。たしかに在日韓国人も多い地域はあったが、彼らは地元の中学に子女を通わせることは珍しかった。それでも、当の噂は一人歩きをし始めていた。

 犯人のわからない嫌がらせが繰り返されていたが、父宏や淑姫に相談することも考えつかず、ここでも詩音はじっと寡黙なままで耐え続けていた。

 学校祭当日の土曜日、詩音はクラスの催しに参加することもできず、学校を出てさまよっていた。誰も詩音に気を留める者はいなかった。

「ここには、私の逃げ込めるところはない。もっと北へ行けば、荒川の河川敷へ行ける。」

 詩音はそうぼんやり思いながら尾竹橋通りを北へ向かっていった。二十分ほどさまよい歩いた頃、そこはもう尾竹橋通りと都電線路が交差する町屋のあたりだった。まだ荒川は遠い。そう思いながら、詩音は線路沿いの脇道に立ちながら都電が走る線路を見つめていた。不意に、母親からの仕打ちや急に目の前に現れた父というには若い男、その後に続いた一連の事柄が全て辛くなっていた。視界は涙で滲み、声のない呻きと流れ落ちる泪を止めることができなかった。そうして、緑の新型車輌が差し掛かったとき、詩音は助けてと呟きつつ運転手を見上げながらふらりと線路へ入っていった。

 そのとき、後ろから制服の首周りを強く掴まれた。引き止められた詩音の体の前を都電の車両がガタガタ通過して行った。後ろを振り返ると、それは宏だった。

「危ないよ。」


 宏は今までほとんど詩音と話せないでいたが、それでも淑姫に促されて学園祭を見に来ていた。しかし、参加もせず校内から出て行く詩音を見つけ、後ろから見守っていたのだった。

「どうしたの?」

 その後を淑姫がひきとって話しかけて来た。

「詩音さん、気をしっかり持たなければいけませんよ。」

 詩音ははっと我に帰ったような顔をしたが、そのあとはただ首を縦に振っただけだった。宏は詩音の右手を掴んでタクシーに乗り込んだ。淑姫も助手席に乗りこんだ。

「荒川の土手までお願いします。」

 暫く走り続け堤根で降り立った。三人が土手を登りきると、眼窩には河川敷のゴルフ場や運動場が広がっていた。

「人間は孤独なものさ。」

 土手のグリーンベルトに座りながら、詩音は宏を見上げた。淑姫は、遠くからこちらを見ている。

「詩音さん、今ここにいるのはふたりだけど、いずれ年配者はこの世を先に去り、君は一人になる。でもね、でも君にも永遠に近くにいて見守る方がいる。例えば僕は君の母親に捨てられて孤独にならざるを得なかったけれど、見守られながら生きてこられた。そうして君に会えた。君は自ら孤独な生き方をしているね。でも、その若さでそれではダメだ。君はせっかくここまできたんだよ、だから僕のところへおいで。」

 しかし、詩音の目にはためらいが見て取れた。

「ああ彼女ね。いつも来てくれる淑姫は、いろいろ気づいてくれる頭の良い子だけど、あくまでも雇われ人さ。僕との距離感をよくわかっているよ。」

 詩音は首を横にふりながら、今まで避けていた宏を初めて見つめていた。

「私は、とても、あなたの娘などと言えません。でも、どこにも行くあてがなくて……。」

 詩音にとって、いま三十六歳の宏は仕方なく一緒に住み、それがきっかけで急に距離がとても近くなったような印象だった。詩音が幼い時にみた宏の印象は、毎日遅くまで働いてくる頼りない大人に過ぎなかった。今は、父親というより、血の繋がりのない他人である教師か兄のような存在といったほうが近いかもしれない。

「君は、仕方なく僕のところへ来たんだよね。それに、君が小さい時も、あまり一緒に居られなかったよね。僕はそれを認識しているつもりさ。だから、僕は君にあまり関与する資格はない。でも、命だけは大切にしてほしい。」

 宏はそれだけいうと、黙っていた。詩音は何も答えなかったが、詩音には、血の繋がりのない大きな兄のような宏だからこそ、彼が全てを見通しているように感じられた。しばらく経ったあと、宏は振り返って淑姫に目でもう心配ないというかのように合図を送った。

「君はあまり喋らないね。君の母親やお婆さんとはだいぶ違う。同じ血縁とは思えないほどだよ。まるで老成した知恵があるように思える。」

 淑姫がギデオン協会と書かれた薄い本を手にしながら近づいて来ていた。宏は大切そうにそれを詩音に手渡した。

「これは君の母親のお父さん、つまりお爺さんから僕が貰った本。本当は君の母親の物のはずなんだが、彼女は新品を捨てたんだ。捨てたからそれを僕が貰ったのさ。これは、今では僕の足のともしび、僕の道の光さ。いまは君に譲るよ。そこに書き込んだメモは、君たちが僕を捨て去った後に僕がなんとか歩んで来こられた青春、導かれてきた道さ。多分、君の役に立つと思うよ。君のお爺さんからの教えは、君の母親が豚みたいに捨て去ったけれど、至宝だよ。だから私が代わりに君に伝えるべきだろうし。」

 多くの説明書きや落書き、そして念を込めたかのような祈りの言葉と涙の跡で埋め尽くされていた。『私のもとに来る人を私は決して見捨てない。』 そう書かれていた。しばらくして、宏は気がついたかのように宣言した。

「さあ、君の中学校を紹介してほしいね。」


 詩音は悩みながらも、中学校生活の過ごし方を工夫して行った。父宏はある程度家計にゆとりがあるらしく、詩音は自ら希望して中学の下校後に御茶ノ水の予備校に通うようになった。そんな孤独ながらしっかりした生活を始めた詩音だった。

「もう、大丈夫ね。」

 そう言って、淑姫はアルバイトもやめ、宏と詩音の前から去っていった。


 そんなことが続いても、宏の生活は朝早くから夜遅くまで不在のままだった。その歳も終わりに近い雪の日だった。したたかに濡れ、冷え切った詩音は、夜になって強烈な悪寒に襲われていた。今までの無理が響いたためだろうか、詩音は風邪をひいたのだった。詩音は食事も取ることもできず、高熱を出して畳の上でそのまま寝込んでしまった。

 宏はその日、深夜に帰宅した。茶の間の畳の上で簡単に毛布一枚で震えながら寝込んでいた詩音を見つけた。宏は、詩音の熱の高さと異常な体の震えに驚き、救急車の手配をしつつ、入院の準備も整えていた。

 救急車が来るまでどのくらいだったのだろうか。雨脚はどんどん強く、その音だけが二人の周りを包んでいた。

 病院では、一通りの検査を受け、抗生剤と頓服、坐薬が処方されていた。見立てた医者は、ホッとしたように診断を宏に伝えていた。

「間に合ってよかった。髄液を検査しましたが、菌が入り込んではいないようなので、よかった。ただ、今は入院ができないので、家で看病してください。」

 雨の中、宏は詩音を抱えながらタクシーで帰宅した。ふと、検査結果を見ると、血液型はABと記載されていた。宏はO型であり、母親の綾子はB型のはずだった。

「何かの間違い?。この子は僕の子供ではない?。」

 しかし、戸籍には間違いはなかったし、児童相談所の職員による手続きにも瑕疵はなかった。ただ、結婚の前後に、この子の母親は夜まで仕事と称して、数ヶ月の間に深夜帰りが遅かったことがあったのを思い出していた。それに詩音自身が、宏の娘ではないと言っていたのを思い出していた。聞いた時にはあまり気にも留めなかったのだが。

「まさか。」

 宏は詩音を布団に寝かしつけてから、詩音の持っていた連絡先から綾子に電話をした。綾子が出た電話口には、パチンコ屋の音が響いていた。

 もしもし。田山です。

「あんた、宏……。何の用だよ。」

「詩音さんの血液型がAB型だった。私の血液型がO型で君がA型だから、僕は父親ではないことになる。とすると、彼女の父親は誰なんだ?」

 綾子は答えなかった。電話口には、賑やかな音楽が流れていた。

 やがて、綾子は開き直って答えていた。

「そうさ。私の枕営業の結果さ。それに、あんたみたいな頼りない男には、なんの楽しみもなかったしね。」

 既に離婚して数年経っていたが、宏は勝手に家を出て行った綾子を改めて見損なっていた。

「そうか。詩音さんもあんたのところから逃げ出して正解だったな。」

 宏は綾子が何か言い返してくる前に、電話を切っていた。熱で苦しむ娘を前にして、宏もまた苦しんでいた。


 熱と呼吸困難に苦しみながら、夢を見ていた。それは、幼い時の怪我の時の記憶だった。いまの中学のクラスには誰も友人らしい人間は、いるはずはなかった。それでも、詩音は、熱と呼吸困難に苦しむ詩音を介抱してくれる者をそばに感じていた。幼い時、手当てをしてくれた民生を思い出していた。詩音が朦朧とした意識の中で断片的に覚えているのは、大人になった民生のような男が詩音をタクシーで病院へ担ぎ込んでくれたこと、清拭や着替えをしてくれたこと、がっしりした腕で詩音を抱えてトイレにまではこんでくれたことだった。苦しむ詩音の体を支え続け、ひたいや背中の汗を拭き取り、痰を出させるために背中を一晩中さすり続けた手と腕は、同級生の民生というより、疲れを知らぬ剛健な筋肉質のそれらだった。坐薬の処置を受けてさえいても、なぜか恥ずかしいというより全て身を任せて甘えてしまいたいという妙な安心感を感じていた。

 しかし、介抱していたのは父親の宏だった。彼は既に三日も会社を休んで不眠不休の看病をしていた。その甲斐があって、詩音の熱が下がり始めていた。この時まで、宏は無我夢中だった。呼吸困難への対処、痰の処置、抱き上げや、背中をさすったりすることには、やがて慣れていった。しかし、 自分の娘と言っても、急に現れたローティーンの着替えや清拭には緊張を強いられ、全くなれることはできなかった。わざわざ明かりを消し、目に入れぬようにしていたが、そうしているうちに、熱の下がった詩音は、夢うつつのままに両腕を伸ばして宏の首に巻きつけていた。宏が驚いたことには、そのまま詩音は泣いていた。

「詩音さん?。」

 低い囁きを耳にした詩音は、目を覚ましていた。病気で迷惑をかけてしまっては、捨てられてしまう。幼い心にそう思った詩音は、黙って大胆にならざるを得なかった。詩音は宏を求めるように両腕に力を入れていた。宏は、不憫に思い詩音を抱きしめていた。二人は、まるで親子の時代を取り戻すかのようだった。しかし、何も身につけておらず、涙にくれていた詩音のその行為は、ティーンは慣れていないどころか能動的に男女間のイニシアティブも取ったことのない宏には、目眩と幻惑、さらには一瞬の衝動を呼び起こすに十分なきっかけだった。しかも、詩音の呼びかけは、宏にとって衝撃的だった。

「宏さん……。お爺ちゃんの前でしか泣いてはいけなかったのに……。宏さんに泣いてすがってしまって。許して下さい。父さんじゃなかったのに……。」

 詩音は宏を父親とは思っていなかった。それどころか、このままでは……。この子は愛に飢えている。しかし、このままでは二人とも誤ちをおかす。我に帰った宏は、首に強く抱きついている詩音の両腕をゆっくり解いて、詩音のひたいにキスをして休ませていた。

「何もする必要はないよ。私は決してあなたを見捨てない。安心しておやすみ。」

 そう言って、宏はひどい寝不足のまま、買い物に出かけて行った。

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