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母との別れ

お御堂の出口は、春の南風が関東特有のシルトを巻き上げて、埃っぽくなっていた。辻堂泰造は申し訳なさそうに呟いた。

「ごめんなさいね、目がもう少しよく見えていたら、きれいに掃除できるのだが、白内障でよく見えないんだよ。」

上原民生は老人の優しい声に共鳴するように、昔の中学の頃から高校の頃までを思い出していた。


………………………


三田中学校へ進んだ田山詩音は、二年になってから高校へ進学することを半分以上諦めていた。学力は、校内で一、二番ほどであったが、母親の収入だけでは進学することが難しそうだった。ながく会っていない父親の援助を得ることには、母親の逆上することが分かっていたため、考えてはいなかった。それどころか、綾子の辻堂の実家の援助でさえ、綾子は認めなかった。それでも詩音は貪欲に生きるための工夫を惜しまなかった。

 二年の夏休みとなっても、母親の綾子は相変わらず子供と家庭を顧みなかった。それどころか、賭け事のために神頼みをすることにも熱心になり、夏の夜を良いことに遅くにまでかかって浦和のお憑き様という怪しげな祠に通う有様であった。他方、夏休みの前に詩音は自らすでにセコハンで品物を買い求めることを覚え、最低限の衣服や靴、鞄などは、上手に揃えていた。裁縫は言うに及ばず、見よう見まねで大根やカブの葉を利用したり、田舎ならではの芹や野草まで食材とすることから、中華料理のようなものを作ることまでこなしていた。また、近所を回って空き缶やダンボールを回収して稼いだり、他人の家の掃除を請け負って小銭をためていた。無論、三田中学校では、日頃から資源回収と称してアルミ缶や段ボール、布類を集めていたことをヒントに、収入となりそうな事には貪欲だった。その大人びた考え方は、守護者が教えたのかもしれなかった。

 爪に火をともすような思いで貯めた金は、彼女が使っている食器棚の奥に隠し込んでいた。それは無論、空き巣の目を避けるためだった。しかし、ある日、それだけがなくなっていた。詩音は、もしや、まさか、と思いながら出かける前の母親に聞いていた。

「お母さん、ここにあったお金を使った?」

「ああ、それね。給料日前で、お金がないのよ。いつか返すから。」

「何に使ったの?」

綾子は我が子ながらうるさく感じた。

「なんでもいいじゃないの。」

しかし、詩音は数年間かけて隠し貯めていた貯金が横取りされた事に、怒りと諦めとを感じていた。

「よくないわ。私が将来の学校のために貯めておいたお金なのに……。全部使っちゃったの?」

「必要なものがあったのよ。」

「必要なものって何?。教えて!」

「賽銭にしたわよ。お憑き様に『私の金だと賭け事で汚れておる、稼ぎの金でないといけない』と言われたから、あんたの稼ぎをまとめて使ったのよ。」

「纏めて?。なんだってそんなのに使ったのよ。」

「だから、いつか返すと言っただろうが。」

 言い合いの末、詩音は諦めざるを得なかった。隠し貯めていた数万円は、すっかり取られていた。


次の土曜日、綾子が出かけた後、質屋から電話を受けた詩音は、その知らせに驚いた。

「田山さんですか?」

「はい?」

「預けられたカバンに、娘さんの教科書やノートがありますが、いかがしましょうか?」

「……。」

「取りに来てもらえませんか?」

「はい。」

 その電話を受けながら、詩音は自分の持ち物をしまっていたみかん箱の周りを一瞥した。すると、普段その周りにおいていたリコーダーや幼い頃に祖母からもらったカバンがなくなっていた事に気づいた。詩音はその足で質屋へ向かい、教科書やノートを返してもらって来た。

 恐る恐る綾子に電話をかけて見ると、その電話口にはパチンコ屋特有の騒音が聞こえていた。

「いま忙しいのよ。」

「私のリコーダー知らない?」

「知らないわよ。」

「カバンは?」

「知らないわ。」

「じゃあ、どうしてカバンの中にあった教科書やノートが質屋さんにあったの?」

向こうの電話口では、慌てた様子が感じられた。答えはなかった。


 夏休みの間に始めたバイト先に預けていても隠していても、母親ということで綾子が取りに行けば雇い主は全てを渡してしまっていた。どこに隠し貯めても、見つけられて横取りされることが繰り返された。その都度言い合いをしても、そのうちに返すからというばかりだった。そればかりか、台所の鍋やフライパンなどあらゆる金属がいつの間にかなくなっており、料理もできなくなっていた。


「お母さん、フライパンや鍋はどうしたの?」

「無くたって良いと思ったから、売っちゃった。」

「食事はどうするの。一昨日から朝ごはん抜きだし、夕ご飯がパチンコの景品だなんて……。」

「昼に給食をたくさん食べれば良いじゃないか?。」

「せめて私の稼ぎを返してよ。」

「おまえは黙って家族のために働けば良いんだよ。それに、使っちゃったから無いよ。」

「そんなのおかしいよ。」

「おかしく無いさ、お前は私の娘だからね。」

「それなら、お父さんのところへ行く。」

「何言っているんだい。」

母、綾子の顔色は怒りでどす黒くなった。

「それなら行けば良いさ。でもね。あいつはおまえの父でもなんでも無いさ。血が繋がって無いんだから。」

詩音の顔色が変わった。

「どう言うこと?。」

「あいつは確かに戸籍ではおまえの父さ。でも、あいつの前の男がおまえの父だよ。だから、あいつがおまえの面倒を見てくれるわけがないだろうが。」

詩音は、自分の道を見失ったように思えた。ここでただ耐えていくしかなかった。


 そんなぎりぎりの生活をした夏休みが終盤のころ、詩音が中学校の担任に相談した時には、二進も三進ももいかない状態だった。

 そんな夏休みの八月の日中、連絡を受けたのか、残暑の強い夏日に光った白シャツと白ズボンの若い女が母親不在のアパートを訪ねて来た。その若い女は権淑香(ごんよしか)と名乗った。年の頃は十八、九のように見えた。

「貴女の母親が取り憑かれて賭け事に狂っていることが、天にも伝わって来たのよ。このままでは貴女の全てが吸い上げられてしまうって。だから今から、ここを離れましょう。」

「でも、どこへ?それに、母に無断で出て行くわけにもいかないから……。」

「でも、伝え聞くところ、怪しげな祠に通っているあなたの母親は、怪しげなあいつらの間でさえ物笑いになっているほど賭け事に取り憑かれているって。」

 不思議なことだった。怪しげな祠にお参りしていることは、綾子のほか詩音しか知らないことのはずだった。

「さあ、手遅れにならないうちに。このままでは貴女もお母さんもダメになってしまうわ。」

「でも、もしかしたら迎えに行ったら直ぐにパチンコをやめてくれるかもしれないから……。」

「うーん、まぁそれなら………。ここを出て行く必要はないわ。」

「もしかすると、少し経ってからやめてくれるのかもしれない……。」

「それなら、やはりここを出て行く必要はないわ。」

「すみません、怒らないで下さい。もしかしたら、一週間先からパチンコを止めると言いだすかもしれません。」

「それでも、やはりここを出て行く必要はないわ。」

「あの、もう少し、少しだけ、また怒らないで聞いてくださいますか?。もしかしたら私からのお金ががなくなるまで、今回だけやらせてくれと言うかもしれません。」

「貴女がそれでいいなら、ここを出て行く必要はないわ。」

 こうして淑香は詩音を連れて母親を探し回ってくれていた。しかし、残念な予想通り、彼女は綾子をパチンコ屋で見つけていた。淑香は思わず怒鳴り倒していた。

「あなた、母親だろう。娘の稼ぎを根こそぎ横取りしてパチンコ?。」

「見つかっちゃったか。詩音!お前が裏切ったんだね。恩知らずの役立たずめ。」

 綾子は詩音に毒づいたが、詩音はじっと黙っていた。それを見た淑香は詩音を憐れに思わざるを得なかった。それだけに、母親の態度は口惜しかった。

「いい加減に終わりにしないと。」

「もう直ぐ勝てそうなんですよ。これもストレスの解消ですよ。」

「いい加減にしなさいよ。それでも母親なの?」

「もうやめて、お母さんを悪く言わないで。」

 詩音はそれだけを言い、淑香の腕を引っ張り、そこを離れて行った。そのまま詩音は帰宅の路を歩いていた。先ほどまで一緒だったはずの淑香は、憐れむようにまた励ますように詩音の肩を叩いて別れを告げた。詩音は淋しさのあまりすぐに振り返って見たが、もう誰もいなかった。

 夜になっても、綾子は帰ってこなかった。その代わりに誰かがドアをノックする音がした。玄関にはアパートの大家と見知らぬ初老の男が立っていた。

「私は児童相談所の職員で、矢島と言います。」

「昼にも、若い人が来てくれたわ。」

「はて?。そうですか?。児童相談所からくるのは私が初めての筈ですが?」

妙な話だった。


 児童相談所の矢島は、日を改めて綾子と詩音とを呼び出した。児童相談所では、綾子が母の自覚を持ち続けているかどうかを見極めかねていた。

「これからはパチンコをやめます。」

「今まで何回そのセリフを言いつ付けてきたのでしょうか?。」

 綾子は職員と会うたびにこんな繰り返していた。しかし、詩音が小学生の頃から今に至るまで、辞められたためしはなかった。綾子は言った。

「職員さんたちにも言われたわ。だから、もうやめるわよ。」

「そう……。」


 詩音は半信半疑であったというより、期待はほとんど出来なかった。立会いの職員はこう引き取って終わった。

「一応、お嬢さんの命にも関わりますから、一時的に施設で過ごしてもらいます。それから一週間後の土曜に会いましょう。」


 その土曜日になった。その日、綾子は遅れていた。詩音はまた嫌な予想が見えていた。母綾子の時間の過ごし方が乱れているときは、心の覚悟も大きく乱れ、それが増幅しているものだった。果たして、会って早々、立会いの職員がトイレに行ったすきをついて、金の無心をしてきた。

「ねえ、少しだけよ。稼ぎを持っているんでしょ?。」

詩音は情けなくなって母親に手持ちの金を渡した。

「なんだよ。これだけ?。態度が悪けりゃ稼ぎも悪いか。恩知らずめ。」

 詩音の心を荒らすいつもの母親の言葉だったが、稼ぎと働きとの全てを捧げ尽くした詩音は、もう、働く意欲はおろか生きる気力をなくしていた。苦しみがいつまでも続くことに耐えられなくなっていた。住処を去るつもりだったのか、この世を去るつもりだったのか、詩音は母親に心でサヨナラを告げて居た。今まで頑張ってきた心は、突然折れてしまった。今まで耐えてきた涙が流れていた。誰も拭き取ってくれない苦い孤独な涙だった。詩音はそれでも、ふと、淑香が傍で支えてくれているような幻を感じていた。こうして詩音は、中学三年年の初秋に母と別れていた。


 民生委員の上原家に詩音が連れてこられたのは、その夜だった。詩音は、長かった髪をバッサリと切 っていた。彼女は風になびかせる髪もなく、何かに注意を向けるでもなく、目は虚ろだった。詩音独特のかすれるような高い声は、さらに掠れていて、民生は彼女の声をよく耳をそばだてなければ聞き取れないほどだった。ましてその心の中は知ることもできなかった。

 詩音はそのまま加須の児童施設へ預けられる事になった。その後のことを民生は父親や噂から聞くだけだった。

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