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母と娘

 辻堂泰造は、お御堂の出口から見えた皐月の日が眩しかった、それは、補助してくれる孫の辻堂詩音や上原民夫の眩しさだったのかもしれない。そして、彼らを目を細めながら見るとき、娘綾子の厳しい態度と比較せざるを得なかった。泰造は目の奥で、今では孫詩音もよく似てきた若い頃の娘綾子の姿と、大学を卒業してから後の妻悦子と娘綾子との確執を思い出していた。


………………………


 盛夏の路面は、アスファルトの溶けた臭いが立ち込めることがある。中央線沿いの道も、そんな昼間のにおいがようやく収まる頃だったろうか。辻堂悦子は、市ヶ谷駅近くの法政大学で開かれたシンポジウムに、夫の泰造とともに参加した帰りだった。


 悦子は、この大学の四年生になった娘綾子の内々定を知り合いの教授の伝手で知り、早速お礼の電話をかけることにしていた。娘の綾子は不在だったが、悦子は夫や子供の不甲斐なさに目をつぶっていることができず、本人たちの不在には頓着せずにしばしば思い立った時に直ぐに行動し勝ちだった。その悦子の携帯電話に、綾子からの呼び出し音がなっていた。その心持ち控えめに鳴った電話を取ると、綾子の心配そうな声が聞こえてきた。

「お母さん、私の教授から内々定を伝え聞いたと思うけど、あちらの会社には絶対に電話したり訪問したりしないでよ。」

「何を言っているの。お世話になるんだから、辻堂悦子たる私がご挨拶するのは当然でしょう。」

「困るわ、そんなことされちゃあ。」

 夫の泰造も心配そうにしかし控えめに口を出してきた。

「綾子がせっかく獲得してきた内々定だよ。電話するのはあまり良くないのではないかな?。」

「そんなことはないわ。この私がお声をかけることが大切ですよ。名前をご存知いただけている方々に対して挨拶をしないことこそが、相手様に失礼でしょ。」

 悦子にしてみれば、親であればお礼をするのは当然であり、権威ある母親の地位をこの夫と娘は分かっていないと思っていた。しかし、娘にしてみれば、迷惑千万なことであった。それでも悦子は内々定を出したばかりの綾子の訪問先に電話をかけていた。

「いつもお世話になっております。毛野物産株式会社です。」

「もしもし、わたくし辻堂悦子と申します。今度、娘がお世話になるそうで。」

「はい?。」

 営業の人間に、採用の話がわかるはずもなく、電話口の担当者は混乱してしまった。実は会社にはこれだけでも迷惑千万な話なのであるが、悦子は混乱に拍車をかけるようなことを言い始めていた。

「私の娘がお世話になるということで、お電話を差し上げたのですが?。」

「はあ?」

悦子は電話口の相手が要領を得ないと感じ、自分の名前を知らないのかと考えてしまった。

「わたくしの名前ぐらいは聞いたことがあるでしょ?。辻堂悦子と申す教育者よ。」

「どのようなご用件でしょうか?」

「私の娘、辻堂綾子がお世話になる、と申し上げましたが……。」

 綾子の言葉の調子には、相手へのいささか侮蔑の印象が含まれていた。電話口の相手は、それを感じたのか上司に相談している様子だった。しかし、悦子にしてみれば、総務や営業の現場、組織のあり方を知るはずもなく、ただマスコミで少しは知られた自負だけが善悪を決める根拠だった。

「もしもし、上司の朝倉と申します。この度は部下の教育が不行き届きで申し訳ありません。」

 上司まで出てきたことに、悦子にしてみれば、いささか面倒臭くなっていた。このまま電話を切ろうかと考えたところに、課長の声が聞こえてきた。

「あのー、間違いでしたら申し訳ありませんが、採用のお話ですか?」

 課長の朝倉の脳裏には、モンスターペアレントという言葉が浮かんできた。困った有名人が、子の内々定を受けて挨拶しにきたらしい。課長の朝倉の態度は、慇懃無礼なものになっていた。

悦子は、思わず、答えていた。

「そうですよ。そのために、私が電話をしているの。」

「それでしたら、人事部長へつなぎます。初めからそちらにおかけになったらよかったと存じますが……。こちらは営業の一支店の無学な人間に過ぎませんので、あなた様のお名前など存じ上げませんでした。申し訳ありません。大変お手数ですが、そちらへお話をしていただけますか。」

 こうして人事部長へ繋がれた。しかし、現場を混乱させただけでも、会社にとっては大きな迷惑だったうえに、人事部長に対応させたとなっては、内々定の段階に過ぎない綾子の印象が、悪くなるのは当然のことだった。

 次の日、綾子は久しぶりに実家に帰っていた。その彼女の携帯電話に毛野物産からの電話が来ていた。

「はい、辻堂綾子です。」

電話に出た綾子の表情は、困惑から怒り、そして決意を秘めた表情に変化していった。

「お母さん、毛野物産へ電話したのね。」

「そうよ。」

「何をいったの?」

「私の娘なのでよろしく、とね。」

「うーん、なんで電話したのよ。今、人事部長さんから、苦情があったの。要は、あなたのお母さんが現場に邪魔な電話を寄越して、名前を知らないのかとごねて妨害になりかねないということでした!。」

「私がちょっと挨拶をしたのが間違いなのかしら。そんなことがあってたまるものですか。」

「そう、間違いよ。今、内々定は取り消しだと言われたのよ。」

「そんな……。わかりました、私から毛野物産の社長に電話しましょう。確か新年の賀詞交換会で名刺をもらったことがあるわ。」

「だから、それがでしゃばり過ぎなの!。」

「いいえ、電話しましょう。」

これを聞いた泰造は、遠慮がちに指摘をした。

「綾子はまだ採用していただけるかどうかの不安定な立場だし、社長さんに苦情を言ったら、会社の部下の人たちはどう思うだろうかなぁ。やめたほうがいいと思うけど……。」

「でも、取り消しの理由の妥当性を確認すべきでしょ。そもそも、私の名前をご存知の方にご挨拶するのは当然だし、また単にお世話になりますとお願いするだけで、なんで迷惑なのよ。」

悦子は言い出したら聞かない性格だった。

「いい加減にしてよ。お兄ちゃんが死んだ時も、その調子だからお嫁さんがさっさと出ていったのよ。 二番目の兄さんも家出して戻ってこないじゃない?」

 こんなやりとりがあったが、たとえ社長に電話したとしても取り合ってもらえるはずもなく、内々定は取り消しされたのには違いなかった。


 このことがあってから、綾子は、就職活動について両親に一言も言わなくなった。また、悦子の知り合いである教授にも口止めを依頼するほどだった。その後の綾子の就職活動の詳細は、泰造にとって知ることのできないことであったし、知る必要もなかったから、さして関心を払わなかった。しかし、悦子は何かにつけ綾子にしつこく聞いている始末だった。それが嫌だったのか、はたまた悦子とのやりとりが嫌だったのか、綾子は卒業を前にしてやっと見つけた就職先の保険会社に、インターンシップなどというアルバイトを得て、黙って家を出ていってしまった。


 驚いたのは悦子であった。

「綾子が帰ってないわ。部屋も片づいていて、コンピュータとか専門書が運び出されているわ。」

 泰造も驚いたものの、ある程度はこの事態を予測していた。

「そうかい。まあどこへいったのかわからないから、連絡を待つしかないと思うよ。」

「待つなんて呑気なことを言って。呆れるわ。」

 悦子は知る限りの綾子の友人たちに電話をかけていた。しかし、彼女たちはみな異口同音に引っ越し先を知らないといい、実際知らされていなかった。悦子はどうにかできると思ってはいた。しかし実際は何もできなかった。


 その次の年の春、卒業と同時に、綾子は田山宏という同級生のフィアンセを連れて帰ってきた。田山宏は堅実そうな男で、綾子と同じような保険会社に就職が内定していた。綾子は、この男と結婚すると宣言していた。

「お母さん、お眼鏡に叶うとは思いませんが、真面目な人です。」

 泰造は宏を一目見て、申し分ない、いや娘には過分な相手であろうと見立てていた。しかし、悦子は何か不安な様子だった。

「田山宏さんといったわね。大学は?」

「綾子さんと同じ大学の法律学科を卒業する予定です。その後は、エヌディーアイ総合保険相互会社で働ていく予定でいます。」

「そう、堅実なところにお勤めするのね。」

「あ、ありがとうございます。」

「私のことはご存知?」

「あ、あの、辻堂悦子さんと伺っております。」

「まぁ、それはありがとうございます。」

 悦子はこれで上機嫌だった。綾子もホッとした顔をしていた。泰造は、宏の態度と接し方から頭の良さを見て取っていた。悦子が口を閉じたのを確認して、泰造は尋ねていた。

「あなたのご両親は何をなさっているのですか?」

「両親はいません。ただ、父の遺産のような家で暮らしています。」

「お一人で生活なさってきたのですか。それは結構なことですね。」

 今時、両親のない子供は施設で暮らし、高校卒業と共に就職するのが普通だった。しかし、この男は両親がいないにもかかわらず、GMARCHの一角を卒業するまでに至っていた。それならば、ある程度しっかり生活をしてきたとも言える。泰造からすれば、宏がもう少し彼自身を評価する言葉を聞きたかったが、あまりいう言葉もないようならばそれでいうこともなかった。しかし、悦子は再び何か不満な様子だった。

「綾子、あなた、戻ってこないの?」

「同居する気は無いわ。」

「何言っているの。あなたに何ができるの?。まだあなたには、私たちから吸収しなければならなことがらがあるはずよ。」

 綾子は怒りの表情をあらわにした。

「今そんなことを言い出すの?」

「そうよ。そうでないと、フィアンセにも失礼だわ。あなたは、ただ反発するだけ。見通しもなく、その場その場の思いつきで動くだけじゃないの。自分の目標に向かう姿勢も、忍耐もない。今にそれがあなたを自滅させるわ。」


 綾子たちは悦子との諍いをそのままに、家を出ていった。ただ、綾子は駅まで見送りに来た泰造には、台東区黒門町にアパートを借りて住んでいることを伝えたのだった。結婚後は宏もそこへ住むことになるという。綾子の勤め先の生命保険部門は、そこから一駅隣の秋葉原であった。それで、もう十分だった。

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