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三田の日々

 おずおずと立ち上がった泰造を伴い、詩音は民生の待つお御堂の出口へ静かに歩みだしていた。向かう出口からは、田園を吹き抜け初夏の知らせをそこここに届けてきた風が、泰造の少ない髪をくすぐっていた。その姿を見ながら、民生は小学校時代から続く詩音との日々を思い出していた。

 ………………………

 田山詩音と綾子の母娘が上原民生の住む家の隣のアパートに引っ越してきたのは、一九八六年の円高不景気の年、民生が二年になった春、近所の合気道を習い始めた頃だったろうか。といっても鴻巣市三田に母子家庭が引っ越してくることは珍しく無かった。あまり話をしない詩音は、都心の小学校から民生たちの小学校へ編入学したことと算数と国語の成績以外はあまり目立つ子では無く、クラスの中に埋没していた。他方、民生は三田地区の中では総じて成績が良かったこともあって三田小学校でも地区でも目立ち、評価が高かった。

 民生が目立たない詩音に気づいたのは、その秋のころだった。


 ある日の先生の問いかけは難しかった。

「これは正方形に近い長方形ですね。でも、横と縦のどちらが長いか、どうしたらわかるでしょうか。」

 ガヤガヤ皆が的外れな答えを言った後、詩音は一人だけ違うことを言った。

「角から斜めに折って縦と横を合わせてみると、どちらが長いかわかると思います。」

 詩音は算数の時だけ民生よりも鋭く答えて光っていた。そんな彼女の格好は、夏でも冬でも構わずに大きめの長袖ティーシャツと大きめの体操服を着せられたままでいた。また、叩かれてもからかわれても我慢強く、決して泣いた顔を見たことが無かった。民生には、詩音の算数の応答の鋭さと貧相な恰好のギャップとが心に刻まれていた。


 四年の夏休みとなり、この時期に近隣の熊谷のうちわ祭りや上尾桶川の祭りなどが盛んな季節だった。民生や詩音の住居地域にある、渡辺綱に由来する社でも、祭日を控えて練習に精を出していた。しかし、八月中旬になると三田の界隈の小学校では、高学年が志賀高原へ林間学校へ行き、小学生が少なくなる季節であった。ふだん民生達の同級生達がお神楽の練習をしていた小屋でも、練習はお休みだった。

 この日も暑かった 。学期中であれば母子家庭の子達は誰しも学童保育に行っていたのだが、夏休みになって学童保育がなくなると、詩音は宮前の荒地で一人で遊んでいた。荒地とはいっても県道を糠田に下った田んぼの一角で耕作放棄地の広がる区域であり、背の高い草が生えていた一帯だった。しかし、行き交う車と人々は、詩音に気もとめていなかった。どんな遊びをしていたか今では定かではないが、雉の雛が孵った巣を守るために、幼い頃に父から教えられた霊刀の教え「霊剣操」を唱えながら棒を構えては、優れた動体視力で群れなす烏たちを打ちはらい或いは打ち伏せていたことも、遊びの一つだった。


 そんな時に、一人で遊んでいる詩音を見て、良からぬ輩が声をかけていた。

「お父さんから伝言があるんだ」

 詩音は父宏が母親綾子からひどい仕打ちを受けていたことを思い出し、すぐにその男の言うことを信じてしまった。

「お父さんが来ているの?」

「そうだよ。さあ、行こう。」

 不審な車の近くをたまたま通ったのが、民生だった。

「あれ、詩音!。どこへ行くの?」

「お父さんの処へ行くんだ。」

 民生は、ニコニコしながら答える詩音と挙動不審の男の顔とをにらみ、あることを思いついていた。

「それなら、お父さんの名前を聞いてみるといいよ。」

「そうね。」

 詩音はそう言いながら男の顔を見た。男は途端に豹変し、詩音の細い腕を取って車へ連れ込もうとした。詩音は引きずられながら、大声で助けを求めた。男が怯んだ隙に民生は男の手首に一撃を食らわせ、詩音の手を引き剥がしていた。そこへ、男が民生の襟を把みあげようとした時に、民生は襟をつかんでいる男の腕を脇の下に抱えて巻き込んで男の懐へ沈みつつ、投げをうっていた。不意を食らった男はひっくり返って白目を向いていた。

 ようやくに近くの農園や整備学校から男達が駆けつけていた。

「民生がやっつけたのか?。」

 駆けつけた駐在の警官が来ていた。

「こいつ、不審者のリストに載っているやつじゃないか。民生がその子を守ったのか?。」

 民生は黙っていたが、民生の後ろで怪我をしながら震えている詩音の姿が答えだった。

「よし、こいつは現行犯逮捕だ。救急車を呼ぶから、民生はその子を病院まで付き添ってやれ。」

 行田病院で処置がなされている頃、警官は詩音の家まで行ったが、家には誰もいなかったという。連絡を受けて病院まで駆けつけた担任の藤原先生は、その後民生や教員補助員とともに、母親の綾子を探し回った。 そして1時間も探し回っただろうか。整備学校の生徒だろうか、純白の作業着の若者がパチンコに興じていた綾子を見つけてくれたという。連絡を受けて駆けつけた藤原先生は、ひどく怒っていた。

「田山さん、何をやっているのですか。」

「やめられなくて。」

「今は詩音さんにはわからないでしょうから、いいと思っているのでは?。でも、必ずバレますよ。」

 藤原先生の後ろで綾子を見ていた民生は、彼女の異様にこだわるような瞳の中に救われない暗さを見ていた。二日後の昼前、武州三田駅の近くにあるマーケットで、両親の買い物を助けていた民生は、暑いのに長袖長ズボンの詩音を見つけていた。服装のせいか、詩音はふらりふらりと歩いていた。

「もう退院したの?」

 民生は詩音の横を歩きながら話しかけていた。しかし、様子がおかしかった。民生を見つめた詩音の顔は上気したように赤かった。

「お母さんは?」

 詩音は首を振るだけだった。

「朝に出かけたままなんだね。それならもうすぐ昼だけど、昼飯はどうするのさ?」

 詩音は首を横に振った。

「首を振るだけじゃわからないよ。」

「……食べてない。」

「昼飯を?それはそうだろうよ。ん?。朝飯を食べてないんじゃない?。何も食べてないの?。熱もある……。」


 民生は、上原医院の医師である父のアドバイスを受けて、詩音を自宅に連れて帰った。詩音は、食事をしたものの、歩くのは無理な様子だった。詩音の様子をずっと見ていた民生は、詩音を負ぶって彼女の自宅アパートまで送った。やはり、綾子はいなかった。湿っぽい布団に熱っぽい詩音を寝かせたものの、詩音は動こうとせず、首を振るだけだった。脇の下と胸の境辺りが裂傷となって熱を持っていた。

「このままじゃあ……。」

 民生は父から教えられた免疫の知識を思い出していた。再び詩音を負ぶって小さな浴室へ連れて行った。詩音の汚れたティーシャツとジーンズを取り去ると、その身体は小さく肋骨が浮き出るほど痩せこけていた。一昨日の裂傷や擦り傷は思ったより酷かった。

「ありがとう」

「傷をどうしようか。このままだと化膿するよ。」

 ためらいつつ下着を取り去った後、足と背中、全身を石鹸で洗う。そして最後に深手の脇の傷を撫でて洗いながら、水道水で洗い清めた。洗うたびに詩音はその激痛に小さな声を出したものの、表情を歪めて無言のまま耐えていた。消毒薬の袋はあったものの消毒とテーピング以上の処置は出来なかった。


「着替えはないの?」

 詩音は首を振るだけだった。ジーンズは使えそうだったが、ティーシャツは血液で大きく汚れていた。

「どうする?」

 詩音はジーンズを履いただけで済まそうとしていた。見かねた民生は、脱いであった自分のティーシャツを消毒液で殺菌後に詩音に強いて着せた。

「消毒したものだから着ろよ。」


 そうして夜の帳が下りるほどになっても、詩音の母親は帰ってこなかった。

「どこへ行ったのか、知らないの?」

 詩音は無言のまま首を横にふるだけだった。しかし、怪我が悪化していることや、服を脱がせてしまったことを考えると、一言ぐらいは説明が必要だった。民生には、心当たりがあった。多分パチンコ屋……。彼は、上半身は何も着ずに外へ駆けていった。詩音の家から自宅へ帰った民生は、新しいティーシャツを着て、詩音の母親綾子を探し回った。またパチンコ屋だろうと当たりをつけて行くと、やはり綾子はパチンコ屋にいた。


「もう少しで終わるから」

「でも、詩音はひどい怪我をしているのですが。」

「だ、だから少しだけだって。待てるだろ。」


 そう言われながら、民生は三十分待たされた。綾子を引っ張って帰宅してみると、詩音は畳の上に横になって眠っていた。その背中の傷から出た体液は、民生のティーシャツに滲み固まっていた。

「病院へ連れて行かないと。」

「そんな金はないのよ。」

 民生は、言葉を飲み込んだ。しかし、その目はこう語っていた。

「パチンコをやるお金はあったのに。」

 その思いを察したのか、綾子はムキになって大声を出した。

「うるさいわね。うちの事情も知らないで、余計なお世話だよ。こんな子、産むんじゃなかったよ。迷惑ばっかりかけやがって。」

 民生はその言い方に驚き、黙るしかなかった。目を覚ましたように見えた詩音は、黙ったままだった。


 次の日、民生は薬品庫へ入り込んだ。石綿の敷き詰められた粉塵だらけの中に父が時々処方するマクロライドがあった。いくつかの薬品と自分が食べるはずだった食事とを持ち出し、詩音のアパートに行った。まだ朝食前だというのに、詩音一家の部屋だけが、朝餉のにおいがしていなかった。その代わりに、部屋の中から綾子が詩音に怒鳴っているのが聞こえて来た。

「あんたの面倒まで見きれないよ。朝飯は自分でなんとかしな。」

 詩音の答える声は聞こえていなかった。

「こんな子、産むんじゃなかったよ。」

 綾子はこんな捨て台詞のような言葉を吐きながら、ドアを開けていた。その前に、民生が立っていた。

「なんだい?。詩音に用事かい?。あの子は起きてないよ。病気しやがって。役立たずで世話ばっかりかけやがる。」

「詩音は朝ごはんを食べてないんですね。」

「それがどうしたよ。事情も知らないで知ったような顔をするんじゃないよ。」

「これからまたあそこに行くんですか。」

 綾子は、この男の子が近所で評判の良い例の子であること、パチンコ屋で藤原先生の後ろにいたこと、綾子を探し回っていたことなどを思い出していた。

「ストレス解消だよ。やってられないんだよ。」

「でも、詩音を置いて遊びに行くんですか?。」

 その言葉を聞いて、アパートの奥から詩音の声が聞こえた。

「お願い、お母さんを悪く言わないで。」

 民生は黙らざるを得なかった。詩音は、母親の出かける行き先をすでに知っていた様子だった。それを知ってか知らずか、綾子は、怒ったような顔をしてバタンとドアを閉めて出かけてしまった。しばらくしてから民生は、ドアを恐る恐る開けて、奥を覗き込んだ。詩音は身じろぎせずに、エアコンもない部屋で寝込んでいた。詩音を起こさぬように部屋の中に入り込んだ民生は、詩音の体温を測って見た。幾分かは下がっているようだったが、汗をかいた痕なのか、涙の跡なのか、頬にはいくつかの白い筋が見えていた。そうしているうちに、民生の気配を感じたのか、民生の持ち込んだ食事の匂いに、詩音の腹のなる音が聞こえてきた。

「飯を食わないと、治るものも治らないよ。」

 民生は詩音の顔を覗き込みながら、話しかけてきた。決まりが悪かったのか、詩音は顔を反対側に向けてしまった。民生は清拭のためにタオルを濡らし、詩音の髪と首筋を拭き始めていた。詩音は少し抵抗を示したものの、清拭の後の清潔感に促されて自らも身づくろいに動いた。そうして、二人は長い沈黙の中で、身体を拭き上げ、傷の手当てを続け、昼も過ぎてしまった。開け放した窓からは、熊谷地域特有の蓄熱されたような風が吹き込んで来た。冷房に慣れていた民生には耐えられない暑さだったが、詩音は汗が吹き出していても無言で表情一つ変えなかった。その詩音の頬には、乱れ髪が下がり、大人のような雰囲気を醸し出していた。

「多分、かあさんは帰ってこないよ。」

 その言葉に、民生は今まで感じたことのない感覚に囚われた。遠くでヒグラシが鳴き始め、ツクツクホーシとの協奏曲となっていた。それは、周りには誰もいないのに何か守護者に守られている詩音と、民生だけの秘密の世界だった。

「暑いなら、行水しながら過ごそう。」

 二人だけがそうする本当の意味を、その時の二人も、周りも理解していなかった。浴槽に詩音の乱れ髪が広がり、それだけが民生の記憶に残っていた。


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