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庇護者との別れ

 詩音にとっては長かった試験休みが終わると、目の前は夏休みだった。しかし、一年生とはいえ、成績に基づいて補習が行われるため、夏休みは理解度別の補修を通じて成績アップが課せられている。息つく暇もなく、終業式の日から補修は始まった。


 ここで、この高校ならではのことかもしれないが、補習担当の教師は民生が最上位クラス並みの成績を取ったことを紹介した。

「みんな座ってくれ。今日から補習始まる。珍しいことだが、三クラス下の者が努力の結果だと思うが、この強化補習クラスに加わった。彼は上原民人くんだ。…みんな七月の期末テストでは、努力した奴ほど成績が伸びているな…。特に上原は、…お前頑張ったな…数学も完璧だ。合計点では学年で十番になっている。さて、席は、辻堂の隣だ、辻堂、お前も上原と同じように一クラス下からの追加組だったな。この補習コースのスキームを教えてやれ。……。それから……、皆気をつけてほしいことがある。この学校から駅までの通学ルートに不審者がいるという情報が入っている。不審者は普通男なのだが、これは珍しく中年の女らしい。皆気をつけてな。」

 そういうと、補習担任は教室の外に詩音と民生を呼び出した。

「辻堂、さっきの中年女だけどな、田山詩音を探しているってえ話だ。気をつけろよ。辻堂、旧姓は確か田山だったよな。それから新入りの上原 、辻堂が新参者に教えてくれるんだから、お礼に無事に送り届けてやれよ。」

 席に戻った民生は新しいクラスということでキョロキョロし、落ち着かなかった。取り巻きだった女子生徒たちがそばにいないためかもしれなかった。詩音はそれがおかしかったのか、思わずウフフと笑い、民生も決まり悪そうに笑っていた。

「こうして話せてよかったね。」

 民生の笑顔は再び詩音を捉えていた。詩音は民生の端正な笑顔に見惚れて、返事もそぞろだった。

「う、うん。」


 その日の放課後、詩音は民生を教室で待っていた。ようやく民生が来たが、その後を一人の女子生徒が追って来ていた。

「民生!待って!。ごめんなさい。」

「しつこいよ。彼女はおしかけて来ているわけではないよ。僕が同じ補習クラスに入れてもらえたから、その補習クラスに先に入った彼女がいるから、色々教えてもらっていたんだよ。でも、彼女に危険があるし、先生が送っていけというから、一緒に帰るだけだよ。」

「嘘!。じゃあ、なんでわざわざ教室で待ち合わせて話をしているのよ。」

「だから、教えてもらっているって言ったじゃないか!。もうたくさんだよ。」

 詩音は恐る恐る声を掛けた。やはり、民生が詩音のものになるはずもなく、いままで近くにいたはずの宏との会話も絶対的に不足していた。詩音は孤独を覚えつつも学力テストを思い出し、ひたすらそれに打ち込めれば良いと思い込もうとした。

「上原くん。私一人で帰れるから。」

「何言っているんだよ。襲われて、また脇の下の傷跡みたいにひどくなったらどうするんだよ。」

 詩音は思わず手で左胸の横をおさえ、民生を睨みつけた。左胸の横の脇の下には、詩音が幼い頃に襲われて負った傷の痕がある。幼い詩音が上半身を晒して民生に手当をしてもらったことがあるため、民生は知っていた。しかし、詩音にとっては男子にはもちろん女子にも知られたくないことだった。

 民生を追いかけて来た女子生徒は、それを聞いて誤解をしていた。

「民生、この女を抱いたのね。嘘つき。辻堂さん、貴女は成績一番で、さも『私は男を相手にしませんわ』なんて顔をして、他人の男を横取りしているんじゃないの。」

「そんなことしてない。」

 民生と詩音は同時に否定したが、声が揃ってしまったことが、彼女の怒りに油を注いでいた。

「覚えてなさいよ。」

 彼女は詩音を睨みつけて走り去って行った。


 それから三日後の放課後、校門の前にあの女子生徒と、すっかり風貌の変わった綾子の姿があった。目黒で母親の悦子を負傷させて警察に逮捕されてから、一年ほど経っていた。最近執行猶予付きの判決が下り解放されて、この界隈に住んでいたのだった。

「あれが詩音さんです。」

 あの女子生徒はそう言って走り去っていた。それを聞くと、綾子は確かめるように詩音を眺め、次の瞬間鬼の形相に変わっていた。詩音は綾子の異様な視線から、彼女の手を見るとキラリと光る金属片が見えた。反射的に大宮駅へと走り始めていた。しかし、綾子は鬼の形相で追いかけ、徐々に距離を詰めて来た。追いつかれると思われた時、民生が詩音をかばって綾子の前に立ちはだかった。

「あんた、何だよ。じゃまするんじゃないよ。」

「何をする気ですか?」

 綾子は何かに気づいたように民生をしばらく睨みつけていた。

「あんた、民夫か?。そうか、それなら二人とも私をバカにしているのね。」

 民生は詩音に逃げる隙を作り、綾子を睨みつつ立っていた。

「辻堂さん、早くにげて。」

 飛び込んで来た綾子を民生は軽く掴んでナイフをとりあげ、綾子は民生に取り押さえられていた。時をおかず、教師たちや警備員が駆けつけていた。それでも綾子は民生と詩音を睨みつけて暴れ続け、呪い続けていた。

「詩音、この親不孝者、恩知らずめ。」

 詩音は母綾子の昔の言葉を思い出していた。哀れな綾子は母親というより、もはや金づるを脅すたかりに過ぎなかった。警備員達に身柄を確保された綾子は、それでも黙らなかった。

「育ててやった恩を裏切って逃げ出しやがって。お前はわたしの娘なんだから、稼ぎは全て私のものだよ。この泥棒め。」

 民生はたまらず詩音をかばって綾子の前に立った。

「酷すぎる。詩音さんがどれだけ泣かされて来たか、改めてわかりました。貴女は…」

「母を悪くいわないで。お、お願い……。」

 詩音は民生の背中に縋りついた。本当ならば母である綾子を逃がしたかった。詩音は、中学の時に詩音の稼ぎを全て奪って行った母と、その時に詩音をかばい続けてくれた民生とを思い出していた。その二人の目の前で綾子は検挙され、連行されていった。そのあと、民生は詩音を同潤会住宅までおくりとどけてくれた。しかし、詩音は孤独だった。やはり民生は少なくとも詩音のものではなく、宏は遠かった。


「そうか、君の母さんが。」

二人からテレビ通話で話を聞いた宏は、しばらく黙っていた。

「詩音、君の母さんは、二度目の検挙だよね。彼女は精神を病んでいる。症状が悪化しているから、もう外に出てこられないと思うよ。彼女は私を捨てたとはいえ、一度は私の妻だった女だから、私が対応して彼女の処遇をしておくよ。その意味では、もう辻堂のお爺さんと君を襲うことも無い。それに、辻堂のお爺さんが君を僕に預けたのは、お爺さんのところが危険だったからだ。でも、危険がなくなった今、大学卒業までは辻堂のお爺さんのところへ帰るべきだよ。」

「それじゃ、もう会えないの?」

 宏の後遺症は脛骨のヘルニアになり、もう飛行機には乗れぬほど酷くなっていた。

「詩音、僕はもう飛行機に乗れないらしい。」

「お父さん」

「少し無理がたたってね。首の古い傷が痛み出して動くのにも制限がかかっているんだ。刺激のない田舎でゆっくりしろとも言われたよ。」

 詩音は黙って宏の説明を聞いていた。詩音はまた孤独の寂しい日々を恐れた。しかし、宏は辻堂の祖父を頼るようにと言った。

「僕は君の父親でないことをはっきりさせたい。今や父親ではない僕は君に必要無いし、こんな手の掛かる人間は有害無益だ。君は僕のこの状態を君自身のせいだと思っている。それは違う。」

「違う、宏さんは私のお父さんだ。それにその障害だって私のせいなのに。」

「違うよ。君のせいでは無いし、仮にそうであっても僕が君の保護をしていた間のことなのだから、君が責任を感じてはダメだ。」

 彼らのやり取りはふたりにとってあまりに悲しかった。それでも詩音は宏との別れを受け入れざるを得なかった。民生は二人のやり取りを聴きながら、詩音の境遇を思い出していた。


 一ヶ月のち、詩音は宏の症状やリタイアせざるを得ない事情を説明する一通の手紙を受け取っていた。その末尾にはこう記されていた。

「……君には、君の新しい人生が始まる。そのうち、君は僕を忘れるさ。いや、忘れてほしい。僕は、ただ君のために祈って見守っているよ。」

 その手紙の消印はソルトスプリングスと言う見知らぬ島のスタンプだった。詩音は、繰り返し繰り返しその手紙を読み返していた。 そして、しばらく逡巡したものの、後ろを振り返らずに新たな二学期へ新しい恋に向かって出かけていった。


………………………、


 優しい祖父を前にして今、民生を見つめる詩音の視線は、遠くをも見ているように思われた。春先の男体山は栃木の大地を抱き守るように詩音達を見下ろしていた。ここがその場所だと、詩音は思った。詩音にとって、やっと心を許せる時と場所とが、そして何もかもを無言で受け入れてくれる祖父が、目の前にいた。祖父の泰三は、小さく縮んでしまった背中を精一杯伸ばして詩音の肩を叩いて励ましていた。


「民生くんが居るいま、彼の前だけなら泣いても良いのではないかな。そして、もう泣かなくとも良いと言われる日が来たら、希望と慰めが与えられる日が来たのだとわかるだろうよ。」

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