大人への歩み
一学期の期末テストが終わった日のことだった。詩音が同潤会の自宅に帰り着くと、そこから車椅子の宏がエアポートリムジンのタクシーで出かけるところだった。
「え?。どこへ行くの?。」
「置き手紙にも書いたけれど、不動産会社の仕事でバンクーバーのビルの買い付けに行くんだ。すぐに帰ってくるよ。後のことは、君の通っているお花茶屋伝道所の山形牧師に頼んである。」
「そう……。」
詩音は一抹の不安をおぼえながら、宏を送り出した。家に入って宏の書斎に向かうと、部屋は綺麗に整頓され、残されていたベッドの寝具もたたまれていた。カバンを床に置きベッドに横になると、かすかに宏のコロンの残り香が寄りかかった寝具に残っていた。玄関先のガードマンを除けば、詩音が一人でこの家に残されていた。置き手紙は宏の書斎に置かれていた。それを開いたものの詩音はそれを握ったまま、いつの間にか宏のベッドで寝入ったらしく、気がつくともう二十二時過ぎだった。
詩音は夕食を作る気も起こらず、やる気の起きないまま、自分の部屋へ戻っていった。
次の日の昼ごろ、バンクーバーがら到着したという連絡があった。電話の宏の声は距離を感じさせなかった。詩音にとってその声は一週間ぶりのように感じられ、詩音の電話口の声は宏のところへ飛んでいきたいという気持ちで、思わず弾んでいた。
「もしもし。」
「留守中は元気がないのではないかと心配したけど、それほどでもないね。」
宏の言葉は詩音にとって無神経のように思えた。そんな態度をとられても、多分、普通の要領の良い娘ならば、甘えたり媚びたりする知恵が働くのだが、心にそんな余裕も発想もない幼い詩音には無理なことだった。再び、黙り込んでしまう癖まで出てきてしまった。宏はそんな詩音の心を知ってか知らずか、話を続けている。
「詩音。」
「はい。」
「あとで僕の滞在先を知らせるよ。それまで待てるよね。」
詩音は寂しさを覚えていた。
「いつ帰ってくるの?」
詩音はポツリといった。宏にはその言葉が腹に重く響いた。やはり、一人で日本に残すには詩音はまだ幼すぎたのだろうか。宏の気持ちも大きく揺らいでいた。頭では娘に試練を与える父親でなければならないと思い込んでも、心のどこかでは、血の繋がらない可憐な少女をほったらかしにしている自分が許せなかった。宏は少しでも詩音の心を上向きにしたかった。そこで話題を変えてみることにした。
「昨日、学校でいいことがあっただろう?」
不意の質問に詩音は態度を緩めた。
「試験がいつもあるし、勉強勉強ばかりだから、いいことなんてないわ。」
「そうか。」
詩音はだんだん落ち着いてきた。
「確かに大学受験のためには今から勉強しないとね。」
「うん。」
「僕の食事の用意がないから、もっと勉強できるのではないの?」
「それはそうだけど。日本を離れて、宏さんの分の料理とか介助とか洗濯とかはどうするの?」
詩音は心の中に様々な思いが渦巻いていた。電話の声の近さに、思わず宏のところへ飛んで行きたい衝動はまだ強かったが、それにくわえて宏を心配する思いは強くなってもいた。甘い恋心というより、相手を気遣うしずかな思いが詩音の心にあふれていた。それも二人の今の関係をよく表していた。
「まあ、大丈夫なところへ行くさ。ところで、一番だって?。」
詩音はまだ心が乱れているままだった。
「今だけよ。みんな努力しているわ。二つ下のクラスに居る…幼馴染も、勉強家だし。」
詩音は何か言いたそうにしながら言いよどんで居た。宏は詩音の声のトーンを見ていた。
「で?」
何か言いにくそうな少女を宏は促した。
「幼馴染みは、男子だね?」
詩音は宏に心の中まで見透かされているように感じた。
次の日、学校は試験休みだったが、詩音はひとり学校の自習室に来ていた。中学生時代に戻ったように、再び寡黙で孤独な雰囲気を醸し出している。他の生徒はちらほらするほど。自習室に持ち込んだ教科は英語、数学、化学だった。母の家系にも宏も理科系が得意であるとは聞いたことがなかったが、詩音はコツコツとそして生まれつきの閃きに多く助けられ、数学の復習と英語の予習をトントンと済ませている。昼過ぎになり、持ち込んだ弁当を開いた時、自習室の隅の方にいたらしい民生たちがやってきた。
普段なら静かな自習室だが、試験休みの上に夏休みが近いこともあって、数人だけの室内は砕けたふんいきであった。どうやら民生と最近形成された彼のファン達らしかった。
「田山…辻堂さん。」
民生が詩音にそう呼びかけた時、民生の後ろ周りの女子たちはざわついた。
「辻堂さん、だって?」
「あの一番の子?」
「美人ね。」
民生は後ろに一瞥をすると、声は消えた。しかし、彼女らの嫉妬と多少の悪意は、詩音に昔を思い出させるに十分な仕打ちだった。詩音は再び無口になった。
「帰る。」
詩音はやっとの事でそう言い、片付けて出てきてしまった。しかし、民生は後ろから詩音に追いついた。
「待って。」
「可愛い女性たちに囲まれていいわね。」
嫉妬して出た言葉に詩音自身が驚いた。詩音はさらに顔を赤く染めて立ち去ろとした。他方、詩音の言葉にうろたえた民生は詩音の細い腕を掴んで離さなかった。
「痛い。」
詩音はそう言って民生の顔を見た。詩音のなみだ顔に民生は思わず謝っていた。
「ごめん。」
詩音は民生をおいてそのまま帰ってしまった。詩音の心奥に今までの幼い恋とは異なる炎が燃え始めていた。詩音はそんな心を持て余しながらお花茶屋伝道所の会堂に倒れこむように入りこんでいた。山形牧師はその姿を見ていた。
詩音は、黙したまま肩を震わせて祈っていた。詩音は孤独だった。民生はクラスさえ異なり、宏は遠かった。心に二つの大きな穴が空いていた。じっと耐えつつ何をどう祈ったのか自覚しないまま、ただ御心のままにと繰り返すだけだった。その末に見えて来たことは、片隅の忘れ物のような言葉だった。祖父に教えられたことは、物事を見すえて見抜き、神のみ心を求めつつ、泣かずに耐えることを思い出した。また、宏の慈愛を思いだしていた。彼は離れていても詩音のために執り成し祈り続けてくれている。そう確信できただけでも、心は落ち着いた。宏の包み込む慈愛に触れたい、そう感じていた。
帰宅した家は、がらんとしていた。宏の書斎に入っても、主人のいない部屋はもう宏につながる記憶を呼び起せなかった。というより、詩音の心の中に宏への思慕は彼に助けを求める叫びに変わっていた。声が聞きたい。そう思って思わず宏の新しい連絡先へ電話していた。長く響く呼び出しの末に、宏が電話口に立った。
「お父さん。」
この詩音の呼びかけは宏に不安を呼び起こした。今までお父さんと呼ばれたことはなかった。何があったのか。
「どうしたんだい。」
就寝前の読書の時間だったのだろう。宏の声は低く落ち着いていた。
「私、幼馴染にひどいことを言ってしまって…。嫌いじゃないのに言っちゃいけないことを言って…。」
詩音はポツリポツリ事情を話した
「うむ、そうだったのか。」
宏の心の中は、詩音の成長を喜ぶ理性と、詩音の心の中に宏がもういないことで肩の荷が下りた安心感と、血の繋がりがないが故に細い絆が切れてしまう虞に乱れていた。詩音にはもう大人の恋の波濤が押し寄せてはじめていた。
「貴女はその幼馴染が好きなんだね。」
「でも私は宏さんを愛してる。」
「でも、彼のそばにいる女性たちが気になる……。嫌な気持ちになって彼にぶつけたんだろ?。」
「そう…。」
詩音はまだ自覚していない。
「詩音、それを嫉妬というんだ。僕が他の女の人と会っている時そんなことはなかっただろ?」
「いいえ…淑姫さんがそばにいた時はとても気になってました。」
宏は言い換えてみた。
「では、今はどうかな。」
「……。」
「黙っているところを見ると、今はそうでもないようだね。つまり、気にする気持ち、嫌な気持ちというのが嫉妬さ。そして、今は僕に関して嫉妬はしていないよね。」
「でも、私は…」
「そう、気がついたかい。君は彼が好きなんだよ。」
詩音の心の中には、期せずして民生の顔が浮かんだ。幼い時の民生の優しさと的確な行動と今の努力する姿、それに比べて彼に対する自らの態度と仕打ちを思った。恥ずかしさと居たたまれなさに詩音の顔から火が出たようになった。
「あー、もう。」
詩音は思わず声を上げていた。
「何か思い出したんだね。年頃なんだよ。そのうち、僕なんか忘れるさ。」
宏はそんな詩音の心を楽しむように話していた。詩音は宏の洞察力に驚いていた。
詩音は宏との電話を終えると、求めず与え縛らずに包み込む愛を、宏から離れて改めて恋しく思った。次の日、ガランとした家に居続けることもできず、ふらりと目黒の祖父、泰造を訪ねていた。
「詩音、よく来てくれたね。」
「お爺ちゃん…。」
詩音の様子に、泰造は詩音の不安を感じた。やはり、宏がバングーバーに滞在して仕事をし始めたことが、詩音の心に穴を開け、また大人になっていく過程での不安も手に取るようだった。泣きそうな詩音を宥めるように泰造はゆっくりと頷いた。泰造の眼差しは、シワ深くなった今も、詩音が幼い時から変わらずに向けられたそれと同じ慈愛そのままだった。
「今のお前は、なぜか臆病になっているところがあるね。」
やはり、泰造は見抜いていた。詩音は身を委ねるように泰造の次の言葉を待った。
「お前は未知へ踏み出すことに臆病になっていないか。人間は後ろを向いたり、挑戦を忘れては必ず行き詰まる。この老人も、お前の祖母とともに栃木県の無牧の伝道所を助けたいというプランがあるんだ。そこは無名の田舎の伝道所で教会員が独り遺され、打ちのめされていると聞く。それでも、たとえ詮方尽きるとも、私は私のそばにいてくださる方とともに行くつもりなんだ。お前も、宏さんも同じなんだよ。今まで耐えて来られたお前だ。きっとできる。お前の為にこの言葉がある。」
「主は人の一歩一歩を定め
御旨にかなう道を備えて下さる。
人は倒れても、打ち捨てられるのではない。
主がその手をとらえていて下さる。」
その言葉は泰造の祈りとともに心に広がった。まるで宏が詩音に言い聞かせているような響きが詩音の心を満たしていた。詩音はもう振り返らなかった。
「お爺ちゃん、わたしのことは、家にはガードマンもいるし、心配ないよ。」
「そう言ってくれるならば、私もお前のために祈り続けるよ。」
その日、詩音は目黒から帰った。また泰造たちもその道を進んでいった。




