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結婚式前夜

 東武日光線が大きな橋梁で利根川、渡良瀬川を越えて暫く行くと、栃木県ならではの田園風景が広がっていた。すでに冬耕を終えた田の向こうには、まだ雪を頂いている男体山がそびえている。二人の周りには、栃木弁があふれ、ひとなつっこいおばさんたちが二人に飴を渡したり、声をかけたりしていた。辻堂詩音は微笑んでいるだけで、おもに答えているのは上原民生だった。民生は、小さい時から無言であることが多い詩音には慣れていたものの、婚約後はそわそわして落ち着きを失っていた。そんな民生に、詩音は時々寄りかかって言葉ではない愛を伝えていた。

 そんな人々を載せながら、各駅停車はときどきカーブを繰り返し、栃木路を分け入っていた。

 しばらく乗ったところで、申しわけ程度の屋根がついた駅のホームに二人は降り立った。駅舎の周囲には小屋さえない小さな駅だった。ガラガラと立て付けの悪い引き戸を開けて外に出た二人は、地図を見ながら駅舎から延びる農道を歩き出していた。今日、二人は、大学の教養部を修了し婚約をしたのを機会に、改めて詩音の母方の祖父母を尋ねていた。


 ……………………………


 詩音には、幼いころの沈殿のような重い記憶があった。それは十四年前の湯島だった。


 その一帯の桜も散り始め、本格的な春の頃であった。夫の田山宏と言い争いになった綾子は、すぐに黒門小学校に入学したばかりの詩音を自宅から連れ出していた。諍いの原因は、互いの火事の担当をめぐる論争だった。綾子は家事の取り組みが不完全に見える宏に業を煮やし、出てきてしまった。行く当てもなかったものの、よく言えば行動的、悪く言えば短気で当て付け気味だったこともあって、綾子はその足ですぐに不動産屋に飛び込み、銀座線田原町駅近くのアパートをさっさと借りてしまった。その綾子のポケットベルに宏から呼び出しがかかっていた。公衆電話から宏に電話をすると、宏の当惑した声が聞こえてきた。。

「なんだよ。早く戻ってきて飯を作ってくれよ。それが君の役目だろ。」

「もう繰り返さないわ。あなたも私も仕事をしているの。それなのに、休日の今日も、わたしがあさからご飯を作っているのに、あなたは洗濯も後片付けも遅れ気味じゃないの。」

「また蒸し返すのかよ。僕の朝の後片付けの仕事が遅いのは睡眠不足のためだよ。僕の方が拘束時間が長いし、その分忙しいんだよ。昨日だって深夜12時過ぎの帰宅だし…。食べてなくても片付けているし……。僕は気味に文句を言ったことはないよ。それなのに君は自分のことを棚に上げて、命令するだけじゃないか。特に昨夜は疲れていたから、十分ほど休んだけど、そのあとはいつものように後片付けをしているじゃないか。何でもう少し待てないのかな。任せてくれないのかな。」

「そんなの理由にならないといったはずだわ。私は休まないで、直ぐに早く終えてねと言っているの。話し合いはもう意味がないから、これでおしまいね。それとも、もう一度ぶちのめされたいの?」

「わ、わかったよ。」

 宏が電話を切っていた。しかし、横で来ていた詩音は不安そうに聞いてきた。

「おかあさん、・・・・お父さんはどうなるの。」

「彼は、私に負担をかけているから出てきたの。放っておくわ。」

「でも、お父さん、かわいそう」

「なんでかわいそうなのさ。」

 綾子は、かわいがっている娘が必ずしも自分の味方でないことに戸惑い、急に気色ばんだ。詩音が見上げたその眼には怒りさえ含まれていた。それを見た詩音はとっさに黙ってしまった。

「あなたのお父さんはね、平等できっちり負担するはずの家事を拒否したのよ。約束を守らないで、とてもずるいから結論をさっさと出したの。高い家賃で苦しめば薬になるでしょ。」

 幼い詩音でも、母親が父親をずるいと感じていることは理解していた。他方で、夜遅くまで仕事をして帰ってくる父親の姿も知っていた。このころから詩音はあまり話をしなくなった。彼女の心の中には、また、父親が彼女に教える抜刀術への思いもあった。

 現実問題として、いままで住んでいたところの家賃はあまり安くはなく、たとえ男の一人住まいであってもその額は馬鹿にならない額だった。そのことを承知のうえで、安月給の夫が一番困窮することを計算して、綾子はさっさと前の家を出ていた。他方、本願寺沿いにあった新居は家賃も安く、成長後の詩音を黒門小学校にも通わせやすく思われ、住みやすいところだった。こんな母親の綾子の冷たい計算と父親宏の頼りなさとを、詩音はなんとなく理解していた。


 その頃、綾子の両親である辻堂夫妻は、二人揃って定評がある仕事で充実した日々を送っていた。大学の教授で高名な教育カウンセラーとして知られていた悦子は、どの地区の教育委員会でも歓迎され、その仕事ぶりも好感されていた。他方、泰造は妻の係る幾つかの幼稚園における活動をサポートするチャプレンであった。彼はサポートという立場をわきまえて、いつも脇役に徹していた。辻堂夫妻は、育児に悩む親達や癒しと魂の救いを求める人々に乞われるまま、風の導くままに、町々や耶蘇のお御堂を数年ごとに滞在しては行脚していた。婦唱夫随と言っていいほどの仲の良い夫婦であったが、忍耐のある泰造と意志の強い悦子のペアだからこそ続いているようなものだった。しかし、その辻堂夫妻の娘である綾子は、反抗期以来、大学生そして社会人になっても両親への反発がひどく、ある日どこで知り合ったのか、気の弱そうな年下の宏を捕まえて、両親への紹介もそこそこに家を出て行ってしまったという。

 蛙の子は蛙なのだろうか。詩音が自分の母親の許を離れたのは、今から数年前のことであった。しかし、家を出たというより、娘の詩音が身勝手な綾子から離れざるを得なかったと言った方が近いかもしれない。口調の強さと意思の弱さそのままに生きて来た母親は、この歳になっても変わらずずっとそうして生きて来た。その生き方が綾子の今をもたらしていた。


  さて、綾子と詩音が田山宏の元を飛び出した時、宏は綾子の実家、つまり辻堂の家に連絡を取ったらしかった。しかし綾子は長く辻堂の実家と疎遠になっていて、電話をした宏は綾子たちの新らしいアパートの住所を知ることはできなかった。しかし、辻堂夫妻は孫の詩音が諍いに巻き込まれたことがわかったし、哀れな孫をなんとかしようとし始める良い機会だった。

 泰造と悦子は綾子たちの住み始めたアパートの住所を知らなかった。そこで宏から聞いた宏が住む黒門の近くにある黒門小学校を訪ねていた。綾子は引越し後も詩音をそのまま黒門小学校に通わせていた。偶々その小学校の岡田久史校長が悦子の講演会での知り合いだったのが幸いだった。

「ようこそおいで下さいました。辻堂先生がいらっしゃるとは大変光栄なことです。」

 悦子はいきなり訪問したことを詫びていた。

「きょうは、そのう ……私の孫が心配で訪ねた次第です。」

 岡田校長の特別の計らいで一年生の教室から田山詩音が呼び出されて来た。


 校長室は小さな詩音にとって禁断の領域だった。しかし、恐る恐る入った先に悦子と泰造がいた。

「久しぶりだね。」

 泰造の声は詩音に馴染みのあるものだった。

「おじいちゃん……。」

「元気だったかい?」

 泰造は駆け寄ってきた詩音を抱きしめていた。小さな手で白髪の泰造の頭をだきしめた詩音は、暫く懐かしいオーデコロンの香りに顔を埋めていた。

「あのね、お母さんがお父さんを懲らしめるって、家を出てきちゃったの。ご飯を作ってあげないんだって!。お父さん可哀想と言ったら、お前も食べるなって……。お母さんが壊れちゃったの。お父さんは一生懸命働いてくれていたのに、お父さんを一人残して出てきちゃったの。」

 詩音は父親から離され、母親からもろくな扱いをされていないことが窺えた。それならここから連れ出そうとも思われた。しかし、親権の問題から憚られた。しかも、辻堂夫妻が祖父母だったとはいえ、詩音に会えたのは岡田校長が特別扱いをしてくれたからに過ぎず、親権を持たない祖父母が連れ出すことは未成年者誘拐とされかねなかった。しかし、このまま詩音と別れた後のことも心配であった。特に泰造には幼い詩音の未来が見えたように感じられた。泰造は、詩音に将来のことを言い聞かせざるを得なかった。

「よく聞きなさい、詩音。これからあなたには様々な苦難があるだろう。でもどんな苦しい時も、貴女には必ず見守る方がいるのだよ。だから、何があっても諦めないで。泣いて諦めてしまっては、だめだ。見えるものも見えなくなってしまうから。」

 詩音は、この優しい祖父に再び会える時まで耐え続けること、泣いて訴えてもいいのはこの優しい祖父の前だけだと、小さな決意を幼い胸に深くしまい込んでいた。その後、辻堂夫妻が詩音に予言していたように、詩音は母綾子のオーラに引きずり込まれるように、黒門小学校から鴻巣の地へ引っ越して行った。それは、辻堂夫妻が詩音に会いに来たことを、間接的に知ったためだった。


 ……………………………


 辻堂詩音と上原民生が東武線の駅から農道を東へ2キロほど歩いていくと、土地改良区の整然とした区画が広がっていた。細堀地区まで来ると、ゴルフ場がいくつも開設された山が近くなり、残された雑木林に抱かれるように、小さな集落があった。その中のあまり人気のない一画に、掲げられているのか外されているのかわからない十字架を立てかけたプレハブ小屋の建物があった。そこが二人の目指していた建物だった。表札には確かに辻堂と書いてあった。春と呼ぶにはまだ早く、受難節の期間であることもあって、そのお御堂はしずかだった。

「辻堂おさ〜ん。いらっしゃいますか。」

 詩音は呼び鈴とともにそう呼びかけていた。物音がかすかにして、教会堂の「はなれ」の一階の窓から二人を覗く目線があった。しばらくすると、立て付けの悪いドアが開き、頭の禿げ上がった老人が出てきた。それが詩音の祖父、泰造だった。

「どなたさんですか?」

 詩音は、老け込んでしまった祖父の顔の中に、幼い時に一人だけ優しくしてくれた肉親の面影を見出していた。

「お爺ちゃん。」

 詩音の声は猫の様なかん高い特徴があり、その聞き覚えのある声から泰造はその若い娘が孫の詩音であることを直ぐに悟った。

「詩音か?。よくきたな!。連れの人は、手紙にあったフィアンセかい?。よく来た、よく来た。」

 上原民生は、すらりとした半身を深く曲げて挨拶をしていた。

 お御堂は、静まり返っていた。既に結婚式でのエスコートの打ち合わせは、先ほど終わったばかりであった。

「お爺ちゃん。私たちの結婚はまにあったのかしら。」

「詩音、お前は間に合わせてくれた。心にとめてくれたのが娘では無くても、孫のお前であったことはそれだけで私たちを満たしてくれたのだよ。」


 泰造は、ふと昔を思い出していた。

 ……………………………


 娘である綾子は、反抗期以来大学を卒業する学年になっても、両親への反発がひどかった。それは綾子が兄達と違い、両親が家族を充分に省みていないと考えていたところに現れていた。特に、大学生を終える頃の彼女の態度や彼女の発する言葉は、激しかった。

「家事もろくにできないで、喋りで働いたことになるなんて、世間をバカにしてるわ。」

 しかし、悦子は綾子のそんな言葉を必ず論破していた。

「そんなことを言うからには、自ら一定レベルの家事をしているはずね。やってみなさいね。……。ほら御覧なさい。あなたの家事は全然なっていないわ。例えば、料理は片づけながら作るものよ。それから、洗い終わったはずのガラスコップは、まだ水を弾いているじゃないの?。やり直しね。もう一つ言うなら、皆さんにお話しして喜ばれるのは、高度な仕事よ。ただ好き勝手にくっちゃべっている貴女とは違い、皆に喜ばれ、皆に活用され、そして対価を払ってもらえるわ。さて……、何か言いたいならドウゾ。」


 綾子にとって逃げ道はなかった。論争は自らが追い詰められるだけであり、残念ながら返す言葉はなかった。しかし、素直さを自ら弱気の証拠、無用のものであると否定し、反発する心に凝り固まっていたために、兄達が味方になることもなく、悔しさだけが心に残るのが常であった。居場所のなくなった綾子ではあったが、決して豊かではない家庭であったため、綾子はさっさと結婚して家を出て行った。


 ……………………………


 泰造は、結婚式の式次第をみつめながら、シワの深い目で返事を返した。この目は息子たちを失い、娘綾子に裏切られ、認知症の悦子の介護で未来をわすれてしまったのかもしれないと、詩音は淋しい風を感じた。しかし、泰造は詩音の手を1つの希望であると感じていた。


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