聖母子像を最後に見たのは
その日の午後、小雨が降り始めた。
小雨の割には、冷たくて重い水が私のスーツに染み込んでいた。少し寒い。
「どうかな、お父さん」
綺麗な刺繍があるとは言え、年相応とは言えない程の真っ黒い傘の下から、娘が不健康そうな青白い顔を覗かせた。彼女は小枝のような腕を伸ばし、スケッチブックを私の手元に押し付けてきた。白い袖からぴょこぴょこと見える小さな指が可愛らしい。
雨水によって所々に沁みを残した紙面には眼前の景色が色鉛筆で精緻に描き出されている。今、私たちが訪れている清澄白河の庭園の景色だ。娘の描き出した空の色は現実の空の色とは区別が付かない程に不安を掻立てるような妙に明るい灰色。庭園の擁する美しい上池もただ美しいものではなく、どこか悲しみを滲ませる老竹色。庭園を飾る木々も鮮やかさの抜けた木賊色。どうして、彼女の記録する世界にはこんなにも色が無いのだろう。
「彩花、描き直したのか、昼間から描いていた絵」
「雨降ってきちゃったし、せっかくだからと思って。今の方が、綺麗だと思うし」
「だからと言って、何もくしゃくしゃに丸めなくてもいいだろう」
無残にも皺だらけになった絵を革製の手提げに突っ込んだ娘は口を尖らせて、あれこれと反論した。そのまま彼女は色鉛筆を錆びかけた粗末なケースにカタカタと音を立てて綺麗に並べ始める。彼女はたった二十四色の色鉛筆と、それに比べて五十以上の濃淡の違う黒い鉛筆を持っている。几帳面な彼女はそれをいちいち濃淡の具合で規律正しく並べるのである。
片付けが始まってしまった。私の指摘を受けても、もはや手直しなどしないぞ、という意思表示だ。私に意見を仰いでおいて、自信の一作を仕上げてもこの調子なのだから、彼女は少し機嫌が悪いと見える。楽しげではあるように見えるのだが。
事実、彼女の自信の一作には指摘など一つも付けられない。彼女が元々描いていた絵を目にできなかった腹癒せに重箱の隅をつつくような大人げない難癖でも思い付けば、少しはせいせいしたのだろうが、それさえも想起されない。
こちらも負けじとベストポジションに固定した三脚の上にある無骨な機械で、彼女と共に見ているこの世界の一部を切り取ってみる。だが、見たままの世界を切り取って記録しただけの写真では、彼女の描き出した白黒の世界には到底敵わない。私の眼で見たそのままの世界は醜く、ただ薄暗いだけで美というものが感じ取れない。我々の世界にはもう少し光と彩が必要だ。
そうだと言うのに、彼女の絵に光や彩などは寧ろ余計な物であるらしく、不安を掻立てるこの薄暗いだけの世界を実に美しく描き出していた。彼女はこの薄暗いだけの世界を美しいと言う。いや、煌びやかではなく、清らかで、飾り気がなく、寒く、薄暗く素朴な世界だからこそ、美しいと言う。手元の絵は彼女の言を明確に主張していた。
この日ばかりは娘の絵が私の写真を上回ったと言わざるをえない。私の眼を通してみた薄暗いだけの世界、それを美しく記録する娘の腕、いや、娘の眼を私は純粋に羨む。
「本当? やったぁ、褒められちゃったよ。ほらね、私、天才でしょ?」
「まったく、仕方ないな。褒めると彩花はすぐ付け上がる……」
私が思ったままを口にすると、黒鉛筆を並べ終わった娘は黒い傘を片手に勢い良く立ち上がり、振り返ってにやにやと笑みを浮かべる。調子に乗るなと彼女の冷たい頰を軽く引っ張り、傘を取り上げる。それに対して可愛い悲鳴を上げた娘は私の手元にあったスケッチブックを引っ手繰り、乱雑に紙面の端に日付と名前を書き込み、手提げに突っ込む。
娘から奪った傘の中に彼女を入れてやると、娘はお父さんと相合傘だ、お父さんと私はラブラブだ、などと戯言を呟き、くるりと無邪気に舞って見せた。背景のモノクロの庭園に馴染む濃紺のジャンパースカートが揺らめく。肩の辺りまで伸びる黒髪がはためく。良い香りがした。
私が娘の腕前を褒めたのもあってか、先程までの不機嫌さもすっかり晴れたようだ。十二歳という瑞々しさで溢れた可愛らしい笑顔があった。しかし、相変わらず彼女の顔色は青白く、体調は良くないと見えるのが心配だ。
その原因は、隠しようもなく。
この、私にあるのだが。
「そろそろ閉園時間だし、お家に帰ろ」
「うん。そうしよう」
娘は微かに膨らみ始めた腹部を愛おしげに撫でた。
閉園を告げる鐘が鳴った。
***
私の大学の同級生の者たちは皆、出世して本格的に親孝行を為す事のできる頃合いではあるが、自分はただふらふらと外に出ては景色や人々を撮影しているカメラマンでしかない。私一人の収入は少なく、安いアパートの一室を借りて、緑黄色野菜の入った三食を一日にしっかり摂取するだけで底が見える。自分一人で精一杯なのであるから、娘の彩花を養うというのは、それはもう自分一人の力では到底実現し得ない程の出費である。
嘗てこんな自分にも婚姻関係を結んだ女性がいた。更には彼女との間に娘の彩花まで生まれた。自分一人でさえ満足に生かせない収入では彼女らを養えず、当然ながら離婚した。不幸中の幸いであるのは、几帳面な会社勤めの妻よりも自分は家にいる時間が多かったので、彩花とは仲良くなれたという事である。
彩花は三人での食事も私の隣の席で、風呂も私と浸かり、寝床も共にした。私が撮影の旅に出かければ、娘は用事さえなければ付いてきた。四歳の頃であっただろうか、カメラを上手に扱えない彩花はその頃から平面に何かを記録する事、言い換えれば、絵画にのめり込むようになった。カメラマンというある種の芸術家の娘が絵画を好むのは至極、当然の流れであった。私たちは二人で旅行をする度に、互いに同じ風景を記録しあった。
妻からすればそれが非常に面白いものではないようで、彩花とはよく口論をしていたものだ。酷い時は彩花の力作をはさみでバラバラにして、私の資力から出る以上大したものではないが、彩花の大事な画材道具全てを捨てた事があった。ギリシア神話のテバイ王やオーストリアの呪術師の言うように、幼い娘は母を激しく憎み、父である私を愛するようになった。
そこから先はとんとん拍子で話が進む。具体的にいつの夜かは記憶にないが、彩花はとある旅館で私と性交に及んだ際の絵画を緻密に描き上げ、妻に見せつけたらしい。それを機に私たちは離婚、財産の大部分を失った。すると彩花は私にこう言ったのだ。他の風景と同じように娘をカメラで撮って、それを他の風景写真などと同じように売ればいい、と。そして、私は娘の写真を撮影し、販売する事で、何とか生活している。
「お父さーん、私、準備できたよー。まーだー?」
「今行くよ、彩花。身体を冷やさないように何か羽織っていなさない」
首を片手で軽く揉み、玄関に置いたままのカメラをさっと拾う。私は機械のような手付きでSDカードを抜き取り、別のSDカードを差し込む。これから撮るものは庭園などの風景とは、文字通りの意味で一桁も二桁も違う、金になる写真だ。そして、それ以上に最高の作品が撮れる。
心躍る私は釣り上がる口元を無理やり横一文字に閉じ、顔を左右に揺さぶる。僅かな精神の狂いも写真の出来栄えを左右する。だが、気になる物を見つけてしまった。なんとはなしに視線を向けた先にある物、彩花の革製の手提げだ。娘を待たせてはいるが、出来心でついそれを覗いてしまう。
「……やっぱり、光の加減がデタラメだ。子供らしさはあるんだが」
乱雑にスケッチブックから取り除かれ、くしゃくしゃに丸められた一枚の紙を丁寧に広げていく。モノクロの日本庭園の絵を仕上げる前に彩花が描いた、彩のある日本庭園の絵だ。小雨が降る少し前、斜陽の中の鮮やかな日本庭園の絵は、本来の世界を記録したものとは考えられない程の見栄えであった。
モノとモノの輪郭や位置関係、スケール、重量感、現実味、その他の要因は賞賛に価する水準である。小学生程度の絵のコンクールならば、まず間違いなく上位には食い込む作品であるとは思う。
だが、光だ。これが娘の絵の全てを台無しにしている。庭園を照らす木漏れ日は異常に白けた菜の花色で、漣を浮かべる上池は底が見えないくせに明るすぎる白藍色。水面が煌びやかすぎて、草木が賑やかすぎる。絵の上に光そのものを含んだ液体を零したようだ。美しい景色の上に光がのさばり、世界全体を白けさせ、ぼやかし、貶めている。どうして娘の見る世界に光があってはならないのだろうか。いや、光など最初からないのかもしれない。
「ねー、お父さーん。まーだーなーのー?」
「ごめんよ、彩花。ほら、準備できたよ」
手元の絵画を綺麗に伸ばして、娘の手提げに丁寧にしまう。私はやや駆け足気味で三脚とカメラを抱えて寝室に入る。アパート全体は粗末ながらも、寝室だけは撮影に使う部屋ではあるので整理整頓がされている。というより、白いベッドと木の椅子以外には何も置いていない。撮影にはそれ以上のものは必要ない。記録の邪魔になるだけだ。
寝室はベッド同様の純白のカーテンで外界から遮断されており、その向こう側から微かに窓を叩く雨音が聞こえる。雨は夕方より強くなってきた。今夜は冷えそうだ。
「もー、寒かったんだから。風邪ひいちゃったら大変なんだよー」
「だから何かを羽織っていろと言っただろう、って……」
ベッドの上には真白いシーツをすっぽりと被って、一つの大きな毛玉と化した彩花が口を尖らせている。私は娘に近付き、彼女の頭部を覆うシーツを捲る。収納されていた彼女の艶やかな黒髪がバサッと広がり、入浴直後のシャンプーのいい香りが鼻腔をくすぐる。
シーツのフードを剥がされた娘は頰を微かに染めて私の目を見つめる。だが、やはりどこか顔色は不健康なままで、近付くとよく分かるのだが、顔が全体的に痩けている。顔だけではない。シーツに包まれてはいるが、その奥からちらりと見える首筋、肩、両腕、どこもかしこも私が抱くだけで簡単に折れてしまいそうだ。
彩花は元から華奢な子で、食事も運動も控えめな生活を送っていた。だが、彼女の最近の食欲不振はそれに拍車をかけているようだ。嘗てこの時期の妻は食欲の偏りこそ見られたものの、ここまで痩せこける事はなかったと記憶している。やはり、彩花の年齢のせいであろうか。
「彩花、食欲がなくても少しは食べないと。今日もお魚、残していたろう」
「美味すぎ棒とか、ポッキィならいくらでも食べられるし」
「お菓子じゃなくて、栄養のあるものを食べるんだ。お菓子は太るぞ」
「もー、私が痩せすぎって言うのはお父さんだし……」
馬鹿、私は小声でそう呟き、シーツに包まった彩花の痩けた頰を軽くつねり、そのまま抱く。娘は体育座りの姿勢のまま私に身を委ね、顔を胸板に寄せる。顔色は悪いが、子供特有の温かい体温がシーツ越しに伝わって来る。
しかし、それでは温もりが足りない。彩花を包むシーツを乱暴に取り払い、無機質な蛍光灯の元に彼女の柔肌が露わになる。私は彼女の四肢が壊れないように丁寧に、しかし情熱的に抱く。彼女の肌は華奢ではあるが、言いつくせぬ程の美と色気が潜んでいる。痣も傷も、何もない。彼女の身体に瑕疵があっては商品価値が下がる。
そして、その腹部。幼い子供特有の膨らみではない、確かにそれは大人の証。彩花は私の視線に気付いたようだ。彼女は目をとろんとさせて自身の腹部を眺め、愛おしそうに撫でる。娘は私からの贈り物は何であれ喜ぶが、これは特に気に入ったようだ。
「彩花、記録を始めよう。いつもの、言えるね?」
「お父さんと私の大事な赤ちゃん、今日で多分、十三週目だよ」
「よく言えた。彩花、今夜も沢山愛してあげるよ」
母胎やその仕組みというものに私はさして詳しい訳ではないので、いつの晩かは判断しかねるのだが、彩花は身籠ったらしい。彼女の身体的な成長は平均より少し早いとは感じていたが、それにも拘らず避妊の備えなどしていなかったのだから、実に当然の結果と言えた。いや、寧ろ私は彼女の懐妊を望んでいた。これは金になると考えていたし、何より最高の美を記録する好機であると捉えた。
私は娘に軽く口付けをしてやり、部屋に固定してあるカメラで彼女の艶かしい肢体を舐め尽くすように撮影する。撮影というものは芸術活動ではあるものの、思ったよりは理詰めに行われるものであると私は考えている。まず被写体を選ぶ感覚が第一にあるのは言うまでもないが、そこから後は理屈で説明できる。何故そこに三脚を置き、何故その向きに被写体を置き、何故この光の量の元に被写体を置くのか。あらゆる事が説明できる。そうした理屈や理論を積み重ね、奇跡のような一枚を記録する事が可能となるのである。
今回も同じ事である。理屈や理論を用意し、奇跡の一枚を記録する。彼女の青白い首筋も、胸部の微かな膨らみも、大きめな乳輪に反して意外にも小さな乳首も、血管が少し透けて見える手も、柔らかさそのものである太腿も、世の男どもが欲して止まぬ女性の秘所も、幼い彼女の腹部に宿る命の息吹も、何もかも、全てを記録する。
「彩花、その椅子に座ってごらん。お腹の膨らみも大きくなったのだから、この写真にも一層の価値が付くよ」
「分かったよ、お父さん。これで、良いかな?」
彩花は健気に頷き、寝室に置かれた木の椅子に座る。裸体のままの愛しい娘は恍惚とした表情をし、胸部を強調するように身をくねらせ、淫らに股を開き、左手で自身の秘所を晒し、右手を膨らんだ腹部に添える。このたった一枚を撮る為だけに椅子は用意されている。
椅子に座った美しい母と子。モデルは言うまでもない。キリスト教成立以降、ヨーロッパの様々な時代、地域で芸術作品の題材とされてきた幼児のイエス・キリストを抱く聖母マリアの構図。通称、聖母子像だ。ラファエロの作品がこの国では最も有名であろうか。
しかし、こんなにも美しい聖母子を写せるのは教会の敬虔なる信徒でも、それこそ崇高なるルネサンス期の画家でもない。悪徳と淫乱と冒涜と純真に満ちた現代の幼き聖母マリア、彩花の父であるこの私ただ一人だけである。私は今世紀最大の芸術家だ。
「最高だよ、彩花。これは今までの写真の中でも最も優れた作品だ」
十二歳の娘の妊娠の記録。娘との性交から、週を重ねる度に変化する娘の体調と腹部の膨らみ、ここ数ヶ月間の娘の記録全てを一つに纏めた作品を販売する。私たちのいつもの商売とは桁違いの利益を生み出すだろう。この作品のタイトルは計画の構想を始めた時点で決まっている。『禁断の聖母子』だ。
「本当? やっぱり私、天才だね。もっと褒めても良いんだよ?」
一瞬たりとも娘の身体から目を離してはならない。目を離した隙に彼女の成長を見逃してしまう。常に変化し、絶えず成長し、たった一度の瞬きの間に世界から失われていく無常的で、刹那的な美。その全てを漏らす事なく、記録し尽くす。
この私だけが世界に存在する唯一の美、その移ろいの全てを独占して、記録する事が許されている。他の何者もこの世界の美を記録できぬ。私は世界の美の特等席に座り、これを記録する。私はなんと恵まれた人間なのであろうか。私はひたすら、娘の移ろいゆく美を記録し続ける。この世界は、とても美しい。素直にそう思える。
「私はお父さんの子を産める、幸せすぎるよ……」
涙目で喘ぎ、呟く彼女。私は彼女を情動的に抱いた。私も素敵な素材と出会えて幸せだ。
不安だらけの薄暗いこの世界も、お前がいるだけで鮮やかに色付き、美しくなる。
だからこそ、言わねばなるまい。
最高傑作『禁断の聖母子像』の顛末を。
***
やたらと、外の雨音が耳に入る。我が身に降り注いでいる訳ではないが、全身が重い。
撮影後、汗だくになった私たちはシャワーを浴びて全身を冷ました。身体の火照りも収まると、精神的な昂りも落ち着きを見せる。私はパソコンに本日の記録を保存し、凝った肩を自分で揉む。コチコチと聞こえる無機質な時計の短い針は午前五時を指そうとしていた。もう夜明けの時間だ。
やがて訪れる事の顛末を彼女に伝えねばならない。彼女は悲しむだろうが、知った事ではない。私は一人の父親である前に一人の冷酷な芸術家である。彩花は私の一人の娘である前に、私が独占的に支配する一つの優秀な素材である。素材をどう扱うかなど、芸術家の勝手である。素材は喋らない。
このビジネスを、この芸術活動を始める事に私は何の躊躇いもなかった。娘の進言があったからとか、娘を養う為とか、娘との愛を確かめ合うとか、そんなものは所詮、芸術活動の副産物であった気がする。私は娘の肢体に潜む美を記録する事だけに生きがいを見出している。私はそういう人間である。
だから、容赦なく告げた。それが、私にはできた。
「彩花、お前、数週間後にはそれを堕ろすからな」
「え、何言ってるの?」
瞬間、寝室を静寂と雨音だけが包み込む。
寒がりのくせに、面倒だからと私のシャツを一枚着ているだけの彩花は口を半開きにして振り返った。疑問に溢れた彼女の顔は私の冷めた表情を読む内に失意と悲嘆の表情に変わる。眠気で半開きであった目は見開かれ、透明の液体が滲む。私から守るように必死にその腹部を抑える。
ああ、愛しい私の娘よ。どうしてお前の表情も、身体も、その心でさえも、その変化の一つ一つがそんなにも美しいのだろうか。どうして、そんなにも刹那的な美しさしか、この世には与えてくれないのか。今の娘の表情や身体、心の変化を記録し損ねた事が非常に悔やまれる。
「うん、知っていたよ、お父さん。子供を育てるのにはお金がかかるからね……」
腹部に添えた手を離した彩花は表情に影を落とし、俯こうとした。だが、彼女は涙を落とすまいと真上を見上げる。私を困らせまいとしているのか、それともまさか、私の子を産めると本気で期待していた自分を恥じたのだろうか。どちらにせよ、とても、美しい。
私の力作である『禁断の聖母子像』は絶対に売れる。だが、それでは足りない。もっと稼ぐには、もっと娘を記録する必要がある。だから、目標の金額が手に入るまで私は何度も彩花に我が子種を注ぎ、孕ませ、記録し、堕胎させ、また孕ませて記録する。
「お父さんがそう言うなら、私はそれで良いよ。またお菓子一杯食べられるし、えへへ」
必死に笑顔を作ろうとする彩花。しかし、目尻に浮かぶ涙は隠しようもない。
そうか、彩花、悲しかったか。素直に泣き喚いても、それを良しとせずに必死に落涙を堪えても、怒りに身を任せて激情的になるのも、何をしてもお前は美しい。いや、私はそもそも金なんかより、この瞬間を見る為に娘を孕ませ、記録しているのかもしれない。
私は何という冷酷な芸術家であろうか。何という血も涙もない芸術家であろうか。そう思うと、私の口元が恐ろしく釣り上がる。娘のこの瞬間を私の眼で漏らす事なく記録してやろう。それこそが芸術家としての私の使命である。
「……でも、やっぱり、私は産みたかったな。お父さんと私の子」
堪えきれなくなった彩花は遂にぽろぽろと涙を流し、本音を呟いた。それでも彩花は絶望の表情を見せまいとする。娘は流れる涙を気にしないように隠しもせず、敢えて真正面から私を見つめる。そして、この世で最も美しく、最も尊い笑顔をこの私だけに見せる。
「彩花、とても美しいよ。この世界はラッキーだよ、彩花がいるんだから」
胸が高鳴る。この瞬間こそが、実に芸術的な瞬間の連続であった。
世界で最も美しい娘、その彼女の心の有り様が激しく揺さぶられる。娘が期待し、敬愛し、尊敬し、絶望し、悲嘆し、激怒し、葛藤し、諦観し、そしてまた私を敬愛する。この世界の美の全てを娘から記録できる。興奮で顔が、身体中が熱くなった。
娘から投げかけられた、その言葉を聞くまで。
「じゃあ、お父さんはどうして泣いているの?」
泣く? この私が?
なるほど、瞬きも忘れてしまっていて、それで眼球が乾いたのだ。いや、余りの崇高さに感涙を落としたのであろうか。最初に思い浮かんだ事はそんな事であった。涙など、実に邪魔なものだ。視界が潤んでは娘を、世界の美を記録することができなくなってしまう。
しかし、尚も涙は私の両目から溢れ続けていた。まるでダムが決壊したようだ。決壊、か。そう意識すると、私の内にある何かに空隙が穿たれた気がした。空隙からは身体の奥深くを貫くような鋭く、寒く、乾燥した空気が流れ込む。身体中から力が抜けた私はその場にしゃがみ込む事しかできない。
「大丈夫、お父さん?」
娘が心配そうな顔で私に寄り添い、涙を拭う。娘の手はとても暖かく、私は今が寒いのか、暑いのか、暖かいのか分からなくなる。それだけではない。私自身はしゃがみ込んで動いていないはずなのに、視界だけは妙に全体的に遠のいて行く気がする。自分がどこにいるのかが不明確になる。浮かんでいる気さえしてくる。身体中が麻痺してきている。
ただ一つ分かった事がある。それは娘の手が、私の芸術家としての根幹を破壊し尽くそうとしている事だ。娘は私に穿たれた空隙を素手で無理矢理に広げようとする。血塗れの素手で私の腸を引き摺り出す娘の映像が脳裏に浮かぶ。そうして、私が必死に気付かぬように閉じ込め、隠して、殺し続けてきたものを曝け出そうとする。
やめろ、やめてくれ。そう口にしたかったが、喉から声が出ない。うすら寒い口腔内に虚しい響が木霊した。こうなれば原始的で野蛮な事をする他なかった。私は必死に娘の手を振り払い、情けなく後ずさりをした。娘から、逃げるために。
「どうしちゃったの、お父さん。ねえ……返事してよ、ねえ」
しかし、遅すぎた。空隙を中心に私の築き上げた脆弱な監獄は崩壊した。監獄に閉じ込められていたものがどす黒い暗闇となって私を覆い尽くし、吞み込んでいく。
暗闇の正体は分かっている。それはもう一人の自分だ。芸術家として生きるために殺し続けている自分自身。それは暖かみのある響きで、とろかすような至福で心を満たす。妥協と安寧に人々を捕らえ、決して離さないもの。芸術家を、殺すもの。
それを人は、こう呼ぶ。
「お父さん、お父さん……!」
私は美を追い求める一人の芸術家である前に、彩花というたった一人の娘の父親であった。
そんな事は分かっている。だが、これは私という一人の芸術家を破滅させる呪いの言葉だ。私が私の目指す芸術の道を掻き乱し、暗がりに陥れ、惑わす。自分を一人の芸術家とするか、一人の父親とするか、自分をどっち付かずの宙ぶらりんな存在に変質させ、重力のない虚空に放り投げる。
甘い言葉や悦なる想い、至福の環境は現在の世界に対してあらゆる感覚を鈍らせる。それは紛れもなく芸術家を殺すものである。芸術家は常に孤高にあって、寒く、険しく、鋭く、厳かな存在。娘の呟いた言葉は芸術家を妥協や安寧という陥穽に追放する暖かい罠。
宙ぶらりんな私は足元の覚束ない暗闇の泥にどっぷり浸かってしまった。溺れぬように手を広げ、何かを掴もうとしても無駄だ。この手は中空を切るばかりで何も掴めぬ。
それがまた、自身を自身たらしめる、確固たる自身の証を喪失させる。私の憎む薄暗いだけの世界に呑み込まれてしまう。こんな世界を彩る最高の美の象徴、娘を記録する目を失ってしまう。
「……彩花、この私は誰なんだ、何者なんだ」
「この世界は全然ラッキーじゃないよ。お父さんを泣かせて、苦しめる世界なんて全然ラッキーじゃないよ。私に、白黒のこの世界を彩って、光を与えてくれるのはいつもお父さんだったのに……。この世界は、恩知らずだよ」
恐怖は一瞬。訪れるのは暖かく、甘い感覚。距離はあっという間に埋まる。
私の言葉を遮った娘が抱きつき、弱々しく嗚咽をあげて呟いた。私の肩に暖かい液体が溢れた。私はもはや娘を拒む事はできなかった。私が娘に光を与える存在だなんて、考えもしていなかった。唐突で、理解も追いつかない。
しかし、涙で滲む世界にふと、娘の画材道具が映った。錆びて、薄汚れた色鉛筆のケース。削りカスや芯で真っ黒に塗られ、汚れた鉛筆削り。そして、くしゃくしゃに丸められた跡が残った、光に溢れすぎた極彩色の日本庭園の絵。
「私に何かをくれるのはいつもお父さんだったの。お父さんが私にとっての世界なの。だから、お願い、私から何も、奪わないで……!」
寧ろ、この空隙を埋めるように、私は娘を一層愛おしく想い、愛情を募らせた。これがきっと、普通の父親の抱く感情なのであろう。私は娘の名を大きな声で叫んで抱いた。強く、決して離さないように。
決心した。一瞬の心変わりではあったが、迷いはなかった。いや、正確に言うとそうではない。少し時間をおいて、冷静になって考え直せば元の道に帰れたかもしれない。だからこそ、心変わりのしない内に宣言して、退路を断ちたかったのである。
だから、しっかりと言ってやろう。それが、私にはきっとできる。
「俺は、彩花の父親だ。その子の父も俺で、母は彩花だ」
「ありがとう、ありがとう。お父さん、ありがとう。大好きだよ」
優しく、愛おしい口づけ。
娘が私の右目に、次に左目にキスをした。
純白のカーテンの隙間から柔らかい朝陽が差し込む。長かった雨は、今、止んだ。
名残惜しそうに私の目から唇を離す彩花。彼女は朝陽に包まれ、神々しかった。
ああ、君こそが、現世を生きる、私だけの聖母マリア。
私たちの子を、共に育てて愛を深めよう。これから、やり直していこう。
私は今、真の美を記録している。これこそが、追い求めていた美の極致であったか。
「じゃあね、大好きだった、芸術家のお父さん」
「え?」
多分、彩花は先端の丸まった黒鉛筆を強く握り締めていたと思う。
私が最後に記録したのは、そういう世界だった。
「もう、泣かなくて良いんだよ」
彼女の不可解な言葉の後、目の辺りに鈍い衝撃が走った。脳を前方から叩き潰されたようだ。
視界は赤と黒が歪に舞う異世界と化す。もう、この目が聖母を記録する事はなかった。
私はただ、その暖かい腕に抱かれるだけ。だが、もう、それで良いではないか。
私は芸術家である事をやめた。