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セルリアン・スマイル ~その痛み、忘却~  作者: JUNA
Smile2 狂へる遊戯 ~Strawberry Fields Forever~
92/129

38 「7年前」


 「7年前の8月12日、国北部に位置するエポラールシティにある警察署に、1人の女性が飛び込んできた。彼女の訴えこそ、この事件の始まりだった。


  “2日前、峠道をドライブ中に、父親が息子を山中に置き去りにした。今も子供は帰っていない”


 場所はシティ西部に位置するプロンバレーヌ山。30km四方を広葉樹林に囲まれた広大な迷宮で、野性動物による死亡事案も報告されている危険地域。


 事態を重く見た国警は、地元自警団と共に捜索に乗り出したが、少年の姿は見当たらず。捜索開始から3日目には軍が出動することとなった。

 のべ2万人を動員した捜索は、各国の国営放送からネットニュースまで、ありとあらゆるマスメディアが報道し、大きな騒ぎとなり、神隠しすら唱えるメディアもでてくる始末。


  5日後、置き去りにされた場所から8キロ離れた別の山の麓にある、キャンプ場のバンガローにて少年は、捜索中の陸軍隊員によって保護され、エポラール赤十字病院に搬送された。健康状態に問題はなかったが、直後、この奇跡は、誰もが予想だにしなかった結末で幕を下ろした。


 日常的に虐待とDVを繰り返していた父親の逮捕。犯行理由は“ドライブ中に空き缶のポイ捨てを注意されたから”。

  メディアはこぞって、この事件を悲劇として報じ、父親を非難。お昼のワイドショーを総なめにし続けた」

 「……」


 シレーナの説明に、ただ下を向くだけのロイス。


 「半月もすれば、海外どころか、国内でも事件を報道する機会は減っていった。家族は取材NGだし、世間はフランスに端を発した、EU疑獄事件に首ったけになってましたから。

  波は収まり、事件を告発した妻は、逮捕された夫と密かに離婚。シングルマザーとして、人々の雑踏に溶け込んでいった。それが――」

 「そうだよ。私の妻だ。最初は、そんな事件の被害者だとは知らなかった。でも、知ったところで何ら変わりはない。私は妻を愛していたのだからね。

  私は今まで彼女が享受できなかった愛情を、彼女に与えたいと思った。無論、ジョナサンにもね」

 「じゃあ、どうして彼を息子ではなく、養子にしたんです?」


 ハフシが聞くと、ロイスは首を振りながら

 「あれは妻が言いだしたことなんです。私は、それを行動に移しただけです…」と弱弱しく。



 そうなると、ここで一つの疑問が生じる。無論、ここに着く前にシレーナとハフシは、今までの話は全てアナスタシア経由で聞いており周知の事実。それを踏まえて、この障壁に改めて直面したのだ――。


 事件が発覚したのは間違いなく母親のおかげだ。2日と言う時間的空白はあったものの、これ以上、警察への捜索届提出が遅れていれば、間違いなく男児の生命は危険にさらされていた。

 一方で逮捕された父親は、帰宅直後母親へ暴力をふるい、警察へ行くなと脅しをかけ、彼女を自分の監視下に置くために、自宅と車の鍵を取り上げ、誰が出たか分かるよう玄関に鈴をつけていたという。



 DVやいじめなど暴力的な支配下に置かれた人間は、その過程で長期的で回避不能なストレスによって、心理的なあきらめ ―広義的には学習性無力感と呼ばれる理論であるが、ここでは詳細な部分は割愛させていただく―が生じ、被害者はその状況から、自ら進んで抜け出そうとはしなくなるし、その努力すらしなくなる。仮にチャンスがあったとしても、長年の学習から、いかなる可能性も無駄なことと捉え自発的な行動を取らなくなるのだ。



 男児同様日常的に暴力を振るわれていた母親は、そう言った状況下であったにもかかわらず、夫の元を抜け、警察に駆け込んだことになる。つまり、自分の全てを投げ打って、我が息子を救ったことになるし、そこには我々が想像する以上に絶句する程のパワーと葛藤があったに違いない。

 それなのに、どうして母親はわが子を突き放すような行動を取ったのか。

 いくつかの可能性が浮上するが、こればかりは当人から聞かないと真相は推測の域を出ない。否、心理学的事象と言うものは、常に事実と推測の境界線を浮遊しなければならないのだ。丁度、鍋に浮かんだ灰汁(あく)と湯を見極めて掬うように――。


 そこでシレーナは、現在ロイスに確認できる“ある噂”を聞いてみることにした。

 母親が息子と距離を置くことになった、可能性としての遠因。


 「気に触れてしまったなら謝りますが、もしかして、あの噂が一因にあるのでしょうか?」

 シレーナが聞くと、彼は頷いた。

 「あれは、ただの噂のはずですよね? どうして2人は――」

 「それが噂ではなく、事実だったからですよ」


 シレーナは久しぶりに、というより痛覚の後を追うように忘却しかかった感覚、それに襲われた。

 背筋を何か寒いものが、砂山の頂上から水を流し込むように、ゆっくりと下へながれていく。

 ハフシに至っては、それが顕著に出て、眼帯の向こうにある瞳が揺れていた――。


 ◆


 ――実は事件後、一冊の週刊誌が気になる記事を報じたんだ。


 ロイス邸に着く少し前、道路を疾走するケンメリの車内で、2人はアナスタシアの声に耳を傾けていた。


 「気になる記事?」

 ――ああ。事件から2日後、実は舞台となった山麓で、もう1つの事件が起きていたんだ。パトロール中の山岳救助隊が、プロンバレーヌ山第七登山道で遺体を発見した。当事者は1週間前から捜索願が出ていた79歳の男性で、認知症による徘徊壁があった。プロンバレーヌ警察は、徘徊中に登山道に入り不幸にも亡くなってしまったと推測したんだ。

   まあ、悪い言い方になるが、それなら、どこにでもあるような事件なんだがね。問題はここからだ。その遺体はね、何者かによって損壊されていたんだ。いや…食い荒らされていた、とでも言うべきかね。


 「食い荒らされていた?」


 ――腹部には巨大な空洞。右足と両腕は引きちぎられ、頭部も左側面が完全につぶれていた。死因も大量出血によるショック死。当初は山に生息するクマの仕業として、山岳救助隊と警察は結論を出して事件を公表したが、件の行方不明事件が光を浴びている最中だ。三面記事でも一番小さな扱いにされ一応、世間に伝えられた。地元猟友会も、更なる被害を防ぐためにパトロールを開始した。でもね、直後に監察医が異を唱えたんだ。これはクマの仕業じゃないってね。

 

 「その理由は?」


 ――引きちぎられた腕だよ。肩の骨には何かによって繰り返し打撃を加えられた痕跡があった上、犯人はご丁寧に指だけを食いちぎっていて、それ以外の損傷が全くない。クマにしては、あまりにも細かすぎる、不可能に近い芸当だったのさ。

   そして、監察医が訴え、警察が認めざるを得なかった物証。それが歯型さ。どう比較しても遺体についていた歯型は、クマのものより小さく、歯の並びが横に広がっていたのさ。無論、プロンバレーヌ山に生息する、あらゆる野生生物を調べたが、合致する歯型の生物はいなかった。そう…野生生物にはね。


 「まさか…」


 ――その、まさかだ。再鑑定後、監察医は同じ結果に、鑑定書を添えて辿りついたのさ。その歯形はね、人間のそれだった。つまり、あの山で、何者かによって実行されていたんだよ。

 「食人…カニバリズム…」

 ――犯人も特定できた。奇しくも遺体の見つかった登山道は、行方不明になった男児―ジョナサンが通過したであろうルートと、ぴったり合致していたし、なによりも彼がバンガローで発見された時、死んでいると誤解しそうなほど、体中が血まみれの状態だったそうだから。

 「本当なんですか?」とハフシ。

 ――発見した隊員が、防衛省の監察に対して、そう証言してるんだ。間違いはないよ。

 「しかし、それでは――」

 ――証拠にはならない、って言いたんだろうが、警察がジョナサンの見つかったバンガローと、彼の着ていた服に付着していた血のDNA鑑定をした結果、被害者と同じ血液型が検出された。念のために検便を実施したそうだが、そっちの方はきれいさっぱり流されていたらしいがね。


 混乱するしかなかった。

 でも、そうなると、否、それしか答えは導き出せなかった。


 「アナスタシア。そうなると彼は」



 ――そうだ。彼は自分が生きながらえるために、人間を食らったんだ。生きている人間をね。



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