36 「和 里菜」
シレーナとハフシの逮捕劇と同時刻
中央区
十文字館学園1階 カフェテリア
学校西側、アリーナ棟に併設されたカフェテリア。100人以上を収容可能なそこは、昼と言うのに人の姿も声すら聞こえてこない。否、確かに1人だけいて、寝息は微かに聞こえてくる。その上、厨房や会計カウンターにオバチャンの姿はおらず、陳列棚には軽食もない。あるのは自販機の唸り声に包まれて冷やされるパンとジュース。加えて食器返却口近くに備え付けられた給水機コップのみ。
当然だ。今日は登校日ではないのだから。
傍のグラウンドから聞こえる、テニス部とアメフト部の掛け声を子守歌に、佐保川貴也は寝息を立てて爆睡していた。英欧橋への応援後、足りていない休眠と頭脳―というのは余計か―を補うため、カフェテリアの真ん中でテーブルに突っ伏して寝ていた。
時刻は既に昼餉時。
不意に冷たい感触が、彼の頬を走り抜ける!
刺激を受け取り、咄嗟に起き上がった彼は、視界にその人物を捉えた。
「風邪、ひきますよ?」
どういう訳だろう。制服を身にまとった女子生徒が1人、手に缶コーヒーを2本持って微笑んでいる。無論、シレーナではないし、どう見ても部活終わりという感じでもない。かといって知ってるかと言われれば、答えは1つ。
「どちらさん?」
至極当たり前な反応だ。
それに茶髪ショートが似合う少女は、瞬きしながらキョトンとし
「覚えてないの?」
「すみませんが…」
申し訳なさそうに会釈する貴也に、少女はブレザーの内ポケットから1枚の紙片を取り出した。
日本人の彼には見覚えのある、嫌に綺麗で統一された重圧紙片。
“メイシ”と呼ばれる、ジャパニーズ・グリーティング。つまりは“日本式の初対面挨拶”
「新聞部の、和 里菜です」
その名前を地の文として見た瞬間に、脳内の記憶分子が存在証明のために、ここだと叫んだ。
日本人移民が多く、長きにわたって入ってきた歴史があり、現在も日本と親しく強い国交を結んでいる故、日本人が多く、日本名が珍しくない此の国でも、「和」はとても珍しい苗字であったから、覚えていた。
そうだ、彼女は新聞部員。
直接の関わりは、これまでなかった。確かにガーディアンに属する捜査官やボックスの中には、全国学生新聞部連盟 ―全国の新聞部を統括する組合のようなもので、部員の越権・違法行為の規制や、情報交流、新聞部のさらなる向上等と主として行動している― に加盟する新聞部と協定を結んでいるところも存在するが、十文字は以前も話したが所詮、風紀委員。ブン屋の手伝いなんて、これっぽっちも役には立たないため、これまで一切関わりは持ってなかった。
しかし、今年初っ端に新聞部員2名がグランツ港の保安施設に無断で侵入し、補導された事件があり、その事実確認のため貴也と元相棒の伊倉カナが、彼らの“取り調べ”を行った。
結局は無罪放免。事件そのものも、なかったことになったが…。
その時、補導された部員の1人が、この和里菜だったのだ。
「その顔は、思い出したって顔ですね?」
「ああ、あの時の…一体、何の用だい? 十文字館のボックスは、もう解体したよ」
「そうね。それを知らない生徒がいるなら、文字通りの天然記念物モノですよ。御存知ですか? あなた達がいなくなって、この学校は表向きはクリーンを保ってますが、裏では荒れに荒れてるんですよ。アリーナ裏なんか、タバコの吸い殻が――」
貴也は里菜の言葉を遮る。
「俺に取り締まれって言うのかい? 残念だが――」
「もう、あなたに捜査権はない。ですよね?」
お返しとばかりに。
無言で彼は、缶コーヒーのプルトップを開けた。
「でも、あなたは勝手に警察の真似事をしている…違いますか?」
一瞬、眉を動かしそうになる。こらえた。
「それも、今、グランツの学生なら誰でも話題にする、連続児童暴行事件」
でも、コーヒーを口にしながら、その苦さを逃げの理由に、顔をしかめた。
「コーヒー、お嫌いでした?」
彼女の言葉が、今は皮肉に聞こえる。
伊倉とペアを組んでいた時は、眼中になかった。たかが“にわか記者”と、高をくくっていた。それがどうだ。どこから、そんな情報を。
「ああ。微糖よりカフェオレ派でね」と嘘をつく。
「そうですか。それより、お聞きしたいのは、どうして捜査権を返上した学生が、3人の犠牲者を出し、現在も進行中の凶悪犯罪に首を突っ込んでいるのか」
「ちょっと待ってくれ、死んだのはゼアミ区の兄妹だけのはずだ。3人ってのは」
「御存じないんですか? 今さっき、朱天区で襲われた男子生徒が亡くなりましたよ?」
寝耳に水だった。
「ガセじゃないのか?」
「これでも、連盟に加盟している認可記者ですよ? 情報は正確ですから。
死因は窒息死。鼻も口も殴打されて変形してましたから、人工呼吸でも、どうにもならなかったようですね」
半信半疑。でも、今ここで粗探しでもされたら、こっちの身が持たない。
ここは適当にあしらって、逃げるしかない。
「まあ、確かに十文字での捜査権はないよ。伊倉カナが死んだ時点で、この学校の捜査官は俺だけになる。君は知ってると思うけど、ガーディアンの規約では、各学校ボックスから、捜査、警らまで、行動はツーマン・セルが原則だ。だから、この学校での捜査はできなくなったから、ガーディアンとしての権利、つまりは捜査権を返上したんだ。
ところが、だ。市北部の犯罪率が、ここのところ上昇中でね。それに対応する新たな、複数学校で構成されるボックスの設立が決まって、教科省から、そこに加わるよう辞令を受けたんだ。その直後にゼアミでの事件さ。だから俺は、一旦はガーディアンから抜けたけど、もう一回、舞い戻ったと、こういう訳だな」
と、華麗な嘘を並べる。
まあ、これは再研修に行く前に、シレーナから吹き込まれた回避術なのだが。
だから、そんな新しいボックスは存在しないし、貴也は現在もデータ上は、捜査官ではないのだ。
里菜も不承不承ながら、了解したが
「それなら話が早いわ」
「はい?」
彼女は貴也に顔を近づけ、笑顔で言う。
「ねえ、いい情報があるんだけど? 聞きたくない?」
無論、聞きたくない。
ここから逃げるが吉だ。
「興味ないね」
そう言って立ち上がった貴也だったが――
「今起きてる事件に関することだとしても?」
「なにっ?」
「それも、ガーディアンどころか警察すら掴んでいない、犯人に繋がる重要な証言だとしても?」
耳を疑った。でも、耳以上に相手を疑った。
彼女が本当に、一線で四苦八苦している警察官たちが、喉から手が出る程欲するような、一発逆転の情報を持っているとは、甚だ信じられなかった。
しかし、直後にかかってきた電話に、貴也は里菜と言う女を信じざるを得なかった。
――タカヤ。昨日の被害者が死んだよ。
「死んだ?」
――今から10分前だ。詳しい死因は司法解剖を待つしかないが、直接の死因は窒息死だそうだ…これで3人。早く犯人を特定しないと、騒ぎになるぞ!
エルからの電話に、貴也は恐る恐る里菜を見た。
彼女は貴也の座っていた椅子を軽く引いて、こちらへ、と手を伸ばした。
その笑みに、まだ無垢だった蝶は、羽を翻すしかない。
――その花が擬態した食虫植物と知るのは、羽が食い散らかされた後だと、想像すらできずに。




