26 「狂気の口づけ」
――…とのことです。これによりWHOは、ルーマニアでの新型水鳥ウィルスの終息を宣言、5年間に渡り東ヨーロッパを襲った、感染拡大による被害はひとまずの落ち着きを見せ始めました。
次のニュースです。グランツシティで多発している連続児童暴行事件に関して、今日午後、教科省と警察庁が非公式の会談を行ったとのことです。これは先日、7人目の被害者であるカルロス・リー君が殺害されたことによって…
旧式のKPGC110―ケンメリGTRに、カーナビなどという、たいそうなものは積んでいない。
中央区。午後7時11分。
凱旋門ビルへ向けて東へと伸びる、片側二車線の市道5号線。
北分署に立ち寄った後、渋滞に捕まったシレーナと貴也は、夕食にありつくこともできず、ラジオを流しながら眼前のテールライトと、アウディの丸四つエンブレムに、にらめっこを挑んでいた。
「ものの見事にフリーズしたわね」
「だな。あそこで変なことしてなきゃあ、渋滞にははまってなかったかも…だけど」
「過ぎたことを話しても仕方ないわよ。んなもの。女々しい男は嫌われるわよ」
君が撒いた種だろ。とは口が裂けても言えなかったし。元はと言えば、貴也が発端でもある。
というより、あの状況では、どっちが引き金となったのか―というよりは異なる思想信条が同一空間に押し込められ爆発した様相であったならば、この結末は必然であっただろうし、2人の出会いがまだ、半月にも満たないという前提まで付けば、この必然により一層の力が増す。それどころか、互いが互いを、まだよく分かっていないのだから…。
まあ、シレーナの言うとおり、過ぎたことを言っても仕方ない。
「で、どれくらい渋滞してるの?」
貴也はスマートフォンをスワイプしながら話す。
「どうやら工事渋滞みたいだね。4ブロック先を先頭に6キロの渋滞だ」
「そう…」
「時間も時間だし、この近くのレストランで、夕食でも取ろうか。どこかいい店は、ある?」
すると、シレーナは言った。
「あんまり外食しないのよ。私」
「ってことは、いつも帰って料理を?」
感嘆も束の間。
「コンビニ」
「えっ?」
気だるそうに再度。
「コンビニで弁当か、サンドイッチ。それだけよ」
「おいおい、それじゃあ体に悪いぜ。添加物の塊じゃねーか」
シレーナは言う。
「私ね。子供の頃から、そんな物しか食べたことないから…体が、添加物しか受け付けない」
「は? 何を言ってるんだ?」
もしかして、シレーナは施設の出か?
貴也は一瞬、そう勘ぐった。
この唐突なカミングアウトを、本気と見るのか、ドライブの時間をつぶす彼女の下手なジョークと見るのかすら定まっていないし、着地点を貴也自身が探していた。否、トークンモールでの殺害に、先刻の説法。どう考えても、このボヤキを冗談として取るには、余りにも陰鬱。しかし、真実であっても変わりない。あの殺しに反動する影が大きい。
その様子を察したのか、はたまたロボットのように思考を画一化させているのか、シレーナはこう切った。
「私は、あなたの思ってるような育ちじゃないわ。私は施設ではなく、普通と呼ばれる家庭に育ったわ。無論、一般的に父や母と呼ばれる大人もいたし、弟と呼ばれる子供もいた」
「君の言葉は韻を踏みすぎている。一体、どうしてそんなふうになったんだ」
「さあね。ただ、そんなことを知っても、あなたには一銭の得にもならないし、私にもメリットは無い。違う?」
返す言葉もない。その通りだからである。
そこに知識や教訓と言ったご立派な高説どころか、虚無や沈黙と言ったモノすら存在しないだろう。
あるとするならば、それは…それは一体なんだろうか。
しかし、解答不能の感情の一方で、シレーナの過去に何があったのか。この女の子は、なにをどうして、こんな冷淡な少女に完成してしまったのか。気になっているのもまた、事実である。
何故なら、貴也がガーディアンになった理由。それは――
――シレーナ、応答してくれ。
無線が叫ぶ。相手は声からわかった。イナミだ。
「シレーナ」
――通信指令センターからの一方だ。知らない2人組に誘拐されて、暴行された旨の通報が入った。声の状態から推測するに10代前半の男性、もしかしたら、一連の犯人が再び現れたのかもしれん。
「場所は?」
――朱天区東部、ヤンズ地区にある公衆電話だ。今、君のスマホに位置を転送する。
そう言われ、スカートのポケットからスマートフォンを取り出すと、他の照明より一倍明るいライトに目を通す。
「スウィピン人民市場のあたりか。ここなら、飛ばせば10分前後で着くわね」
――電話は2分前に突然切れた。一刻も早く急行してくれ。それから…。
イナミは一瞬、言葉をためた。
――タカヤは知ってるから話してもいいだろう。まだ、この事件の犯人は特定されていない。それらしき容疑者に出会っても、殺すなよ。できれば逮捕、極力、被害者の保護に重きを置くんだ。
「私が、殺戮者に見えますか? そんなヤワなこと、しませんよ」
――念のための保険だ。兎も角、急行してくれ。
「了解」
通信を終えると、シレーナはケンメリの屋根に、ブルーのシングルランプを置き、ギアを入れ替える。
丁度、車列が動く。
右手。中央分離帯に車1台分の隙間が見える。Uターン用に空けてあるものだ。
「掴まってなさい!」
言い終わる間も惜しむアクション! エンジンが唸るや後輪が煙を巻き上げ始めた。
そのまま車体が横へと滑り、ドリフトしながら分離帯をターン。
車両の少ない反対車線へ出たケンメリは、サイレンを鳴らして急加速。叩き上げるように重圧に唸るエンジンを余韻に残して、夜の市街地を疾走する。
最早、重要な警告音が置いてけぼりを食らうような、目まぐるしいスピード。
一般車が、次々とテールランプを残して“怪物”の横を去っていく。
その眼光鋭く、足はアスファルトに悲鳴を刻んでいく。
貴也はそれを、両手でドアの吊り手を掴みながら、呆然と動体視力に任せて流すしかできない。
「タカヤ、無線を」
「お、おう」
現実に引き戻された彼は、圧倒的Gと不慣れな最高速に抗いながらも、吊り手から右手を放して無線を掴んだ。
通信が開始された途端、シレーナはクールに叫ぶ。
「レッドキャップから各員へ。朱天地区で501―当該担当案件との関係が思しき事件―発生。場所は、ヤンズ地区6丁目2-17、スウィピン人民市場付近。尚、事件は現在進行中の可能性高し。コード07で行動せよ」
――イエローフラッグ了解。
――玄武了解。
そして、イエローフラッグ―エルから更なる無線。
――イエローフラッグから各員へ。当該案件に関する情報共有。現状データの条件付き。ゼアミ地区殺人現場付近で目撃されたバイクの特定が、ほぼ完了した。車種は白のホンダ ジャズ。背もたれを取りつけた改造車両。ナンバー、上1桁がd-6。それ以外は意図的に隠されており不明。搭乗人物は身長160センチ前後の男性、黒髪。人相はサングラスをしていて分からず…シレーナ、現場で似たバイクや人物に遭遇したら、注意してくれ。
「了解」
◆
赤い壁に瓦屋根の中華風建築が立ち並ぶ一角。
遠くには輝く高層ビルが何棟か見えるが、ここに光は無い。
まだ日が暮れて幾分しか経っていないが、周囲は人の気配すらなく文字通りの静寂。何故ならそこが、区内最大の朝市が展開される場所だから。早朝に起き、朝から昼に動いて、日暮れと共に眠る――。
朱天区は中華人民共和国本土や台湾からの移民によって形成された、言うなれば巨大なチャイナタウンである。
東部、ヤンズ地区にある水瓶人民市場は、そんな朱天地区の台所でもあり、市内に3つある大型卸売市場の1つだ。主に野菜や香辛料、珍味等がよく取引される。
トラックやバンが駐車された空き地に、小型車が一台、車内灯を煌々とつけて停まっていた。
車内からはシャカシャカと音が漏れ、同時に車体が不定のリズムを刻んで左右に揺れる。こんなシチュエーションならば、大方は自宅やホテルという選択肢を捨てたか、それすら我慢できなかった男女が、ポップコーンメーカーより激しく弾けている。ああ、若いっていいわね。と思うに違いない…と思われるが、現実はそうではなかった。
窓ガラスには何故か内側から新聞紙が張り付けられ、車内からは悲鳴にも似た声が漏れだしていた。
運転席に置かれたラジカセから耳をつんざく音量で Big Black の Passing Complexion が流れ、狭い空間を切り裂いていく。車内では音階すらズタズタに切り裂きそうな殺意で1人の青年が今、後部座席で自分より小さな少年に馬乗りになっていた。
「んなろうがよおっ…かってに…逃げるんじゃ…ねーよっ!」
男はイラつきを拳に任せ、少年の軟な頬に鉄拳を入れ続ける。
「ごめんなさいっ! ごめんなさいっ!」
鼻が折れ、豪快に飛び出た血が、拳によって四方八方に飛び散っていく。
ゴリッと軟骨を噛み砕いたような音と共に、前歯も粉砕される。
「ごめんなさいじゃ…わかんねーべよ…何が悪いのか…ちゃんと言えや!」
その手が疲労で止まることはない。青く変色した頬を今度は、交互に殴り倒し始めた。
皮膚が押し出され、咬筋が切れていく。唇がまるで口づけを求めるかのように、前へと飛び出す。
「ごめんなばい…ごっ、ごびぇんなばい…」
「だからさあ! ごめんじゃわかんねーってんだろーがよ!」
「ごびぇん…ごべえんなばああい…」
まだ辛うじて、言葉が成立しているが、腫れ上がった頬。拳の関節は少年の眼球まで刺激し始めていた。目から血の涙が溢れる。
この子は、青年に何かをした訳ではない。ただ連れ去られ、こうして殴られているだけだ。謝罪することなど何もない。それでも青年は、しきりに少年に謝罪を求める。
その狂気が、惨禍が、悲鳴が、エレキギターの奏でるテクノ調のイントロに乗って拷問的であり快楽的な空間を作り出す。
「ごめんじゃわかんねえ…って…何度言えば…分かるんだよっ…お前、XXXXか? あ? XXXXかって聞いてるんだよおっ! …こんのお、XXXXがあっ!」
「う、うえええええん!」
少年が足で青年を蹴り、車のドアを開けて逃げ出した!
もう目が見えていない。足もおぼつかない。
土にまみれながら、少年は匍匐前進で前へ向かう。助かるために。
自分が何をしたのか。自分を責めながら。
だが
「逃げないでっ!」
革靴が少年の顔面を蹴り上げた。
ゴム鞠のように、弾力ある顔面はゆっくりと宙に舞い上がり、傍の軽トラックに叩き付けられ、地面に沈んだ。
「ごぴゅううううっ…ごぴゅううううっ…ごぴゅううううっ」
もう人と認識できない程に破壊された顔面。腫れ上がった頬に目、口。歯すらほとんどが四散して、口から発される言葉は、全て空気入れのように音と化している中でも、少年は恐怖から「ごめんなさい」を連呼していた。助かるために、自分を守るために。
「喋られないし、歩けない…おまえ…XXXXじゃなくて、XXXか」
青年は息を整えながら、尚も無実の少年に悪態をつく。
その傍で、蹴りを入れた制服姿の少女が呟く。
「どうしよう、弟くん。もうコレ、動かないよ」
「そうだな…でも、助かったよ。このまま逃げたら、厄介だったから」
「うん。もう2人殺しちゃったからね…大丈夫。あれは仕方なかったの。これくらいなら、少年法でどうにかなるから」
青年は車から降りると、ゆっくりと少女を抱きしめた。
赦しを求めるように。
「エマ姉…俺、エマ姉と離れたくない。刑務所に入って離れ離れになるなんて、耐えられない」
そして少女も、幼さの残る少年を抱きしめた。
愛情を受け止めるように。
「弟くん…大丈夫。お姉ちゃんが何とかするから。だから心配しないで」
夜の冷たい風以外、2人を邪魔する者はいなかった。
被害者の悲鳴さえ、既に風の音と同化しているのだから。
「私は、いつでも弟くんの味方だから」
「うん」
「大好きだよ。弟くん」
「俺も大好きだよ。エマ姉。もう離したくない…死ぬときは、一緒だよ」
その眼光は愛という名のもとに濁っていた。
偏りながらも、正当化された愛。
温もりは本物。
そして感情も共有された温和。
「私も…その想いは一緒だよ」
「…片付けよう。一旦逃げたときに、警察に通報したみたいだから、直に来るよ」
「そうだね。どうやらガーディアンが動いてるみたいだし、見つかったら厄介だもんね」
「終わったら、ご飯でも食べようか」
「うん」
「何が食べたい? お肉? 魚?」
「弟くんとなら、なんでもいい。一緒に食べられるなら、どんな料理も御馳走だから」
新聞紙から漏れた車内灯を背後に、抱きしめた頭を引き寄せるがままに、互いの唇が触れ合う――。




