25 「ナイトフォール オブ アラヤド その2」
――アラヤド2からサモエド。職質応援を要請、場所、地下鉄朱天堂線センター街駅付近。
「サモエド、了解」
午後6時51分。
ゲームセンターでの喧嘩事案を終えた地井は、車に飛び乗ると現場を後にする。
家裁通りから地下鉄駅までは、そう遠い距離ではない。大きな交差点を曲がればすぐだ。
日の沈んだ空の下に、昼が広がる。
サモエドが再び走り出して40秒。車は家裁通りを東進し、アラヤド5丁目交差点を右折。3車線ある朱天堂通りを南下する。
要請から1分半。車は駅へ通じる地下階段入り口横に停車した。
終点のアラヤド駅手前に位置するセンター街駅。朱天区を通って南区、更に相互乗り入れを行う私鉄線を通じて港区や市外へと通じる、グランツシティ最大の私鉄路線ともあって、地下からホーム規模と、もしくは車両に対比する乗車定員と反比例するかのごとく、大量の乗降客を吐き出している。
「…だってぇ、私ってああいった感じじゃない? だからさ、メル君にも…」
「…に関しまし…」
「…のやつ5分遅刻? ざけんじゃねえよ。マジ…」
「…ハハッハハ…」
集合した声という魂が崩壊した1つのテーゼを奏でながら日常を演ずる。
横という一方向へと本能的に誘導される波を、縦という精神的蛇行によって切り裂いていく。
「…たってさあ、あれがそう…」
「…じゃない…」
「…よ。お前。ま…」
「ちいちゃん」
「ああ、麻子さん」
地井に手を振った若い日本人女性。
アラヤド分署地域生活安全課の、二木麻子巡査部長である。
「ケンカの仲裁って聞いたけど、もう終わったの?」
「お話聞くだけでしたので…それで、要請と言うのは?」
「家出少女みたいなんだけど、話したがろうとしないし、隙を見て逃げようとするの。名前も言わないし…もう、にっちもさっちもどうにもこうにもブルドッグ、ってやつ」
と、二木の昭和的発言は置いておくとして。
「それで、貴女を呼んだの。同年代の女の子なら、何か話してくれるかもって」
説明を受けながら繁華街を進む2人。と、そこに街の風景には似つかわしくない、ワイシャツ集団。
営業を終えた信用金庫前の階段にうずくまる、セーラー服の少女が、その女の子のようだ。
抱えた膝で表情さえ見えない。でも分かった。地井には。
「難問…ね」
◆
「こんばんはぁ~」
気の抜けた、おっとりとした声に少女は顔を上げた。
紫の髪の、同年代らしき少女が、眠たげな目をして、彼女の傍にしゃがんだ。
「ちょっと、お話していいかなぁ?」
「…」
少女は言葉を発せずに、うずくまる。
「具合…でも、悪いの?」
首を横に振る。
「じゃあ、お話、しようよ。心配なんだよ? こんなところでうずくまってるから、どうしたのかなぁ、って」
「…話したい気分じゃない」
初めて口を開いた。
「そっかぁ…じゃあ、場所を変えない? ここ寒いし、石の階段にずっと座ってたら、お腹、冷えちゃうよ」
「別にいい」
端的な返答。
長期戦を地井は覚悟した。
だが、それ以上に彼女を取り囲む私服警官の空気が張り詰めていた。
同業者たる彼女さえ突き刺すほどに。
地井は咄嗟に、二木に向けてウィンクを飛ばす。
「少し、2人きりにさせて」という合図だ。
唇に親指で触れて、二木は地井に返した。了解の合図を。
「お巡りさん。少し二人っきりにしてくれませんか?」
地井の提案に、二木は一瞬首を傾げ、難色を示したが
「うーん…まあ、アンタに任せとけば、どうにかなるか。あんま、悪いことはするなよ」
「分かってるよぉ」
他の私服警官を引きつれて二木が去った。
だが、完全に遠ざかったわけではない。すぐ傍の物陰で二木と、部下のニール捜査官が様子を伺い、それ以外は通常業務に戻った。
「アンタ、警官じゃないの?」
「へ?」
垢抜けた返事。
地井は笑顔を絶やさずに続けた。そしてスカートのポケットをまさぐる。
「私は通りすがりのワルだよぉ。この制服だってなんちゃってだし、学校にも行ってなぁい」
手に取ったのは口紅。金色の筒をキュッと回し、その落ち着いた紅色をラインに沿って滑らせる。
更にスカートを内側に折り込み、太ももが露わになる程にショート・カット。
夜の喧騒と妖艶に浮かび上がるシルエットは、生徒のそれではなく、無理な背伸びをしている子供。
その姿に、うずくまっていた少女も、警戒心を解いた…と、地井は見た。
「ふうっ…あの刑事さんがいないから、やっとこんな姿できた。だって、おまわりさんの前で悪さなんてできないじゃない?」
地井はウィンクを飛ばしながら、口紅をしまった。
「私はチイって言うの。ねえ、あなたのお名前、なんてーの?」
「えっ?」
唐突の言葉に、少女は驚く。
「“アナタ”じゃあ、感じ悪いでしょ? 何て呼べばいいかなぁ?」
すると少女は、暫く黙りこくると呟いた。
「カサブタのマリア」
「マリアちゃんかぁ。よろしくね、マリアちゃん」
微笑む地井に、少女―マリアは無愛想。
「今日はどうしたの?」
「別に。ただ、フラフラしてただけ」
「そっかぁ。ねえ、お腹すかない? 近くのマクドで何か食べない?」
それでも、彼女は目を逸らした。
「お腹空いてない。いらない」
「なら、場所を変えない? もうすぐ5月なのに寒いわねぇ」
「いい。寒いのが好きだから」
帰ってくるのは消極的で短絡な連続体。
だが、地井は何か引っかかる―というより既視感に襲われた。
他者との接触を表面的では施行しているが、内面的には相手の行為が煩雑である、または心的な影響によって、会話を主体とする接触を拒否している様。
「そう…まっ、寒いのってぇ、場合によっちゃあいいものだよねぇ。あったかいのが、身に沁みるから。ほら、お鍋とかぁ、ポトフとかぁ。ああいう食べ物がおいしくなるのよねぇ」
「…そういうの、要らない」
「えっ!?」
マリアからの言葉に、地井は聞き返した。
「どういうこと?」
「別に…そのままの意味よ。温もりとか、そう言うの要らない。それって、ただうわべっつらで一瞬しか味わえないから」
「うわべっつら?」
「チイさん…だった? ねえ、あなたの好きなお鍋やポトフは、確かに体を温めるわよね。でも、心はどう?」
「うーん。皆で食べれば、心も――」
「私が言ってるのは、そういう安っぽい話じゃないってことよ」
マリアは顔を上げた。
その様子に、地井は驚くとともに、傾聴を続ける。
「食べ物もそう、カイロとか暖炉もそう。人を温めるのはうわべっつら、肌やお腹を満たすだけ。じゃあ、人の心は満たしてくれる? そうじゃないでしょ? それに、その二つはいつかは無くなるし、放っておおけば冷めてしまう。温もりなんて、人を惑わすだけの単純な幻覚よ」
何かを察した。
地井は今までのおっとりした口調を封印する。
「なら人は?」
「…」
「“人のぬくもり”はどう。それは肌だけでなく心も見たすし、放っておいても冷めはしない。まあ、ナンセンスと言われればそれまでだけど、食べ物や暖炉と違うのは、確実に温めてくれる相手は心も感情も持っているってことよ。この温もりすら、あなたには幻覚?」
相手は暫く黙りこくると、ぼそっと呟く。
「分からない」
「…」
「今まで私は、そう思ってた。人すら器に過ぎなかった。でも、“弟くん”は違った…私と同じ血が流れてた彼には、私をレイプしたあの父親と違って」
「えっ!?」
その一言を地井は逃さなかった。
「それって、どういう――」
「チイ。私からも質問よ。アンタ、何者?」
彼女は言葉を詰まらせた。
「確かにアンタは警官じゃないみたいね。上手くごまかしてたわ。でも、その口調―いいえ、近づいた時から分かったわ。アンタには少なすぎたのよ。この街に誘われたむろする少女の臭い。自棄、欲望、孤独…鼻をつまむほどの臭いがアンタにはなかった。アンタ、一体誰? 警察の何なの?」
これが限界か。
今は彼女と対立せずに、事を運びたかった。
だが同時に、端的説明なら感嘆と恐怖の感情が、地井を襲った。
この仕事を担当して、もう1年は過ぎている。今まで警戒はされることはあったが、それでも最後には心の隙間やしこりを融解することはできた。
それが、この子にはできない。否、接触の最初期段階で正体を見破ってきたのだ。警戒心の塊。そう言うには過不足ない相手。
だが、地井には確かな確信があった。
それだけの警戒心は逆に、“あの独り言”を引き立たせるということを。
何故なら――。
振動。
地井の携帯電話が鳴った。プライベートの方ではなく、業務用の二つ折りが。
「ごめんね」
そう言うと、マリアを背にケータイを取り出して耳に当てた。
相手は二木捜査官。
「地井」
――どうかしら?
「黒ですね」
――5150?
「いえ。ですがヅカれました。強引ですが、彼女を保護して身分証等から1号照会をかけたいんですが」
――手配しましょう。あっ!
二木の声に、地井も気づいた。
振り返ると、マリアと名乗った女性は朱天堂通りへ向けて走り去っていた。
「マリアちゃん!」
地井が咄嗟に後を追う。
アフター5を過ぎ、雑踏がより厚くなる繁華街で、マリアは人をかき分けて逃げていく。
それを追う地井も然り。
人にぶつかる。またぶつかる。時々怒号、またまたぶつかる。
何度それを繰り返しただろう。
その先に待つ者を信じて。
大通りに出ると、眼前に紺色の小型車が止まっていた。セダンタイプの旧式日本車。
パンツが見えるなどという躊躇もなく、ガードレールを飛び越えると、すぐに助手席へと乗り込んだ。
「待ってっ!」
タッチの差。マリアを乗せた車は、地井の目の前でテールライトの大行進の中へと消えていったのだった。
もう少し、しっかりしておけば。
両膝に手をつき、息を整えながら、苦虫を噛んだような表情を浮かべる少女には、相手を保護できなかった以上に、懸念する材料があった。
マリアを目にした時から感じていた。1つのワード。
拒絶。
そう。彼女からは、それ以外の思惟が見えなかった。
だから地井は察したのだ。
紛れもない。見間違う事もない。
あれは、かつての自分。
ハフシに声をかけられる前、シレーナと出会う前の自分。
あの事件で腕を食いちぎられ、触れてはならない“こころの逆鱗”に触れてしまった、ベッドの上の自分。
それを、ビデオで再確認していたかのようだった。
彼女には闇がある。そして…壊れかけている。




