14 「ローマで屠る基本理念」
同時刻
現地時間 PM3:58
イタリア ローマ・フィウチミーノ空港
南欧イタリア。
その首都であり古の都として名が高い観光都市 ローマの玄関口。別名をダ・ビンチ国際空港とも言う。
2番滑走路にフランス・モカ航空242便は7分遅れで着陸した。
搭乗口から出てきた1人の背広男。金髪の背広女性を同伴させた彼が、入国審査ゲートへ向かう前に、いの一番で行ったのは携帯電話の起動であった。
「先に行っててくれ」
息が吹き込まれたのを確認すると、女性にそう言いダイアルを打ちこみながら歩き出す。
「私だ…どうだ。着陸するまでの間に、動きはあったか?」
彼はそのまま、迷うことなく左端を流れる、動く歩道に乗り込んだ。
広い通路を歩く乗客を横目に。断続的に続くゴムの道を流されていく。
「ほう。事故じゃなく殺人事件…いや、それだけでいい…わかっているだろ? 私にはシレーナや佐保川貴也が処分されるのか否か。それだけが問題なんだ。それ以外の人間は、死のうが生きてようが興味はない」
到着直後は、入国審査ゲートは混み合う。
経験則でわかりきっていたことなのだが、歩くスピードが速すぎた。
ずらりと横に並んだゲート。安全柵が開放されているブースに、皆が列を成していた。
男はそばにあった、入国カードを記載するデスクにもたれ掛かり、相手の声を聴き続ける。
「という事は、これまで通り作戦は継続されるわけだな…わかった。M班から絶対に目を離すな。特にさっき言った2人はな。いいな」
電話を切ると、再びダイヤル。
今度は別の相手のようだ。
「私だ。今、ローマに着いた」
――お疲れ様です。
「商品はどうなってる?」
――それなら、既にジェノバで荷揚げされ、現在陸路で、そちらに向かっているハズです。
「“ハズ”では困るんだよ、我々の仕事はな。そんな具合で君は仕事をしているのか? もしそうなら、君の上司と相談してしかるべき処分を下すよ」
――いえ…そういうわけでは…。
声が震えたのが、受話器の向こうからでも容易にわかる。
会話が途絶えて数秒。向こうで紙が擦りあう音が聞こえてきた。
――今、トリノ支社からの確認が取れました。現在荷物を載せたトラックは、ピオンビーノ郊外のハイウェイを南下中です。
「荷は全部通過できたのか?」
――ええ。“クトゥグァ427-G”と“グルーン”他、全ての商品とブース装飾用のアクセサリー一式。
「到着は、会場になっているか?」
――はい。
「上々だ。前言を撤回するよ」
――ありがとうございます。
「そろそろ入国審査だ。切るぞ」
――お気をつけて、社長。
電話を切ると、携帯電話を背広のポケットに突っ込み、空いてきた入国審査ゲートへと進んだ。
◆
パスポートを仕舞いながらゲートを出て、手荷物受取ゾーンへ。
色とりどりのスーツケースを載せて回るベルトコンベア。その周りで旅行者が自分のパッケージを今か今かと待ち受ける中、20代後半と見える金髪の背広女性は、その身の丈には絶対不釣り合いな、2つのスーツケースを手に男を待っていた。
「お待ちしておりました。荷物は既に」
「うん」
男は淡白に答えると、自分のスーツケースを引いて到着ゲートへと出た。
出迎える人々の中をかき分け外へ出ると、停車していた黒塗りのレンジローバーに乗り込む。
運転手にスーツケースを任せて。
「アイリス。現状は?」
その女性―アイリスは答えた。
「ブースの設営は完了しています。後は品物の到着を待つのみです」
「そうか…展示会はいつからだっけ?」
「2日後です。諸々の事はイタリア法人に一任しています。社長は前日に現地入りしていただき、最終チェックに立ち会うことになっております」
運転手がようやく乗り込み、レンジローバーはフィウチミーノ空港を後に、夕焼けのハイウェイへと走り出した。
スモークガラスで日光が遮られた車内で、アイリスが堰を切った。
「意外でしたわ」
「何がだね?」
「今回の展覧会に、“Z-512”を持ってくるものだと思っていましたわ」
「冗談を言うんじゃないよ」
うっすらと笑みを浮かべた男に対し、アイリスはこう返した。
「正直、今回の商品は、悪く言えば“ありきたり”なものばかりです。例え今までのように盛り上がっても、私たちのやってることがマグプルの二番煎じと言われても仕方ありません。既に市場は飽和――」
「アイリス。私の有能な秘書である君は、一体全体何が言いたい?」
彼女の言葉を遮った。
「実験は既に成功していますし、なにより…あなたの野望を叶える“魔法のランプ”でもある」
膝に手を置き、官能的な声で語りかける。
いつものことだ。出張先で彼女の白い体に埋もれたのは、1回や2回ではない。
しかし…今の彼女は不愉快極まりない。
男はハハハと表面上で笑いアイリスに言った。
「“Z-512”か。知っているなら、君も分かるだろう。アレの威力をね」
「分かっております」
「確かに、無名都市 Z-512地区での試験は完璧なものだった。だがね、それと消費者に売れるかは別問題なんだよ。試験は成功しても実用に問題があれば、それは不良品となるわけで、消費者に多大な迷惑をかける。分かるかい? 経営の基本理念の一つだよ。
だが、コイツを一回でも消費者にお披露目すれば、一回でも使えば、表から裏まで全てがひっくり返ることになる…そう。出展するにはタイミングと実績が必要なのだよ」
「タイミングと実績…ですか?」
男は窓の外に目をやりながら続ける。
「そうだ。その中でも重要なのは実績だ」
刹那、男の右手がアイリスの首をわし掴みにし、力をゆっくりと込めていく。
「うう…うぐく…」
息ができなくなっていく。
男の腕を掴んでも、それは儚い抵抗。
アイリスの翡翠に似た瞳はかっと見開き、口からヨダレが垂れる。
「ヒロシマ、ナガサキで世界は恐怖に失禁し、キューバで世界は窒息しかけた。その恐怖が去ったと思いきや、今度は2001年、アンクルサムが激怒した結果、世界は再び失禁と窒息の坩堝に巻き込まれている。
次の失禁と窒息の機会はいつだ? それは誰にもわからないし、君や私が決めていいものでもない」
アイリスのスカートから垂れだす黄色い水。
震わせる足を、革のシートを伝って滴り落ちる。
生前の彼女が絞り出す、最後の小水――。
「たはっ…すけっ…てっ…」
「だが、確実に言えることがある。
次の一手は、世界が確実に混沌へと落ちるものでなければならない。ヒュドラやケルベロス、ヨルムンガンドといった化け物たちを屈服させるほどでなければならない。いや、屈服ではない。殺すのだ。息を吹き返さないように。互いが互いを憎み合うように。
だから我々の一手は、容易に晒していいものではないのだよ。率直に言うなれば、我々はナイアラルトホテップであり、そうなるべき者たちだ」
「うう…う…」
「しかし、そこを君は見事にはき違えた。体を求めるという低能ぶりも晒した。無能でビッチな女は、私の秘書には無用だ」
「おねはい…はふへ…ふぇ…」
「助けはしない。お前は遠いイタリアの地で、自らの体液を撒き散らしながら処分される。無能な人間にはふさわしい処分方法ではないか。そう思うだろ?
心配するな。ご両親には不慮の事故で死んだと報告しておく。安心して行くがいい。神がいると皆が信じる彼の地へ」
男の腕を掴んでいた手が緩む。
顔から血の気が引いていく。
そして
「マ…マぁ…」
今際の際を言い残し、アイリスは短い生涯を、狭い車中で閉じた。
その死因をごまかされる運命を纏いながら。
「ふん。“ママ”か…くだらない死に様だ」
手を放されたアイリスだった体は、チャプンという音を立ててシートに尻を沈め、そのまま頭部をゴツンと窓にぶつけた。
それからは微動だにせず。
「私を降ろしたら、車と女は処分しておけ。それから、この事を喋れば、お前も殺す」
「分かりました」
声が震えていた。
男はアイリスの死体に目を向ける。
首元に赤い痕跡。
「手の痕が付いちまった…やれやれ」
首を横に振りながら、男は運転手を睨むと、一枚の名刺を後ろから差し出した。
「ナポリのピーノというパン屋に行け。サンタルチア港から一本逸れた裏道にある」
「カモッラ…ですかい」
カモッラ―貧困層の多い南イタリアを牛耳る犯罪組織。その名前を出しても平然と無視する。
運転手は名刺を受取った。
「店主のペン・ドリーノに、さっきの名刺を渡せ。“白パンを2つ。帽子屋のツケだ”と言えば、後は何とかしてくれる」
「わかりました」
そうやって話している間に、車はローマの中心部に入っていた。
石畳と典型的なヨーロッパの街並みの中をレンジローバーは走り抜けていく。
「ここで降ろしてくれ」
そう言うと、車はテルミニ駅近くの人気のない道で停車。
すぐに男は車を降り、トランクを開けてスーツケースを取り出した。
「後はタクシーで行く。お前は早く行け」
「了解しました」
上司たる男を置いて、車はアイリスの亡骸を載せたままローマの喧騒へと溶け込んでいった。
「ふん、馬鹿な男だ。ガキの使いじゃないんだ。五体満足に帰れると思ったら大間違いだぜ」
そう笑みをこぼして、彼はゴロゴロとスーツケースを引っ張る。
「それにな、アイリス。お前には言い忘れたことがある。私の専らの重きはZ-512ではない。1人の少女なのだ。
セルリアン・スマイル。この計画の完遂が最優先事項なのだよ。全てが揃ったとき、世界は私の手の中で踊る。
…さて、ホテルに着いたら、新しい秘書を手配しないとな」
表通りでタクシーを拾うと、男もまた街の中へと溶け込んでいった。
◆
その夜、ナポリとローマの中間にある街 テラチーナ近郊のビーチで、1台のSUVが爆発、炎上しているのが発見された。
1時間後、焦げたレンジローバーの車内から見つかったのは、男女の焼死体。
顔や手は焼け爛れて、身元はおろか性別すら判明が困難な程だったが、すぐに何者なのか判明するに至った。
男はアントニオ、女はアイリス。
共に国際的大企業 シグマ・インターナショナルの専属運転手と秘書だったからだ。
イタリア警察は、専属運転手 アントニオがアイリスに性的暴行を働こうとして、ローマ市内で誘拐。ここまでやってきたが抵抗されて殺害。自らも自殺するため車に火を放った…という見解で事件を処理した。
そして、その2名の身元を確認したのは…他ならぬ、彼の地を共に踏んだ秘書の上司だったのだ。
シグマ・プールド・ハット。
シグマ・インターナショナル総本社の社長であり、各国に散らばる法人・グループ企業の頂点に立つCEO―最高責任者。そして、敏腕なる経営者一族の血を引く若き英才。
世界中の誰しもが、様々なフレーズを並べて崇め奉る男――。
それがシグマだった。




