54 「シレーナ」
「はい。彼女の両目には、幾つもの亀裂が…」
貴也の言葉が、決して口から出た虚構でないと分かった瞬間。本能的に、アナスタシアは煙草に手を伸ばしていた。
「馬鹿な。そこまでされて、彼を殺さなかっただと…」
その小言は、幸い、彼には聞こえていなかったようだ。
「それに、思うんです。シレーナはナギ警部補を撃つ前、彼に説教をしていたんです。“お前の受ける罰は、一生苦しむ女の子たちの痛みに比べたら、とっても易しい”って感じの言葉を投げかけて。
だから、冷静になって考えたんです。元々、シレーナは人を容易く殺せるような女の子じゃなかった。何かが原因で、ああなってしまったんじゃないかって」
「貴也君。あなた…!」
「あの眼を見せられて、それが核心に変わって――教えてください、アナスタシアさん! あの眼は一体何なんです? シレーナの過去に、一体何が起きたって言うんです?」
刹那。
「それ以上の詮索は無用よ」
声のする方を向くと、ドアにもたれかかったシレーナの姿。
オーバルフレームの眼鏡をかけ、十文字館のブレザーを身に纏い、そこに立っていた。
「シレーナ!」
「タカヤ。これ以上私の事を詮索するなら、それ相応の覚悟を持ってもらうことなるわよ」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味よ。不足も装飾もない」
久しぶりの再会は、温度差のある会話から始まった。
「とにかく、新入りの玉子に言えるのは、ここまでよ」
と、言うとシレーナは扉を開けて、彼を見た。
“出ていけ”と言わんばかりに。
最初の頃の俺なら、カチンとはきていただろうが、彼女はこういう感じなのだなと思うと、すんなりと心を許せる自分がいた。
「オーケイ。後で何か食べに行こうぜ」
そう言い残して、貴也がシレーナとすれ違い部屋を出ていくのだった。
「意外だな。その眼を見られたのに、その相手を殺さずに生かしておくだなんて」
「どうだっていいでしょ? 大切なのは、私の事を話したか否か」
煙草にマッチで火を付けるアナスタシアに、シレーナはソファに腰かけながら聞いた。
「話したところで、彼が理解できるとは思えないでしょ。“パラーチ”の事も、そして、あなたの、過去に何が起きていたのかすら。そのシレーナの名すら――」
途端、シレーナはブレザーの中に手を伸ばしたが、それより早くアナスタシアが机の下へ手を伸ばし、銃を取り上げた。
IMI デザートイーグル。御馴染みの大口径オートマの登場だ。
「やめてくれ。ここでぶちまけられたら、掃除が面倒だから」
「……」
「落ち着きなさいな。香港映画を演じるために、ここに来たわけじゃないでしょうに」
そう言うと、彼女は人差し指に銃をひっかけ半回転。銃身を握り、そのまま机の中に仕舞った。
シレーナは、一連の動作が全て終わったことを確認して、ブレザーの中から手を戻す。
「ふん。ソドムと言い、口の悪さと言い。さっき言っていた玉に傷とやらを、一度リストにしたためることを薦めるわ」
「ありゃ、聞いてたの?」
「アンタがタカヤを恫喝した辺りから。廊下まで丸聞こえだったぞ…そんなことは、どうでもいい。本題に入ってくれ」
「そうだったな」
そう言うと、アナスタシアは机の引き出しから、マイクロファイバークロスに包まれたメガネを取り出すと、シレーナの前に差し出した。
それは、今シレーナがかけているモノと全く同じ。
「今朝方、インスマス本社から国際便で届いたばかりだ。マシューK5、お前が注文したバージョンアップタイプだ」
ソファから立ち上がった彼女は、アナスタシアの手にあったそれを取ると、すぐさま、かけていたメガネと取り換えた。
「“あっち”の方はどうだ?」
「こないだ報告した駐車場の件、そこで久しぶりにやった以外、目立ったのは出ていない。だから、すぐにこいつをこさえさせたんだ……うん、ばっちりだ」
フレームを動かし、周囲を見回すと、かけていたメガネをクロスに包んでブレザーのポケットにしまった。
変えたからって、どうってことはない。
「もう用がないのなら、私はこれで帰っていいか?」
「え~、もう少し世間話でもしようよ」と子供っぽく言うアナスタシア。
「ハイスクールガールってのも忙しいのよ」
手をひらひらと振りながら、部屋を後にしようとした時だった。
「冗談は抜きにして、どうだ? 貴也君は」
途端、彼女の動きが止まった。
「シレーナ?」
「……」
そして、シレーナはアナスタシアの方を向かずに、まるでデジャヴのような光景のまま、言った。
「私はあの時、彼を殺すつもりだった。私の秘密を知った部外者は、絶対に生かしておかないのが、ワタシの決まりだったから。でも、出来なかった。“私”も“ワタシ”も…」
シレーナは左手を右手で包みながら続ける。
「あの時、銃口は彼の脳髄を捉えていた。99%の確率で即死にいたる軌道…なのに、ワタシは引き金が引けなかった。というより、体が言う事を聞かなかった」
「……」
「銃を持つ手が震えたのは、アレが初めてだった」
「……」
「アナスタシア。私は――」
「求めるな」
途端に、アナスタシアが声を上げた。
「安直に答えを求めようとするな。若者たちの悪い癖だ」
「異論はないが、この答えを出せるとは思えない。私は…」
「だったら一緒に出してみたらどうだ?」
えっ、とシレーナは振り返った。
「その問いを、投げかけた張本人と解いていく。慌てなくてもゆっくり…答えを出すのは、それからでも遅くは無いんじゃないかな」
「出来るか? そんなことが私に。私は…もう何もないんだぞ」
「そいつも、答えるのは君の務めだ」
「……」
「どういう訳か、彼もまた、君に抵抗があるようだ。シレーナ、答えが欲しいなら、自分から動け。それがキッカケでも、私はいいと思うよ」
アナスタシアの優しい声を弾くかのように、シレーナは扉を開けて盛大に閉めた。
バタンという木霊の後には、こぼれたコーヒーカップとサンディブロンドの女が残されたのだった。
◆
背広や制服が跳梁跋扈する建物内を渡り歩いたブレザー少女。
受付を後にすると、官庁街の圧迫するビル群より先に、出入口のすぐ傍で貴也が出迎える。
「よっ!」
おどけた感じで近寄ってきた彼に、シレーナは言う。
「どうして、ここから出てくるって思ったの?」
「あんな車、他じゃ見たことないからな」
そう言って視線を移した先には、路上に駐車したワインレッドのケンメリGTR。
「私の愛車よ。捜査の時のコードは“レッドキャップ”」
「成程、真っ赤な帽子のモンスターか…その名前に似合う登場だったな。君も、この車も」
そう言うと、シレーナは口元を微笑させて、歩道の柵を飛び越える。
「で、どこに行けばいい?」
「ん?」
「どこか食べに行くんでしょ?」
一瞬、キョトンとした貴也だったが
「そうだったな」
まるで言い聞かせるかのような返答をして、彼も柵をまたいだ。
「オパルスは土地勘がなくてな。悪いけど、シレーナのオススメで」
「残念だけど、私もよ。食べ物屋は滅多によらないから」
「そうか…だったらグランツに戻るか。スイートクロウで紅茶でも」
「ええ。そうしましょうか。貴方がそれを望むなら」
キーを回して扉を開けた時だった。
「シレーナ」
貴也は彼女の名を呼ぶと、車の前方を通って彼女の傍に。
「自己紹介がまだだったな」
「いいわよ。そんなまどろっこしい――」
「親しき仲にも礼儀あり、ってやつさ」
そして、スッと彼は右手を差し出した。
「佐保川貴也だ。よろしくな」
その雰囲気に、私はある種の新鮮さを覚えた。
こんな風に笑顔で、実直な挨拶をしてきたのは、彼が初めてかもしれない。
彼の前では、何もかも常識がひっくり返る。散々“常識から外れる用意をしろ”と言ってきた私が、こうもうろたえるとは。
どうしてなのか。彼は私の何なのか。
でも、今はそれでいいのかもしれない。
アナスタシアの言うとおり、私はゆっくりと答えを出して行くことにしよう。
その答えが数学の様に確証ある物かどうかは分からない。
こんな私が、今更、何かを得られるのかどうかも分からない。
でも…それでも…。
考えるより先に、その大きな手を握りしめていた。私の始めてのバディ。
「シレーナよ。シレーナ・コルデー」
そう、私の…ワタシの名はシレーナ。またの名を―――“スマイル”。




