51 「瞳」
2階。専門店街の一角にバリ風を売りにするエステステーションがある。
無論、そこに従業員も客もいない。いるのは、エステを利用する必要がない―と言っては語弊があるが―今、エステを利用する理由がどこにもない男子高校生が、個室のベッドに座っていた。
仄暗い照明にLED除湿機、オイルから漂う鼻につく香り。
爆乳娘でも出てくれば、思春期の男の子が盛り上がるシチュエーションとなるだろうが、そいつを望むのはお門違い、それどころか今はそうはいかない。
(そんな…そんな…)
彼はベッドに腰掛けていた。横になりエステを受けるだけが目的である、簡素な造りのマッサージベッド。だがその手足は、無意識の中で小刻みに震えていた。
(ウソだ…あのシレーナが…)
下を向いている彼の眼は、心ここに非ずと言わんばかりに、視点が定まっていない。
「貴也。どこにいる?」
この声、彼女だ! 近くにいる!
意識を戻された彼は、ゆっくりと横を向いた。
彼―貴也のいる個室へ入ってきたブレザー姿の女の子。シレーナがそこにいた。
「探したんだぞ。さ、帰ろ」
そう言って差し伸べられた右手に、貴也は安堵より恐怖を覚えた。
無論、おかしな様子にシレーナも気付く。
「どうした? 顔色が悪いぞ」
「……」
「何を見た?」
体を寒いものが逆流する。
それが頭頂部から抜けていく感覚と共に、貴也はシレーナから目を逸らした。
「佐保川貴也」
「……」
「なら答えろ。何故、目を逸らす」
答えられるわけないだろ。
あんなものを見てしまっては。
見た光景を正直に答えていいのだろうか…でも、彼女はバディ…。
貴也は短いが「自分のバディ」という可能性に賭けてみた。
「み…見たからさ」
「だから、何を」
「一部…始終…」
ダァンッッ!
「瞬間」という表現を使う間もない速さ。四字熟語が出たと同時にアクションを起こした。
何が起きたか貴也が気付いた時には、視界は天井を捉えており、襟を掴みながら、シレーナが彼の眉間にクーナンを向けていた。
「え…」
「言っただろ。隠れてろって」
「じゃあ、お前」
「アンタが思っている通りだよ。ワタシが“スマイル”―この国で唯一、殺人を許されたガーディアンなのさ」
分かっていた。そんな雰囲気があったから。
衝撃が走った。頭が真っ白になった。目の前が暗くなった。―と聞くと、誰しもが大げさだとか、アバウトと言うだろう。
既知の事柄にそんな反応を示すのか、と。
いや示すんだ。人間と言うのは、複雑そうで簡単に、簡単そうで複雑にできている代物なのだ。
特に、実弾入りの拳銃を向けられている今は、特に。
「そんな…君が、あの“スマイル”だったなんて…あの話が本当だったなんて…」
「ありきたりな感嘆を口にするな。今はこっちの質問に答えろ。どうして隠れていなかった」
「それは…」
心の奥で封じていた言葉を、遂に口に出した。
「それは、君が人を殺そうとしていたからか? それを誰にも見られて欲しくないから、だから俺に隠れろって言ったのか」
「分かっているなら、どうしてそうしなかった」
「それは結果論だろ! あの時は、どうしてそんな事を言うのか分からなくて…」
「今から人を殺すって、見ず知らずの奴に予告する間抜けが、この広い世界のどこにる? え?」
拳銃に込められる力が一層強くなる。
「こんな奴がワタシのバディ? 連中の趣味も悪くなったもんだ」
「余計なお世話だ。それより、その銃をしまってくれないか。この事は誰にも――」
「却下」
即答。
彼女は依然と、貴也の上に馬乗りになって銃を向けている。
「そ、そんな…じゃあ、ハフシやエルはどうなんだ? 彼女たちも、君の事を知っているから、ここまで車を誘導したんだろ?」
「ああ、知ってるよ。誘導を指示したのはワタシだから。でも、ソレとコレは別の話だ。ワタシはワタシが認めた例外を除いて、処刑の瞬間を誰にも見せない」
「処刑?」
「そう、処刑だ。ワタシは警察や教科省から指示を受けた犯罪者を殺す、死刑執行人。それが都市伝説とやらで囁かれる人間の、真の中身さ」
「死刑…執行…人?」
「ナギを殺したのも処刑。一犯罪者としてね」
「だったら、その瞬間を誰にも見せないのは、どうしてなんだ。そんなデリケートな事柄を警察が――」
「問題は“見られる”ことじゃない。ただ見ただけなら、その後の“処理”は簡単だ。でも、最近はSNSやら、動画投稿サイトって厄介な代物がある。ワタシの姿が拡散された暁には、此の国の治安維持機能が崩壊するだけじゃない。“ワタシ”の存在意義、“私”の生命にも危機が及ぶ。だからワタシは人殺しの瞬間は誰にも見せない。どんな偉い肩書や大金を見せびらかされてもね。
そして、不幸にもその瞬間を見た者は、ワタシの手で抹殺することにしている。例外は無い。友達やら血やらくだらないつながりなど命乞いには無意味だ」
抹殺。その単語が出た時、貴也の背筋を冷たいものが走った。
「冗談だろ?」
「気づかないか? こんな話を、まだ出会って間もない奴に延々とするなんておかしいと。ガーディアンとバディの関係を差し引いても、ワタシとアンタは同級生。ここで銃を下ろせば、アンタは国家級の秘密を抱えて世に放たれるんだ。そんなこと、ワタシが望むと思うか?」
でも…それでも…
「どうしてなんだ。どうして君は、人を殺すんだ…そう簡単に、どうして人を殺せる?」
単純なようで複雑な質問。
シレーナは目を閉じた。
「知りたいのか?」
「…ああ」
答えると言わんばかりに、ゆっくりと開かれた瞳。
「なんだ…これは…」
貴也。自分の目に映ってるものは、果たして現実なのか?
その綺麗な群青の光彩。除湿機のLEDライトに照らされて、そいつは光った。
亀裂だ。それも両方に。
幾重にも走った大小様々な亀裂が光彩に―――。
そいつが青、ピンク、緑と色を換えて輝く。
「!!」
だが、赤色を映したとき、その瞳は彼女の内包するものを映し出したように見えた。
狂気。
これが彼女を殺人者たらしめるパッションなのか?
だが、ライトの色がブルーに変わると、その狂気はいつの間にか消えていた。
「どうだ?」
「その眼が…理由なのか?」
「想像に任せるさ。お前がそう思うなら、そうじゃないのか」
その時だった。シレーナが一瞬眉をひそめた。
「お前…怖くないのか…」
無言で彼女の顔を正視していた。
そこに恐怖の表情は無い。
「ワタシが…死ぬことが…怖くないのか?」
「怖いさ。もちろん怖いさ…最初はね」
意味が解らない。どういうことだ?
「確かに、最初は怖かったよ。君の姿、声、銃。その全てが。でも、それが全て違うって分かったんだ」
「違う?」
オウム返しに聞いた。
「ああ違うさ。君の瞳、怖いって思ったのは、そいつが赤く光った時だけで、それ以外は穏やかで、優しさすら感じた。
君が言う“恐ろしい姿”ってのは、君のたったひとかけらだったのさ。とても大きなひとかけら」
「馬鹿か。そのかけらが大きいなら、それがワタシの本当の姿だ」
「どうだろう。そのかけらが大きいとしても、他の小さいかけらを集めれば、そいつと並べられる、そいつを越えられる。こいつは出まかせじゃないさ。哲学的でもあって、数学的とでも言おうかな」
「理解できない」
すると
「これから理解すればいいじゃないか」
「これから?」
またオウム返し
「俺が、一緒に」
「寝ぼけているのか? お前はこれから―――」
「撃てないよ」
「……」
「君は、俺を撃てないはずだ。この感覚、昨日の高架下と一緒だ。シレーナ、君が俺に来るなって言ったのは、コレだったんだね。だとしたら…」
「黙れ」
怒鳴ることなく出た、脅しの言葉。
それでも、貴也は動じない。
「黙れ。お前に…お前にそんなことが分かるもんか」
「じゃあ撃てよ」
唐突に来た彼の挑発。
シレーナは引き金に指をかけた。
「さようなら。佐保川貴也」
―――。
この距離なら、確実に彼を殺せる。
引き金を引けば、銃口のすぐ先にいる相手に鉛の弾が撃ち込まれる。そう難しい事ではない。
だが、引き金にかかる指に力が入らない。
……否、撃てないのは、そう言う一般論ではない。
彼女が意識をしても、指が、体が言う事を聞かない!
(どうして? どうして、彼の事が気になるんだ? いつもなら、ワタシは躊躇なく撃てるはずなのに…何故っ!)
脳内で起きる混乱。
同じような場面には何度も出くわした。親しくなった一般人を保身のために撃ったことだってある。
でも…彼だけは、どうしても撃てない!
「シレーナ、そこまでだ」
女性の声で、シレーナは我に返った。
貴也の身体から離れた彼女は、エステステーションの入口に銃を向けた。
「アナスタシア」
そこには、赤いスーツを身にまとったアナスタシアが仁王立ち。
「お前は、自分のバディすら見境なく殺すのか?」
「しかしっ!」
唐突の反論。今まで見せなかった上司と部下という、あからさまな姿。
「彼が、ハフシやエルといったMのメンバーと違うのは、共に行動する相棒だという事だ。ならば、その姿を見せていても損はないだろうよ」
「つまり、見逃せと?」
アナスタシアはポケットからチェを取り出し、火を付けて言った。
「そう言う事だ。君が殺す相手はエルただ1人のはずだ。彼は勘定に入っていない」
その言葉と煙霞に刃向う姿は無い。
「それともチップを使うか? 忘れるな。君の持つ許可証は、殺戮の免罪符なんかじゃないってことだ。そいつをはき違えれば、私はお前を捨てる。お前が貴也にしようとしたように。ただ、それだけだ」
しばらく互いに見合った後、シレーナはクーナンをショルダーホルスターにしまう。
「命拾いしたな」
言葉を吐き捨てると、彼女は店の外へと出て姿を消した。
何が起きたか理解できていない貴也に、その女性はそっと手を差し伸べた。
「ごめんなさいね。ヘンなもの、見せちゃって」
「いえ…」
ゆっくりと立ち上がった貴也に、アナスタシアは言う。
「話を聞いていたなら分かるだろう。私が君に辞令をだした、アナスタシアだ…ああ、聞きたいことがあるのは分かってる」
彼女はスッと手を差し出して、言葉を吐きかけた貴也を制止する。
「今夜は遅いし、あなたも疲れているハズよ。近いうちに、事情聴取のために本庁まで来てもらうことになるだろうから、その時に話をしましょうか」
そう言うと、アナスタシアも店の外へと姿を消した。
ゴウンと、シャッターの開く音と共に幾重もの足音が突入してくるのが、いつの間にか向こうから響いてくる。
しかし、それ以上に貴也は気づいてしまったのだ。
彼女の言うとおり確かに疲れた。
どっと押し寄せる疲労感を引きずりながら、彼もまた騒乱の跡へ足を延ばすのであった。




