50 「ワルキューレの奇行」
漏れたオイルのこおばしい臭いと生臭い魚の匂い。
ナギは、混じった異臭に包まれながら、横転したZ4からやっとこさ這い出てきた。
最初に目に映ったのは死んだ目。Z4が破壊した台から、大量のアジやサンマがぶちまけられたのだ。
床に散らばる魚を遠くに放りながら、何とか出てきたはいいが。
「うぐっ!」
足を走る激痛。確実に折っていた。それに左腕も。
銃も車内のどこかに落ちているだろうが、今から探しに行くなど不可能。車に体をもたれかけるだけで精一杯だった。
「クソッ…やっちまって…」
グシャッ…
軟体物と弱性硬質物が同時に押しつぶされる音。
ピタッ……グシャッ…
底面に水性液を帯びた足音。
ゆっくりと迫る音たちに、彼の視界は上へと向けられることを、本能的に拒否した。
それでも、人間と言う生命体はおかしなもので、抵抗すら受け付けられず顔を上げた。無意識下と言ってもいいだろう。
そこには散乱した魚と、左手にクーナンをぶら下げたシレーナの姿。
グシャッ…
彼女の右足がサンマを踏みつぶした。
骨の折れる音と共に、目玉が飛び出し、口から体から内臓が飛び出る。
血と臓物を帯びた革靴は、そのまま床を踏みしめる。
ユラリユラリと、何かに押されるようにゆっくりと、こちらに迫ってくる少女。
グシャッ…
左足がアジをすりつぶす。
その勢いに胴体と頭が分離する。
「…て、テメエ」
その姿はワルキューレとも、死神とも違っていた。
笑ってやがる。
魚を1つ、また1つ踏みつけるたびに、彼女の口角があがっていく。歯が見えてくる。
「ああ…気持ちいい…」
妄想か。真か。そんなつぶやきが彼の耳に聞こえてきた気がした。
この女はヤバい。
「ま、待ってくれよ…」
ナギは咄嗟に手を前にだし、制止の素振りを出した。
「お、おれはビョーキなんだ…ビョーキなんだよ。そいつが事件の動機だ!」
グシャッ…ヒタッ…ピタッ…
「聞け…聞けよっ!」
ピタッ…グシャ…ピタッ…
それでも止まらない。
「お前も調べたんだろ? 昔の俺のコト。そうだ、あれは冤罪だったんだ。スカートがめくれていることを丁寧に注意したんだ。それなのにあの女は何て言ったと思う? “パンツみんなやカス。キモいんですけど”だぜ。自分もことは棚に上げてよぉ! その心無い言葉のお陰で、俺は精神がイカレちまったんだ。あのワガママで世間知らずな女のせいでよ」
ピタッ。
シレーナの足が止まった。
右手を見ると、魚の血がべっとりとついていた。彼女はそれを口に近づけ、味わうように舌でゆっくり舐めずる。
安堵が再び消え、ナギが話を続ける。
「それ以来よぉ。電車に乗るとな、スカートの中から声がするようになったんだ。パンティの声がよぉ。
“息が出来なくて苦しいよぉ。お尻に締め付けられて痛いよぉ。ムレムレして気持ち悪いよぉ”って、あっちから、こっちから、そっちから、そこから、ここから、むこうから!」
力説する彼の眼は恍惚を通り越え、リビドーすら感じる異様な輝きを帯びていた。
「だから俺は、苦しめられているパンティを憐み、愛でて、その身体から解放してやったんだ。苦しめられたパンティを…開放されたがっていたそいつらを……そうさ、俺はパンティの解放軍なんだ。ローンウルフの解放軍なんだ!―――はがうっ!」
刹那。シレーナの蹴りが彼の顎に入ったかと思えば、そのまま首根っこを掴み上げられ、ひっくり返った車の腹に押し倒される。
「それだけ喋れば、未練はないな」
「ひ、ひいっ!」
冷酷、否、今の彼女を言い表せるとしたら“無機質”。端的に言うなら終末殺人機械。そうとしか言い表せない。
例え世界中の文豪が束になって彼女の姿を言い表そうとしても、その比喩的表現や、大きな感情の嵐の前に、彼女の無機質的な部位が消えてしまうだろう。
「よく聞け。お前がどれだけ変態でも、ワタシには関係ない。パンティの声が聞こえるからと言って、手加減することも、精神鑑定にかけることもしない」
「ひっ…ひ…」
「言っただろ。ワタシはアンタを殺す。それ以外の行為も、以内の注文も受け付けない。
パンティの声が聞こえる? 俺はローンウルフ? ふざけるな。アンタは罪を犯したんだ。その罰を精神異常を演じて、分不相応に済ませようだなんて、虫が良すぎるんじゃないか?」
「でも…でも…」
「でも? でも何だ? 死ぬのは嫌か。“私は殺されるような重罪はしていません”か?」
シレーナの言葉に、ナギは首を何度も上下に振った。
「そうか…ワタシが思うに、アンタの死刑は、どんな罰よりも軽いと思うぜ」
「は? …はあ? …」
「だってそうだろ? アンタに尻を刺された女子は、この先長い期間をかけて、トラウマを乗り越えなきゃならない。それは1年2年で片付くものじゃないし、下手すれば一生治らない。耐えられずに死を選ぶかもしれない。
それに引き替え、アンタは死を享受する際の、ほんの一瞬の痛みで全てが終わる。銃声の後に来るのは肉体の死だ。精神論を抜きにしても、その後に来るであろう社会的制裁も好奇の目も全て他人事さ。
分かるか? お前の痛みは、被害者が背負ったそれよりも端的に、いや、極端に終わるんだ。これ以上幸せなことがどこにある?」
その言葉に、ナギはいままで喉奥に貯めていたモノをぶちまけた。
「ふ、ふざけるな! 俺は頭がおかしいんだ! 頭がおかしいから、正統な裁きを与えられるべきなんだ! 俺は死にたくない、俺は死に――おぐふぁ!」
「黙ってろ。カス」
銃を持つ左手で、思い切り顔を殴りつけたシレーナ。
この期に及んで、抵抗するナギ。口の中を切り大人しくなる。
「御託を並べるのもいい加減にしろ…だから、こういう手合いは嫌なんだ」
「うっ…うう…」
「もういいだろ」
そう言うと銃口を、ナギの顎の下に差し向けた。
「や、やめろ…お前はバットマンのつもりか! 私を殺したところで、捕まるのはお前だ。こいつは私刑だ。正式な死刑では――おうっ!」
五月蠅い。そう言わんばかりにシレーナはナギの口に拳銃を押し込んだ。
「よく喋るなぁ、お前」
「ふぉうっ…ふうーっ」
「最後に1つだけ、いいことを教えてやるよ。
アンタ、さっき“この国は腐っても法治国家だ”って言ったよな。
ああ、その通り。この国は法治国家だ。犯罪者に飴を与え続け、被害者に鞭を振るいまくったとしても、この国は法律によって各々が決められ、動かされ、成敗される。
つまり、これが私刑ならば、ワタシは勝手に人を殺したことになる。立派な殺人だ。逮捕され極刑にかけられる必要がある。
でもな、これが正式な死刑で、アンタを殺しても殺人罪が適応されないとしたら?」
「ふぁ、ふぁれふぁふぉんなふぉふぉ」
「誰がそんなことだって? ……フッ、フフフフ」
すると、シレーナは面白そうに笑い声をあげると、笑みを受べて高揚し言い放った。
「そいつを許すのはな……アンタの上にいる連中だよ!」
「まふぁか、けいふぁふうっ!――……」
轟いた銃声。
薬莢が床を転がる頃には、ナギの声は聞こえない。
口から脳を貫通した銃弾によって、車に大量の血が飛び散り、機械の隙間に赤い液体が染み出していた。
シレーナは、彼の虚ろな瞳を直視していた。もう開くことのない、その眼を。
唾液と血にまみれたクーナンを引き抜き、首を押さえていた右手を引き離すと、ナギの死体はずり落ちる。
車にもたれかかるような体勢になると、鼻から滝のように血がドボドボと零れだした。
彼女の足元、そして彼と同じ目をした魚たちを巻き込んで。
スカートから純白のハンカチを取り出し、銃口を拭うと、シレーナはイヤフォンマイクにそっと手を添えた。
「スマイルよりデボネア。生体機能の完全停止を確認―――0562、処刑完了」
――了解。
「後始末を頼む」
――それが仕事だからな。
通信を終え、彼の死体を背に立ち去る少女。
午後6時。
グランツシティを照らす夕陽が、沈もうとしていた。




