35 「シレーナ ―屋上」
気持ち悪い。吐き気がする。
本校舎9階。最上階は図書室になっており、加えて屋上テラスが備わっている。
午後の風に亜麻色の髪をなびかせ、私はそこにいた。
この眼鏡を外してしまいたい。
そんな衝動に駆られたのは久しぶりだ。
2メートルはあるだろうフェンスにもたれかかり、前かがみになって口を押えることで、何とか今の自分を保っている。
「ハア…ハア…っ!」
昨日の抱擁といい、殴った時といい、どうしてかタカヤのことになると、心臓にある何かがグドグドと鳴り暴れだす。
“締め上げられる”や“打ち付けられた”という表現以上に暴力的で、恐らく私が知ることなく成長した、もしくはどこかに忘却した、あるいはさせられた、未知数的嫌悪的感覚。そうとしか表現できない。
今日だってそうだ。
タカヤが教室に入った途端の、慰め合戦。
反吐が出た。
それまで彼に話しかけたことのない連中が、こぞって「大丈夫か」と声をかけてくる。
本人は何ともない感じで受け流していたけど、私からすれば、耐え難い茶番劇に見えて仕方がない。
今回の事件では、タカヤは確かに、悲劇のヒーローになり得るだけのバックストーリーを持ち得ている。その上、全校集会も開かれた。
大方、タカヤに面識のない連中は、その“悲劇”をただ、共有したいに過ぎない。丁度、見ず知らずの俳優が死去した時、悔やんでもない「お悔みトーク」をツイッターに流すように。
自分はその悲劇が起きるまで、対象の外にいた。にも拘らず、死んだ途端に手のひらを返して、あたかも自分が最初から対象の中心にいて、その伝記を後世に伝えるブックマンと誤解している。ミーハーとは違う…単純に言おう。ただの蛆虫だ。悲劇という死体に群がる蛆虫だ。
そんな連中を、仕事で、個人的に、私はずうっと見てきた。
いつ見ても、吐き気がする。
私はタカヤを極力見ないようにして、席に座ると、更に遮るようにして次の授業の教科書を開いた。
何故かって?
このまま見ていれば、タカヤにさえ吐き気を催しそうだったからだ。
だってそうだろ。この話の通りなら、タカヤは“死体”…いえ、まだ死んでいないから、“死体”ではないか。もう、死んでいようがなかろうが、死体は死体だ。そんなものに沸き立つ蛆虫を、それ全体を心地よく見れるわけがない。
……その点に関して言えば、私はまだ全てを捨てきれていない。失敗作だ。
その気になれば、私は蛆のわいた死体を抱きかかえられる、キスだってできるし、幾度も捨ててきた処女さえ捧げられよう。
でも、今は駄目だった。どうしてか、タカヤだけは。
……畜生! 今も気になって仕方ない!
悲劇に群がる連中は、いつも見ているから、どうとも思わない。これは“はず”ではなく確定事項だ。
だとすれば、元凶はサホガワタカヤ。
しかし、あの男の“悲劇”も、どこまで続くか。良くて“喜劇”。そう終わってくれれば……まただ!また私は、タカヤを意識して……畜生、どうしてだ! どうして!
エルにも、チイにも、ハフシにも抱いたこともない、ファースト・インパクト。
この感覚は何なの? どうなってるの? 誰か答えて。でないと…私がもう…。
とにかく落ち着かなきゃ……落ち着くんだ、シレーナ。
深呼吸を三回。そして手持ちのタブレットから音が鳴った。
「時間か」
◆
「シレーナ?」
屋上に貴也が着いた時、シレーナはタブレットを片手に、何やら話をしていた。
ハッと、こちらを向いた後、彼女は肩から息を抜く。
「タカヤか」
「何やってんだ?」
覗き込むと、分割された画面にエルやハフシら、昨日今日出会った面々が映し出されていた。
「テレビ会議みたいなものよ。タブレット端末のカメラを使って、遠隔で会議をしているのよ」
「ふーん…でも、なんで、俺がのけ者に?」
「この会議は、導き出された事実を“確認”するだけの場にすぎないわ」
「確認って?」
言っている意味が、貴也には理解できなかったが、それをシレーナは冷ややかな目で見る。
「ラオ、彼は?」
――多分、寝てるか、忘れてるか。
「ふぅん。いいわ。じゃあ、タカヤも確認した、その情報を」
――分かった。俺とメルビン、タカヤは衣川駅の監視カメラを調査したんだ。だが、大方の動画は鉄道公安隊が押収して、残っていたのは、それほど重要でない映像の山だった。メルビンが気付くまでは。
メルビンは、分割された画面の中でも、何故か顔を隠した。
――ま、まぐれさ。
「その映像ってのは?」
画面が、問題の防犯カメラ映像に切り替わる。
――場所はホームの端にある電灯に設置されたカメラで、映っているのは53号列車だ。この一番奥、電車から降りてきた人影に注目してくれ。
見ると、その人影は、階段へと向かう人ごみから外れるや否や、頭に何かを被って、乗車する人ごみに紛れた。割り込むように前へ前へ行っているのが分かる。
「これか」
――ええ。しかし、この映像を拡大して見ると。
「……ふぅん。これで事件はほとんどつながったわね。こっちも、さっき学校側に確認を取ったわ。伊倉カナ殺害当日、彼女に関しての問い合わせの電話は、彼女が電車にはねられたという第一報が入るまで、全くなかったってね。
こいつなら、学校に問い合わせなくても、彼女の家を知ることのできる立場にある」
「でも、待ってくれよ。この人が犯人だとして、動機は何だ? それに、どうしてユーカを殺したんだ?」
この当然の質問に、シレーナは黙りこくった。
無論、画面上の誰しも。
「シレーナ?」
「…一旦、席を外すわね」
そう言うと、ホールドボタンをタップ。タブレットを傍のベンチに置いて、彼の方を見た。
「あの駐車場で答えが聞けなかったから、これが最終宣告になるわ」
「えっ?」
「タカヤ。これから私たちは、リッカー53と対峙する。無論、奴はあなたの恋人を殺した人物……君は、これから明らかになる事件の全てを冷静に判断し、私情を挟まずに真実を見極めることができると誓える?」
チャペルで神父が投げかけそうな言葉。否、それにしては少々過激だし、この2人の間に所謂“愛”は無い。
差し出された右手は、正に貴也へのファイナルアンサーであった。
シレーナの側に行き真実を受け止めるか、それとも……




