32 「核心へ、確信へ」
AM10:48
ラルーク分署裏
セブンパッセンジャーにもたれかかっていたシレーナの視線が、一方向に向けられた。
昨日、衣川駅で見送った旧型乗用車ー三菱 デボネアが、エンジン音を響かせて姿を現した。
完全に停車した車に、シレーナが近づくと開口一番
「例のモノは?」
「おいおい。私はピザ屋じゃないんだからさ」
「失礼。今度電話するときは、間違わないように電話帳を書き換えておくわ」
運転手は、助手席の茶封筒をシレーナに手渡した。
すぐにそれを開けて、中の書類を引き抜く。
10枚ほどはあるだろう、用紙を斜めに読み始める。
「それくらいなら、本庁のデータベースにアクセスして――」
「相手に感づかれたら、厄介だ」
「おい、まさか…」
目を丸くして驚く彼に、シレーナは淡白に返した。
「ええ。十中八九、犯人はコイツで間違いないわ。でも、それは伊倉殺しでの話で、通り魔に関しては、確固たる動機はまだ推測の域を出ていない―――ん?」
シレーナは3枚目の書類に目を止めた。
「イナミ。これは、どういうこと?」
彼女が目を止めたのは“謹慎処分”の文字。
「ああ。半年前、彼は勤務中にわいせつ事件を起こしてね。まあ、結局のところ事故だったみたいだけど、それで1週間の謹慎処分になったんだ」
「わいせつ事件? 具体的には?」
「乗り合わせた女子生徒のスカートがめくれ上がっていてね、それを指摘したところ、女子生徒は騒いで彼を痴漢として捕まえ、駅長室に引っ張っていったんだ。どうやら乗り込んだときからそうなっていたみたいだが、当の本人は頑なに“スカートをめくられて、お尻を触られた”と言っていてね。オマケに何人かの乗客が、露出された下着を彼がずっと見つめていたと証言したんだ。で――」
運転手―イナミは、その先は言った通りだとアイサインを送る。
「成程」
「今、監察官聴取が行われているが、今回の処分も、この謹慎も視野に入れて出すみたいだ…私も、その聴取に行く予定だったのを、無理矢理飛び出してここにいるんだ」
「…異動ですか?」
話を聞く気はないみたいだ。
いつもの事だ。イナミは話す。
「そうなるだろう。良くて分署の庶務課か交通課辺りじゃないかね?」
「ふぅん」
更に資料を読み込むと
「中毒、依存症なし。精神面において、強迫的な一面アリ…か」
そう呟くと、シレーナはイナミに言った。
「監察官にお伝えください。警察の面子を重視して、結論を急がないようにと」
「何が言いたい?」
「それこそ犯人の思うつぼ…とだけ言っておきましょう」
すると、ハフシは目頭を押さえた。
「まさか…まさか、な。考えたくはないが…」
「彼が犯人と考えると、全ての辻褄が合うんですよ。悪ければ、彼の傍に共犯者がいるかも」
彼は窓から顔を乗り出して、シレーナを見上げた。
「確実に上は、お前を動かすぞ。シレーナ。急がなければ、お前が彼を“処分”する事になるぞ」
イナミの言葉に、彼女は微笑する。
そして言い放つ。
「前にも言いましたよね? そのための私ですから、って」
その眼は群青―と言うより日没の青空にも似ていた。地平線に太陽が消える、その瞬間の青空に。
「それでは」
茶封筒を手に、彼女はデボネアから離れる。
それを手に、振りながら
「これは厳重に処分しますので」
「どこへ行くんだ?」
「学校ですよ。ちょっと寄り道をしてね」
「いい心がけだ。しかし、寄り道とは一体どこだね?」
「駄菓子屋ですよ。朝食は糸引き飴って、昔から決めてるんでね」
そう冗談を残して、手をひらひらと振りながら、警察署に消えたシレーナをイナミは見送った。
これから起こるであろう事態を、まるで曇天の空を見上げて雨を心配するかのように。
◆
同時刻 ラルーク総合病院
テラスを出て、病室へ戻るハフシと地井。
「成程。シレーナちゃんの推理ね…」
「最も、先輩はこれから物証を探すみたいだけど」
「問題は」
「ええ」
互いに顔を見合わせた。
『この真相に、彼は耐えられるか』
それはシレーナと同じ結論。
「少しか彼を見ていないから、何とも言えないけど、愛する…いえ、愛していた女性の正体を知った時、彼がそのままの状態を保てるとは思えない」
「チイに同感だ」
その時、麗子のいる廊下で話し声が聞こえてくる。
どうやら、捜査員たちだ。
相手はケータイで、しかもスピーカーにして会議をしているよう。
「全く。ケータイはデッキで使えっての」
小言ながら憤るハフシ。
よく聞くと、電話から聞こえてくる相手は―――
「ナギ警部補か?」
「確か彼、本庁に出頭しているハズでしたよね?」
「ああ。リッカー53事件のほとんどが、彼が捜査中に起きていたからな。それに、今回の騒動だ。監察官も黙っちゃいないだろ」
そんなナギ警部補は、薄く四角い情報機器越しに、部下から事件の報告を受けていた。
「現場ゴミ箱より押収された凶器ですが、DNA鑑定の結果、複数人物の血液が検出されました。一連の列車内無差別通り魔事件の凶器である可能性が高いですね」
――指紋は?
「検出されませんでした」
――フードの方は?
「市場に大量に出回っているジャケットのフードです。頭髪、皮膚片等は検出されていません」
――手がかりゼロか…ラルーク駅の防犯カメラは?
「ボブが回収して科警研に。解析の真っ最中かと」
――犯人が映っているとしたら、53号列車が到着して、下り列車が出発するまでの間だ。そこに注目させて調べさせるんだ。フードのないジャケットを着ている可能性があるしな。
全員が声を合わせて、了解と言うのが正解な場面。
それを由としない者が、背後から声をかけた。
「すみませんが、場所を変えていただけますか? この辺りは携帯電話の使用は禁止ですよ?」
ハフシがそう説明すると、その場にいた捜査官は蔑んだ目をし、笑みを浮かべながらその場を去った。
「分かりましたよ。眼帯看護婦さん」
そう残す者も。
彼らの姿が完全に消える前に、地井が口を開く。
「嫌な人たちね」
「駅より先に学校に行きなさい。“私たちにモラルを教えてください”ってね」
「同感」
ただ…
「やっぱり引っかかるな」とハフシ
「ん?」
「いや。昨日エルに調べてもらったんだけど、防犯カメラ映像の回収も、全てボブ・スタータって捜査員がやってるんだ」
「何者なの」
「元情報捜査課の捜査員だよ。三年前、RMTの絡んだ反社会勢力の一斉摘発の際、一部構成員に情報を流して見返りを貰おうとしたんだ。この時は未遂であったことから部署移動―まあ、左遷ね。それを食らって花形部署から鉄道公安隊に送られちゃったって訳」
「今でも問題が?」
「三年前かららしいけど、金銭問題を抱えている節がある。まあ、今回の事件に関係あるかは分からないけど」
刹那。
ゴロロっと病室のドアが開けられ、中からサンドラが現れた。
「あ、地井先輩、大変ッス!」
「サンドラ? いつからそこに?」
驚くハフシ
「今さっき…それはいいとして、早く」
その表情は、じっと見ていなくても「緊急事態」という四字熟語が浮かび上がってきそうなほど、切迫していた。
2人が中に入ると、麗子が身体を小刻みに震わせ、治療していた看護師が「大丈夫よ。落ち着いて」と言いながら、背中をなでていた。
「せ、先生…」
地井は床にしゃがみ込み、麗子の目線に合わせた。
恐怖を感じているのは、。素人でも分かる。
差し出した右手を、麗子は両手でがっと掴み、そして底から絞り出すように訴えた。
「い、いました…いました…」
「誰がいたの?」
「…ち…ちか…ち…痴漢さん…あの時の痴漢さんです!」
まさか、リッカー53が!?
「ハフシ!」
地井の一声に、ハフシは病室を飛び出した。
パアンとドアを響かせて。
残った地井は、自身の身体を近づけ頭を撫でながら、看護師に鎮静剤を注文した。
「サンドラ。君は病室に」
「了解ッス!」
律儀に敬礼をすると、今度はゆっくりと扉を閉める。
2人きりになった病室。
「怖い」と連呼する彼女を、地井はただ優しく撫でていた。
最初は、この異常事態に、麗子をどうにか落ち着かせなくてはと考えていた地井だったが、先ほどまで自分が見ていた光景を巻き戻した時、あることに気づいたのだ。
病室前の廊下は行き止まりで、病室の前には鉄道公安隊と分署の事件担当捜査員がいた。誰かが偶然を装って病室前を通過することは考えられない。第一、声をかけるシチュエーションすら思い浮かばない。
だとすると、声を聞いたのは、あの電話の時か。
しかし、麗子が襲われた時…ガーディアンの人間を除けば、あの車両には、1人しか警察官が乗っていないのだ。
(そうか、彼が…彼がこの子を!)
彼女には見せないように、その震えた体を抱き、鋭い眼光をドアへと注ぎ続ける地井。
赤髪の少女しかいない、その扉の向こうを…。




