31 「フェティシズム」
病室から少し離れると、地井の営業スマイルは消え、心理学探偵の真剣な顔に。
「彼女は大丈夫かな?」
「早い段階で、心の中を吐露したし、自分の状況にも立ち向かった。まだじっくりと見ていく必要はあるけど、回復はそう遅くはならないはずだよ。
まあ、心の傷は体の傷程単純なものじゃないわ。完治なんて言葉は、意味を成さない」
「これでも医師を目指す人間だよ? 分かってるさ」
右手を胸に当てるナースメイドの彼女に、白衣のカウンセラーは振り返って微笑んだ。
次いで間髪入れずに
「どう思う?」
「ボクは外科と内科、ギリギリ皮膚科専門だ。心理学はチイの十八番だろ」
「そうだけど、先ずは心理学抜きで、率直な意見を聞かせて欲しいの」
するとハフシは口を開く。
「彼女の話を聞いた時、犯人はチイの言うとおり、女子高生か肌のどちらか、あるいは両方に、ある種の潔癖があるって思ったんだ。でも、改めて話を聞くと、そいつが懐疑的になったんだ。 なぜ奴は、痴漢行為に及んだんだ? 電車の中で、しかも痴漢は相手の傍に近づかなければ実行できない犯罪。潔癖であるなら、自らを汚す場所に、わざわざ飛び込んだりしたんだ? そうなると、ナイフでお尻を刺したのが自我の葛藤の解決という点も、疑わしくなってくる。触りたくないけど触れたいという矛盾した感情を解決するなら、最初からナイフを使えばいいんだから」
地井は何度か頷くと
「私も、それに関しては同意見だわ」
「チイ。君はどう考える?」
「犯人には、病理的な性的嗜好があるんじゃないかって考えたわ。単純なサディズムではなくてね」
「フェティシズム?」
「そう。DSMを始め、いろんな精神分析の指標を参考に、いくつか該当しそうな症状を、思いつくかぎり考えてみたんだけど、どれを取っても矛盾するのよ」
「例えば?」
ハフシが聞くと、地井は廊下をナースセンターの方へ歩き始めた。
「例えば、汚損性愛。これは汚れた下着や生理用品に対して抱く性的嗜好よ。犯人がこの汚損性愛であると仮定すれば、女子生徒が身に着けていた下着に異常なまでの性的興奮を持ち、それを満たすためにナイフでお尻を刺突。その血で更に下着を汚すことで性的欲求を満たしていた」
「説明はつくように見えるけど?」
「問題なのは、汚損性愛にとって、性的対象は人間ではなくて下着。ならば何故、下着を奪うような犯行形態を、この犯人はとらなかったのかしら。血と汗と尿で、被害者の下着は汚れきってる。自分をエクスタシーへ誘う対象をその場に放置して、未練もなく出られるとは思えない。まして、それが病理的ならば尚更」
「他には?」
「接触性愛。相手や相手の衣服に自らの性器を押し付ける性的嗜好よ。ナイフが自分の性器を象徴していて、それを押し付けているとしたら、この仮説は当てはまるけど」
「違うのか?」
2人は、先ほどハフシがいたテラスへ。
傍にある自販機に足を向けた。
「一見すると痴漢と同意義に見える行為だけど、根本的に違うのは、接触性愛には潜在的な性行為は含まれていないわ。つまりナイフを刺すことが性行為を象徴している可能性があるとなると、この仮説も崩れる」
淡々と、一般人が聞いたらドン引きするようなワードを含みながら、彼女はブレザーから小銭を取り出し、ミネラルウォーターのボタンを押した。
「あれ? 紅茶じゃないんだ」とハフシ
よく見ると、自販機にはペットボトルのレモンティーもあった。
「ダメなのよ。ペットボトルの紅茶は甘すぎて」
「そうだったっけ?」
ハフシも、札を入れると120円のカフェオレを購入。つり銭がジャラジャラと音を立てて降りてきた。
その様子を見て、地井はフッと笑った。
自販機にお札を入れるのは、ハフシがいつもしてしまう癖である。
「で、性的嗜好は、それで全部か?」
「血液性愛や体内進入性愛、強姦性愛も考えたけど、どれも違う…確かに、これで全部よ」
「じゃあ、フェティシズムでもない…ってこと?」
ベンチに並んで座った2人。ゆっくりとミネラルウォーターのフタを開けようとした地井だったが
「いいえ。まだあったわ」
声の代わりに、横目で地井に答えたハフシ。プルタブを開き、カフェオレを一気に飲み干す。
「もしかしたら、この2つのいずれかか、あるいは両方か…でも…いいえ、これしか…」
ペットボトルを置き、左の義手で口を押えながら独り言をつぶやき、自らの思考を完成させていく。
「両方って、どういうことだ?」
「ハフシ。ここまで選択肢を絞って、考えられるのは…下着性愛…非常に特異なケースかもしれないけど、これしか考えられない。」
地井との付き合いが、小学生の頃からという、比較的長いとはいえ、彼女の口から出てきた単語が、ハフシには理解できなかった。
「下着性愛は文字通り、下着に強い執着を持ったり性的興奮を覚える性的嗜好よ。広義としては服装性愛に分類されるけどね。DSM―Ⅴでは“少なくとも6か月間にわたり、女性などの下着に関わる強烈な性的に興奮する妄想、性的衝動、または行動がくりかえしおこる”こと。そして“その妄想、性的衝動、または行動によって著しい苦痛、または社会的、職業的な障害がおきている”ことの2つを満たしていれば、パラフィリア的下着性愛と解釈できるとされてるわね」
「リッカー53も?」
「牧野麗子を始め、全ての女生徒が、下着は手で触られ、それ以外はナイフで弄ばれた点。伊倉カナ殺害事件翌日にも関わらず、犯行を重ねた点。そして、これまでの被害総数からして、この可能性は十分にあり得るわ。
一般的に、下着性愛とは異性の下着を入手し、性的な用途に用いる傾向を解釈するのが一般的だけど、下着を着用した相手への性的興奮が長期にわたり続き、その行動が顕著なものは可能性を有しているとされる。今回の犯人は現在進行形で着用されている下着に対し、性的興奮を持っているんじゃないかしら? それも潔癖且つ強迫的なまでにね」
それでも、犯人の行動には疑問が残る。
何故、お尻を刺すのか。麗子に言った言葉の意味は何なのか。そして、どうして53号列車で犯行を重ねるのか。
「確か、犯人は“辛いよね。とっても苦しくて、息もできないよね…解放してあげるからね”って言ったわね」
「彼女の証言通りならばな」
それから地井は黙った。
思考が奥へ奥へと向かうごとに、彼女の目が濁りを帯びていくようだった。
ハフシは黙っていた。しかし、今の彼女に何を話しても無駄だった。
それは経験則から導き出した結論。
義手のみぞ知る過去と、肉体が語る記憶から導き出した…。
「リッカー53の目的は、単純に女の子のお尻を刺すだけだったのかも」
「一体なんのために?」
「ここからは推測にすぎないけど、肉体からの救済。これが最終目的…」
いきなりの言葉に、ハフシは耳を疑った。
そんな言葉、礼拝堂ぐらいでしか聞かないワードだと思っていたからだ。
「肉体からの解放って、魂でも解き放つのか?」
「いいえ。対象は下着」
「下着?」
「仮にリッカー53が重度で病理的な下着性愛であると仮定すると、牧野麗子にかけた言葉の意味に辻褄が通るわ」
地井は続ける。
「あの言葉が女の子にかけられたんじゃなく、彼女たちが履いていた、つまり犯人が撫でまわした下着に対して投げかけられた言葉であるとすれば…」
「つまり、肉体から下着を解放するってこと?」
尋常な頭脳では、全く理解も想像もつかない犯行動機だ。
「恐らくリッカー53は、女の子のお尻によって下着が窒息しているという妄想に駆られていた。その妄想は下着をお尻ごとナイフで突き刺し、下着のための呼吸口を作ることで解決するという結論に至り、それを実行に移した」
いつものことながら、地井の推理にハフシは驚かされる。
こういうケースの場合、7割以上の確率で、地井の異常心理に対する推測は完全一致を果たす。それは並みのカウンセラーや、心理プロファイラーでははじき出せない数字だ。
やはり“あの事件”の遺した能力―否、“傷”は彼女を引き立たせているのか、それとも引きずっているのか、時々分からなくなる。
「だとしても、根幹の謎は残るぜ? 犯人はどうして53号列車に拘ったのか。あの列車だけでなく、このシティを走るありとあらゆる列車に女子生徒は乗っている訳だし。あの列車に選ばれしパンティでも乗っているなら別だが」
「これに関して、解釈は2つ。1つはハフシの言うとおり何かしらかの妄想に執着していたという点、そしてもう1つ…犯人が53号列車から何らかの理由で離れられなかった」
「離れられなかった?」
妙な言い方だ。
「昨日、シレーナからの指示が出て調べたはずよ。それに、さっきの電話と、今日の事件…私の言葉がどういう意味か、もう、分かっているハズよね?」
最悪な事態が、ハフシの脳内に浮かび上がってきていた。
53号列車から離れられない理由―つまり……




