29 「“普通”」
「そうよ。伊倉ユーカの家に置かれていた3つのビン」
シレーナはラルーク分署裏手にある車庫にいた。特殊車や車検間近のパトカーを置いているため、あまり人は来ない。
その中の1台、白い車体に青のシングルランプを屋根にのせた、ハドソン セブンパッセンジャー。移送用に使われる大型クラシックカーのステップに腰かけて、話を進める。
――それが、何だって言うんです?
「ラベルが気になってね。オシャレってやつには確信がないから、地井に調べてもらったのよ。驚くことに、正体は香水。しかもガーディアンの給料どころか、一学生の小遣いでも手に入らないくらい高額な代物。シャネルにアルマーニ、クリスチャンディオール」
――驚きましたね。どれも高級品じゃないですか。
「それだけじゃないわ。大きなハイビジョンテレビに、最新鋭のハードディスクレコーダー、官給ではない3LDKの住まい…基本、家族と無縁、もしくは存在しないことが加入条件のガーディアンにおいて、これだけの贅沢ができるとは考えにくい」
――ですね。シレーナさんのような方ならともかく…あっ、失礼しました。
「いいのよ。そうなると、1つの結果に辿りつく。これだけの贅沢ができるということは、ガーディアンのペイ以外に、副収入があったんじゃないかってね」
――でも、チイの報告が本当なら、彼女、アルバイトなんてしていませんよね? 無論、彼女の正確な情報を疑う訳ではありませんが。
シレーナは微笑した。
「アルバイトを足しても、あんな贅沢な暮らしはできないわ。毎晩援助交際でもしていたなら、あり得そうだけど、ガーディアンにはご法度の上に、ユーカの部屋に、それを匂わせるようなものは見られなかった。
で、ここからなんだけど、さっき面白い話を聞いたのよ」
――面白い話?
「興味深い、の方が良いかもね。今から話す事はタカヤに…いえ、いずれ分かってしまう真実だから、仕方ないのでしょうけど…兎に角、全ての真相が分かるまで、伏せていて頂戴」
――分かりました。それで、何を掴んだんです?
シレーナは、ハドソンから立ち上がると、ケータイを持つ手を換えた。
「少女Aの証言よ。とっても意外な人物と繋がっていた“少女A”の―――」
◆
同時刻
衣川駅 防犯モニター室
何のデジャブだろうか、佐保川貴也は昨日いたはずの場所で、モニターとにらめっこしていた。
駅長室の隣にあるこの部屋は、駅構内に置かれた防犯モニターを管理、録画している部屋である。普段なら列車制御機器と一緒に設置されている代物なのだが、駅の規模が大きいため、このように別室扱いなのだ。
リアルタイムで流れる映像に囲まれ、ルーキーは53号列車が到着する前後20分間の映像と格闘していた。
コンコースからホームまで、その数12本。とはいっても、そこまで重要な映像は含まれていない。ホームの映像の大半は、鉄道公安隊が持って行ってしまったからだ。
「はあ……」
意識が風化したポスターの如く、どこかへふうっと飛んでしまいそうな彼の顔に、冷たい刺激が走り抜ける。
慌てて振り返った先には、缶コーヒーを手にしたラオがいた。
「どうだい、新入りクン」
「ええ、順調に行っていますよ」
「顔に書いてあるぜ、限界ってよ…コーヒーは飲める口かな?」
「大丈夫です」
「这是很好的(そいつは、よかった)」
貴也はラオから、冷えた缶コーヒーを貰うと
「北京語ってことは、中国の出身?」
本人は目を丸くした。
「驚いたな。大抵、中国語って一括りで聞いてくるのに」
「なんとなくです。聞き取りやすかったので」
「本省人さ。生まれも育ちも台湾の高雄だよ。でも、あの辺りで話している福建語は、どうもイメージ悪いしカッコ悪しで、北京語を使い始めたら、こっちの方が場慣れしちゃってね」
「へえ」
ラオはゆっくりとコーヒーを振り、プルトップを開けた。
「さあ、仕事に戻ろう。収穫は?」
「残っていたビデオは、ほとんどがコンコースと改札だけ。何も映っていませんね。
リッカー53らしき人物は、この衣川駅から乗っていないんじゃないでしょうか?」
「そうか…それ以外の場所の映像は、あるのかい?」
貴也は一枚のDVDを掴んだ。
「ホームのが1枚。ですが、ホームの端の方に設置されたカメラなので、あんまり…」
「もう、見たのか?」
「真っ先に。でも全然」
その時だった。
「見せてくれないかな?」
『うわおっ!』
2人の背後にはメルビンが、背後霊のように佇んでいた。
「いつからいた?」
「さっき部屋に入った」
「あ、なーんだ。お前、放っておいたら存在消えちまうからな」
ラオの言葉に、耳を疑った貴也は
「え? そんなに存在感薄いんですか?」
と、新人としては(というより、そんなことは関係なく言ってはいけない気がするが)無礼な言葉が飛び出したが、当の本人は
「うん。薄いよ。すごく薄い」
頷きながら。
「否定…しないんですね…」
「他の人からも言われているからね…。否定のしようもないよ」
そんな彼に、ラオは言う。
「だからこそ、あの能力を持ったんだろ?」
「それって、瞬間記憶のことかい?」と貴也
「だけじゃないのさ」と前置きし
「さっき君は言っただろ? 存在感が薄いのかって。それが彼の弱みでもあって、強みだ。メルビンは尾行のプロなのさ。どんな状況下でも、例えスターリンのような猜疑心の塊のような相手でも、感づかれることも見つかることもなく、任務を遂行できる。
彼女も言っていた通り、記憶も尾行も、ミスは一度もない」
「そんなことって…」
瞬間記憶に存在を故意に消失させる能力…そんなことって
「信じられない…」
「何故?」
何故?
答えなんか1つだ。
「そんなの決まってるじゃないか。普通に考えてみろよ」
すると、メルビンはいつの間にかノートパソコンをかついで部屋にいた。パッソから取ってきたのだろう。それにDVDをセットした。
一方のラオは
「普通…ねえ」
「何か問題か?」
「大問題だね。答えになっていない」
即答。
「君に聞くが、その“普通”とやらは、何を基準にした“普通”だい?」
「世の中だよ。世間一般を基準に考えれば、そんな能力のある人間なんて、考えられないじゃないか。それに“一度も間違えたことがない”? おかしいよ、それは」
すると、ラオは言う。
「それ、シレーナさんの前では言わないことだ。彼女はとりわけ“普通”って事象が大嫌いなんだ」
「どうして?」
「いいかい? “普通”って事象は普遍的で平等公正な表現ではないんだよ。その人や社会を主体にした時、目の前にある事実がどれだけ、自分のものさしに当てはまるか。そのピタリ賞がいわば“普通”で、溢れたり足りなくなれば、それは“異常”と見なされる。その“普通”や“異常”で、他の事象を計ろうなんてエゴ以外の何物でもない」
「そんな…」
「例を示そう。 例えばこのグランツシティ。綺麗な街並みだし、空は青く澄み渡って濁りもない。電気も食糧も交通も不自由なく与えられている。この“普通”からすれば、ニュースで届けられる紛争地区の惨状は“異常”に見えるだろう。でも、紛争地区にいる人はどうだ? 街は破壊され、空は飛行機で埋め尽くされる。電気も食料も配給に依存しなければいけないし、まして外に出で行くなんて命がけだ。それが“普通”なんだ。グランツの光景は“考えられない光景―異常”なのさ」
「……」
黙りこくった貴也に、ラオは言った。
「まあ、俺の言う事をすぐに理解しろとは言わないさ。だが、俺たちの班で仕事をするなら、頭の隅に置いておくことだ。
“普通”や“常識”、“当たり前”といった概念は、俺たちの捜査には通用しない。全てを捨てろとは言わない。だが、いざという時、そいつをバラストのように捨てられるようにはしておけ」
「俺たちの班?」
その単語に、違和感を抱いた。
「そう、俺たち。制服が違うのはそのためだ。俺たちは―――」
ラオが続けようとしたときだった。
「あ!」
メルビンが声を上げた。
「どうした。メルビン」
「おかしな影が」
「なにっ?」
2人がメルビンの元へと急ぐと、彼はモニターの上部を指さした。
画面奥の方のホームで、向かいの番線の陰に隠れた人影が、何やらポケットから出して被っていたのだ。
貴也が見落とすのも無理はない。電車から降りた乗客―つまり、画面手前から奥へ向かう人たち―と重なって、隠されていたのだ。
「まさか…」
「この人影が、どこから来たのか分かるか?」
「パッと見ただけじゃよく分からない。詳しく分析すれば…アイツに任せようか?」
「そうだな。でも、いいのか。扁桃腺」
ラオが聞くと
「腫れはもう引いていて、今は自宅待機してるらしいよ」
「ならば、アイツにもラッシュアワーの恐怖を体感してもらおう」
メルビンとラオは互いに頷くのだが、背後の貴也は置いてけぼりを食らうだけだった。
「なあ。初心者にも、分かりやすく、教えてくれよ~」




