16 「感覚未聞」
貴也が車や柱伝いにこっちへ歩いてくる。痛む腹部を押さえながらも、アスファルトの上に、先ほどまで下衆な笑いを浮かべていた男たちが、苦痛の表情を伴って総崩れとなっている現状を理解しようとしていた。
その手には、シレーナの眼鏡もある。
「シレーナ……これ、君が?」
彼女は目を見開き黙ったまま。
「シレーナ?」
「あ……あ……」
貴也には、何がどうなっているのか理解できなかった。
気絶したロン毛も、大破したバンも、そして言葉を発せずにいるシレーナも。
「シレーナ?」
「来るなっ!」
叫び。
貴也は静止する。と言うより見えない銃を突き付けられた気分だった。今の彼女の「来るな」は、確実に危険な匂いをを放っていた。
「シ、シレーナ……」
遂に彼女の傍に来た貴也に、シレーナは我に返った。
「い、いえ。骨折していたら厄介だ。これ以上は、動き回らないで」
何という機械的な言葉。
だが、それだけのことで「来るな」などと叫ぶだろうか。
殴られたせいか、視界がぼんやりとしていて表情はよく分からないが、さっきまでのシレーナとは明らかに感じが違っていた。
男たちに囲まれたから?自分が殴られたから?何らかの辱めを受けたから?
違う。そのどれも当てはまらない。
まるで、何かのスイッチが入ったように…シレーナであって、シレーナではない。そんな感じを受けた。
でも
「シレーナ。血が」
それには、否が応でも気づく。
顔を伝う感触。
「さ、さっき殴られたんだ」
動揺したまま、彼女は答える。
「殴られた? どこだ?」
貴也はゆっくりと彼女の髪をかきあげた。
ビクッと、彼女の身体がびくついた。
「こ、後頭部だ。鉄パイプでね。どうってことない」
「そんな簡単に言うなよ」
「簡単なことよ。痛まないんだから」
その時
「!!」
ブレザーからハンカチを取り出すと、傷口をゆっくりと押さえる。
「放せ!」
「いやだ」
「命令だ。放せ!」
段々と荒げていく声を無視した彼は、抵抗するシレーナを抑え込む。
自然と、貴也がシレーナを抱きしめる形となった。
「いくら痛みを感じないからって、こんなにひどい傷、放っておいたら大変なことになっちゃうよ」
「やめろ! 大丈夫だから」
「大丈夫じゃないから言っているんだ。もっと自分を大切にしないとダメだよ」
その言葉に電流が走った。今まで味わったことのない電流。
加えて自分を取り巻く貴也の体。
シレーナは不思議な感覚に包まれる。今まで経験したことのない、いや、最後にどこで感じたのかすら思い出せない。そんな感覚に。
「それは、私が女だからか?」
「違うよ。誰かが傷ついたら助け合う。人間として最もな行動じゃないか」
人間として最も。
その言葉が、彼女を更に不思議な気持ちに包み込む。
(ベアハッグを受けていないのに、胸が締め付けられる。首を切られていないのに、鼓動が早くなる。
私よ。私はどうしたいんだ?
泣きたいのか? それともイラついているのか?
ハッキリしてくれ。
……でも、この気持ちは何て名前なんだろう。
どこかで出会ったことがあったような、ないような。
……ダメだ。認識できない。いや、私が認識することを拒んでいるのか?
どうして? どうしてそんな必要がある?
分からない。
何もわからない。
どうしてこの男に、この男の言葉に……)
「戻ろう」
彼女を解放した貴也は、手にしていた眼鏡をシレーナにかけてあげた。
「……そうね」
無傷なそれは、彼女の中におさまった。
そして、あの感覚も。




