75 「シレーナの真理 1」
「そうですか…やっぱり、シレーナはまだ…」
「ああ。彼女の様子を見てきたが、もう二、三日は養生が必要かな」
旧校舎の屋上。
放課後ともなると、人が滅多に来ない― というより、本来立ち入り禁止の場所に、アナスタシアは貴也とともに立っていた。
立派な九階建ての新校舎が、のっそりと見下ろす朱の空。
いつぞやかの警察署を思い出す。
あの日、貴也は自分が愛した女性の本性を知ってしまった。
裏で援助交際と恐喝を繰り返し、私腹を肥やしていたスクール・ガーディアン。
無論、貴也にはシレーナへの恋愛感情などない。
当然だ。まだ出会って幾分かしかたっていないのだから。
だが、シレーナが何故か気になるのは事実だ。
彼女の思考も、理論も、武術も、なにより彼女の眼ですら恐怖のタグ付けしかできやしない。
なのに…なぜなのか…
貴也には、それだけが気になっていた。
シレーナに、俺は何を求めてるんだ……
■
「アナスタシアさん」
貴也に呼ばれ、赤いスーツの女性は振り返る。
「今思えば、シレーナはこれまでにも何回か学校を休んでいます。
それも風邪とは思えないほど長くて、一週間なんてことも…それも、今回と同じ理由なんですか」
「ああ。そうだ。可愛い部下に生理休暇を与えているのさ」
「生理休暇ですか?」
すると、アナスタシアはタバコを一本、赤いスーツの内ポケットから取り出した。
学内は禁煙だが、そんな野暮は、この上司には通用しなさそうだ。
取り出したのは、いつも仕事中に吸っているチェではなく、葉巻のような姿をした細長い紙巻。
ジョーカー マンダラに火をつけ、煙をくゆらすと、ほんのり甘いシナモンの香りが、風に乗って屋上を舞った。
「女の子の体ってのはな、思う以上にデリケートなんだよ。少年。
君は、お腹の下に爆弾のような痛みを抱えて一日を過ごしたことがあるか?
メシをたらふく食べた後にランニングしたら、わき腹がさすように痛いだろ? アレの数十倍の痛みだ。生理休暇を出すのは、上司として当然の権利だ。
無論、学校には伝えている。
心配することはないさ。またけろっと――」
「それだけですか?」
貴也は食って掛かった。
空気すら流していたアナスタシアの肩に、ピリリとしたものがのっかるのを、彼は感じる。
瞬間、あの甘い空気が、貴也の鼻腔から消えた。
代わりに、全身をさすようなものが走る。といっても、抽象的過ぎてしっかりとは伝えられない。
山椒を含むより、山葵をなめるより、ずうっと刺激的なもの。
それしか。
彼女は違った。
「正直に言ったらどうなんだ? 佐保川貴也。
…まあ、その答えを、私はもう、君に話してしまったわけなんだけどね」
ジョーカーの煙が舞う中で、貴也は彼女の姿を視界にとらえて離さない。
「パラーチ。殺人に特化した瞳……そして、シレーナ個人の技術と殺人願望…」
燃え盛る港湾で、肌の感覚を対消滅させるほどの戦慄。
ここで、またぶり返してくる。
「そうだ、タカヤ。
シレーナがこんなにも長く休んでるのは、そのためさ。
今回は相手が悪すぎたし、パラーチを長く使いすぎた。
視覚、聴覚、嗅覚。自分の身体に関する、あらゆる感覚が殺人に結び付いている。
しかも最悪なことに、彼女は痛覚を奪われた。痛みを感じることができない身体ってことさ。
人ってのはね、痛覚から恐怖という感情を得るよう作られているんだ。それは心と体、両方に言える真理みたいなもんさね。
恐怖を感じてこそ、人は人間たるに値し、生存本能における抑止力となる得る。
“死”…痛みを失うこと。それはもう、死すら失うことに等しい。
自分の死も、他人の死も」
「つまり、痛覚が存在しないシレーナには、生死を保つブレーキがない。
死を失っている。
……だから、あんな無謀な突入やカーチェイスを?」
頷くアナスタシアに、彼は目を見開いてつづけた。
「ちょと待ってください!
確か、シレーナには殺人願望があるって……それじゃあ、その願望がむき出しになり続けたら!」
「そのための休暇さ。
シレーナ自身も、それが分かってるし、苦しんでる。
中身がニンゲンでも、器が人間である以上、負荷に耐えることは容易じゃない。
まだ十代の、それも多感な女の子の器で、現実の全てを受け止めてるんだ。壊れそうにならないほうがおかしい」
「……」
「でも、私たちにできることは何もない。
感覚がないからさ。内側にできた問題を、物理的にも、即席にも、いい方向に修復しようだなんて、できやしないんだからね。
おまけに、事件となれば終始、パラーチが生み出す、むき出しになった感情と情報に、思春期のココロが責め立てられ続ける。
この休暇は、彼女を救うための休暇でもあるんだ。また働いてもらうためじゃない。生きてもらうための」
「シレーナ…」
そこまで大きなものだとは。
否、安い感情は今の貴也になかった。むしろ、別の疑念だ。
シレーナはいったい、どこをどうやって違えて、ああなってしまったのか。
それ以前に、そもそも――
「でも、そんな瞳が本当に存在するんですか?
確か…あなたは、存在を知る者がいるって言ってましたけど…」
アナスタシアは、マンダラを吸うと、その中途半端な燃え殻をシガーケースに仕舞って
「この後、時間あるかい」
「え?」
「家に送るがてら話してやるさ。君が聞きたがってる、その神話をね」




