73 「異形」
「ゲームセットだ。クソガキ」
シレーナの声が、銃弾より先に、ジョナサンの心臓を貫く。
彼は察した。でも、遠回り。
「逮捕するのか?」
「試したって無駄だ。お前は分かってるはずだ。自分が、次の瞬間、どうなってるか」
コロサレル。
でも、そんなはずはない。
ジョナサンの中に、甘いものが蓋をしにかかった。
「ふうん…ならいいさ。
どうだい。気分転換に一つ、なぞなぞといこうぜ」
呆気にとられた。
こんな時に…
返り討ちにあって自分が殺されるかもしれないときに…呑気になぞなぞ?
「なあ、こんなの知ってるか?
アイルランドのなぞなぞだ。
音もなく訪れるもの…3つ答えて」
「ん…んなもん…」
少年は最後の足掻きに出た。叫ぶ!
「知るかっ! バカっ! 放せっ!」
「ふうん…いい答えだ。ワタシなら正解をあげたいが、残念ながら不正解だ」
「黙れっ! 黙れ!」
シレーナは叫びを無視した。
「答えは老齢、髭、そして――支払日、さ」
白い息と共に吐かれた単語に、ジョナサンの抵抗は同化して消えた。
支払日。
意味するものが何か、彼には最初から分かり切っていたことだから。
「い…いみ――」
「意味? そんなもの、最初っからわかってるだろ?」
彼女はセーフティーに込めた力をそのままに、冷たく。
「支払日…それはつまり、お前の命さ」
処刑。本能がすべてを齟齬なく翻訳する。
だとしても、納得いかない。
納得が。
「どうして…なんだ…」
「……」
無言で自分を見下ろす彼女に向け、ジョナサンは本能をむき出しに激昂した。
「どうして殺されなきゃいけないんだあっ!!
俺は被害者だ。長く虐げられた傷が、膿を貯めて貯めて貯め続けて、それが暴発しただけなんだ!
俺は犯罪者じゃない! 立派な被害者だぁ!!」
だが、シレーナはクール…いいや、冷酷と言った方がいいかもしれない。
自分の立っている場所を、確実に認識している。
無論、相手のバックヤードも。
「違うね。おまえは耐えられなかったんだ。“人間”でいつづけることが」
「な…何を言って……」
「お前は頭が良かった。周りにいるオトナが味方じゃないことも、自分が置かれていた状況も理解できた。
お前には見方はいない。今までも、これからも。
助けてくれる人なんて誰もいない。
そこにいるのは動くアイアン・メイデン。何をしてもお前を傷つけ、殺す。
一生続く、生き地獄。
それでもお前は、“命を絶つ”ことより“生き抜く”ことを選んだ。
誰よりも強く、大きく、貪欲に。
だから、お前はあの時、“動物の肉”ではなく、“人肉”を食らう事を選んだ。
でも、“人間”は簡単に人を食らわない。それは矛盾した倫理や法に従うからじゃない。本能が自然と同族の血肉を避けるからだ。
お前の本能は生きるために、“人間”でいることを捨てた。人を殺し、食らった」
「嘘だ……」
「地獄から帰還した時、お前は酷く怯えたはずだ。そこにいるのは、変貌した1人の“ニンゲン”だったんだからな。
しかし、世間はニンゲンなど迎え入れたくもない。認めたくもない。愛したくもない。
今よりひどい仕打ちは必至だ。生存欲求すら否定される。
それがお前には、つぶされるほどに理解できた。受け入れなきゃ潰される。
お前は“ニンゲン”でありながら、“人間”として生きていくしかなかった。
それがお前には我慢ならなかった。貪欲で汚辱な魂に“人間”の器は綺麗で重たすぎた…耐えられなかったんだ」
「違う……」
「お前は逃げ道を探した。それが父親への復讐であり、無関係なガキの撲殺であり、無差別殺人だったのさ。
人を殺し、過去の人食を肯定して初めて、“ニンゲン”の生存欲求は満たされる。
今回の事件は、そのために起きたのさ。ガキが幸せだから殺したんじゃない。お前のココロが幸せになるためにガキを殺したんだ。
ココロが楽しんでる。
お前は人間を殺すことが楽しくて仕方ないのさ。
一時の刹那が、お前の存在理由を肯定してくれるんだからな。
エマとの関係も、それを補填し逃避するための副産物に、他ならない。
ふざけた御託を並べるのも、いい加減にしろよ」
「違う……」
「違わないね。だったら、これだけの人を殺しておいて、どうして逃げなかった? どうしてエマと心中しなかった?
現実から逃げる術なんて、いくらでもあったのに。お前はそうしなかった。何故だ。
ジョナサン。お前はもう、“人間”じゃない!」
「ふざけるなあああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
冷凍庫に大きく響く叫び声。
そして、壊れたように
「俺は人間だ! 人間なんだ! 人を喰っても、俺は人間なんだあああああああああ!」
シレーナは右手で喉首を締め上げ、彼の眉間にクーナンを押し当てた。
「ううっ……」
「なら、“支払日”に何をすればいいか、分かるよな?」
「ま…ふぁが…」
「天秤と釣り合うものを、もう片方に載せるだけさ。簡単だろ?
―きっかり1ポンドの肉……幸か不幸か、ここは食肉の冷蔵倉庫だ。この舞台で、お前から全てを奪い去る」
「おギ…待っでぐへ…」
「さっき、お前はワタシからも暴力と正義と食人の匂いがしたって言ったな?
ああ、そうさ。ワタシも人を食べた。生きるためにね。
でも……それは自分の意志じゃない。食べなきゃ殺されたからだ」
「……」
「ワタシが食べたのは、同級生の誰かがリンチして殺した後輩の死体だ。それが目隠しされ、手足を縛られた“私”の前に差し出された時、胃の中は何も残っていなかった。2週間ぶりの食物だ。
生きるためには食べなければならないが、食べる事を拒否して死ぬこともできた。そうしたかった。だが相手はそれを阻止して、ワタシの口の中に砕いた後輩の死肉を流し込んだ。
死ぬ事すら許されず、“ニンゲン”となったワタシは、全てを捨てて野良犬のように、生暖かい少年の肉を食いちぎった」
「…ふぁ…ふぁ……」
「喉の渇きをいやすために、男のナニから直接、小便を飲んだことは?
セリエAの決勝を見逃した理由だけで、サッカーボールの的にされたことは?
興奮剤と媚薬を打たれて、1週間、休みなくマワされたことは?
生き延びるために、ありとあらゆる人殺しの手段を覚えたことは?」
シレーナの瞳孔は完全に開き、怪物と化した瞳は静かに座っている。
ジョナサンは悟った。
「何一つとっても、お前はワタシと同じ“匂い”など持ってなどいなかったのさ」
またがっているコイツは、“人間”でも“ニンゲン”でもない!
「残念だったな」
ただの恐ろしく、狂った、抵抗しようにも、どうしようもない――
“異形”。
最初から、全てが決まっていたんだ……。
「……お喋りはこれまでだ。ジョナサン」
「!!」
凍え切った冷気の館には、銃声と血が、嫌なほどに広がりやすかった。
それ以上にシレーナは冷たい。
体や眼差し、心といったありきたりのものだけでなく。身にまとう抽象的なものまで全てが。
「お前に同情がないかと言えば嘘になる。ここに転がってるのは、過去を乗り切ったIFの私だ。
私も、あの時、人を殺しまくった。文字通り、狂い、見境なく。
この瞳を、その意味すら分からない恐怖に怯えて。
でも、私は生きている。全てを躊躇なく捨てたワタシに、支えられて、辛うじて…。
その反面、お前には嫉妬すらある。
理解できる者を得られたから、私が持つことを許されなかったものを持っていたから…そして、今こうして、苦しみから逃げることができたから。
今のお前に、もう、“匂い”はない。
だから、これは“私”が送る、せめてもの慈悲だ。
誰からも愛されず、ただ壊れていった哀れな“人間”として――死ぬがいい」
シレーナはブレザーのポケットから、白いハンカチを一枚。
フワッと舞落ちたそれが、ジョナサンの崩れた顔を覆うのを見届けると、死と同じくらい暗く冷たい箱の中から、姿を消すのだった――。




