72 「食品倉庫」
PM10:25
第16号埠頭 第7区。
埠頭の上空に警察ヘリがやってきて、地上をサーチライトで照らし始めた頃。
シレーナはまだ、闇夜の街区を走り抜けていた。
歯を食いしばり、冷や汗に顔をぬらす姿は、冷静さを失いかける寸前。
奴は、どこに消えた!
――シレーナ、今どこだ!
「エルか! 今、第7区だ」
――その近くの建物で侵入者を感知するアラームが鳴ったと、警備会社から市警に通報が入った。
「どこ?」
――7区西にあるホエール水産本社。外食店向けの加工食品を卸売りする企業の、本部兼倉庫ビルだ。
刹那! 彼女の視界が足跡を捉えた。
それは本来、残されるはずのないもの。視えないもの。
猥雑なテクニカラーに歪んだ世界に刻まれた白い足跡。
「見つけた」
エルの呼びかけが響く中、シレーナが無線を切った。
左手に持つククーナンの残弾を確認し、深呼吸。
まるで糸の切れた、否、意図の消えた抜け殻が、刻まれた痕跡を追いかける。
白い跡は、突然左に曲がり建物の敷地内に消えた。
出入り口にされた門の鍵を引きちぎり、建物へ。
窓の少ない鉄筋3階建てのビルディング。正面にはだだっ広い駐車場が広がり、パネルタイプの冷凍車が5台停まっている。
横に並ぶトラック用の搬入口は3つとも開いていない。
だが、建物の中から警報音は鳴り響いている。すぐ右手の石階段。会社正面玄関の窓ガラスが割られていた。
ここからか。
飛び散る破片を割り、ゆっくりと革靴を踏み鳴らす。
入って正面、受付と事務机が何十にも並んだオフィス。
「ん?」
突如、天井の冷暖房が作動し、そこから大量の赤い粉が散布されはじめた!
無機質なデスクトップから滑稽な翡翠の置物まで、全てが真っ赤に染まっていく。
無論、シレーナも。
「なに…これは…」
正体はすぐにわかった。
その粉が口に含まれた途端、刺激という情報が脳内を駆けずり回った。
手についた粉末を見て呟いた。
「チリペッパーか!」
嫌な予感が駆け巡った。
◆
一方、三階の物量倉庫で、ジョナサンは笑っていた。
3メートル以上ある高さと、グランツシティの多くの外食店をカバーする食糧を備蓄する巨大空間。
足で業務用のスープ缶を転がし、強化プラスチックのダガーナイフを振り回しながら。
「今頃、あの女は思ってるだろうぜ。また粉塵爆発で自分を吹き飛ばすんじゃないのかってな」
ひび割れた光彩がせせら笑う。
缶を向こうへと蹴り、彼は叫んだ。
「あめぇーんだよ。
チリペッパーを散布したのは、唐辛子の刺激で、お前の眼を壊すためさ。いくらバケモノとはいえ、目をやられりゃあ、手も足も出まい。
パニックになったところで、アイツはやみくもに銃を乱射するだろう。
弾が無くなったところで、このナイフを奴の腹に差し込んでやるのさ」
ジョナサンのダガーナイフが、万遍の笑みと共に鈍く光る。
「へへへ、エマ姉の恨みだ。刺して、刺して、刺して、刺して…飽きたら、内臓と顔をグチャグチャにして、それをヌードルみたいにすすってやるんだ」
「よく喋る奴だな」
声の主に、彼はエクスタシーから我に返る。
正面玄関に向かう扉、そこにもたれかかって彼女が立っていた。
紺の上から仄かに赤く染まったブレザー、そしてワイシャツ。
まるで狂気に血を注いだと、言わんばかりに。
「ど…どうして…」
「言ってなかったな。ワタシは、痛みを感じないんだ…いや、痛覚そのものが存在しないって言った方がいいか」
「じょう…だん…っ!」
「馬鹿な男、ジョナサン。正直に粉じん爆発でも起こしてれば、お前はワタシを仕留められたんだ。
二番煎じを嫌った、お前の負けだ」
ゆっくりと、表情もなく歩き出したシレーナ。
彼女に向けて、トカレフを乱射する!
「く、来るなああああああああああああああああああああああっ!」
やみくもに標的を捉えながら見失う銃弾。
ランウェイを歩く女優のような出で立ちの彼女を、容易に撃てるはずが、その弾は脇にある食糧に撃ちこまれていく。
トマト缶が破裂し、シュガーが袋から溢れ、段ボールから瓶入りタバスコがぶちまけられる。
ジョナサンが描いた殺人風景を、比喩として体現するかのごとく。
「どうした? 標的はここだぞ?」
「……」
手の震えが止まらない。
喉が渇く。
現実を否定するように、首を左右に振りまくる。
ふと、傍に別の扉を見つけた。
考えるより先に体が動く。
ジョナサンは、その扉から倉庫の外へと出た。
階下につながる階段。それを降りると、扉が幾つも並ぶ空間。
そう、食品をトラックに積み込む搬入口だ。
正面に現れた分厚い扉。
この先は冷凍倉庫。食肉や冷凍レトルトを保存する場所だ。
天井から垂れ下がるロープをぐいっと引くと、赤色灯が光り、サイレンがけたたましく鳴りながら、扉が上へとスライドしていく。
垂れ下がる分厚いプラスチックの暖簾。その間から冷気の波を放ちながら。
最後の砦は、ここしかない!
ジョナサンは中に入ると、扉を閉めた。
室内の温度計はマイナス25度。長袖を着込んでも効かない極寒。
それでも、徐々に上がっていく高揚感に、体感温度は温泉並。
彼はトカレフの残弾を数え、再度装填。銃口を扉に向けて構える。
「さあ…来い!」
サイレンが鳴った。
扉が開いてく。
耐えられない重圧に逃げていく冷気。
だが、この男の笑みは悦楽に満ちていた。
まるでピエロ。まんまキラー。
ガコンっっ!
扉が完全にオープン。
だが、相手の姿が見えない。
こちらを待ってるのか。それとも――
「でてこい!」
反応がない。こちらを待ってるのか?
「でてこいっ!」
彼の拳銃は、沈黙を先に撃ち破った。
揺れる暖簾を、弾丸が貫く。
刹那!
「!!」
シレーナ!
笑みを浮かべて、無機質なベールをくぐって現れるは、その手にダガーナイフ。
しかもホンモノの。
振り上げた一撃で、彼の手の甲を切り裂き、トカレフを地面に落とさせた。
だが、彼はひるまない。
痛みなどない、とでも言うように、ナイフで応戦!
シレーナは感じていた。
今までの犯人と、感触が違う!
パラーチのためか、彼女が撃ち込むナイフの誘導線を、全て待ち受け切り裂いてくるのだ。
「くっ!」
一瞬、顔をしかませるシレーナ。
演じられた舞台の如く、互いの刃が計算的美麗の中で打ち合う!
だが――
シレーナの一撃。
人を簡単に刺突できるはずの硬貨プラスチックが、綺麗な断面図を残して、真っ二つ。
見ているものが信じられなかった。
狼狽の隙を見て、シレーナがジョナサンの腹に蹴り。
吹き飛ばされ、冷凍食品の山に突っ込んだときには、既に結果は見えていた。
敏捷さに関しては、シレーナが上をいっていた。
否、全てが早過ぎる。
痛みと眩暈から即座に立ち直ったジョナサンが気付くと、シレーナが飛びかかり、そのまま馬乗りになって彼の喉元に、鋭く綺麗に光るナイフを突き立てていた。
大の字になったまま、そして思春期の少女の臀部の感触を腹部に感じながら、死を待つ。
ジョナサンには、それしかできなかった。




