71 「ナイトメア― シレーナの正体―」
PM10:17
16号埠頭
「どうなってるんだ、これは!」
愛車、グリーンのウィーズマンを降りたアナスタシアは、炎の柱に向かって走り出した。
運河に架かる橋は封鎖され、道路に整列した消防車から、ホースが伸びている。
エマの流れ弾と、それに伴う火災は激しさを増し、既に1区画分の建造物を灰と化していた。
「タカヤ! ハフシ!」
彼女は現場に見慣れた2人を見つけ、話しかける。
「他の連中は?」
ハフシが答える。
「消火作業と情報の収集に奔走しています。このままでは、報道管制が自然消滅するのも時間の問題でしょう。
先ほど、中央区のガーディアン合同庁舎より連絡があり、グランツ・ウィーク所有の報道ヘリが離陸体勢に入ったとのことです」
「チッ。何かにつけて“報道の自由”なんざ抜かす輩が…で、シレーナは?」
次に貴也が
「ジョナサンを追いかけて――」
「というと、奴はまだ、この埠頭に?」
「ええ。横転した救急車に乗ったままとは考えにくいですね。現にエマも出てきていますし」
「彼女の方は?」
彼は口をつぐんだが、すぐに
「シレーナが。遺体は炎の中です…」
そう言って、貴也とアナスタシアは燃え盛る炎の方を見た。
道路脇の街路樹や車は、輪郭となり紅蓮の中に黒く浮かび上がっている。
「アナスタシアさん」
貴也は彼女の名を呼んだ。
本人は彼の方を向いたが、呼んだ方はまだ、炎に目を奪われている。
眉間にしわを寄せて。
「どうしたんだ?」
「さっき…」
これを言うべきか。
貴也は迷った。詮索は嫌悪をもたらすだけだという事は、重々承知。
それでも――
「さっき、死ぬ間際のエマに向けて、シレーナは言ってたんです。“自分には、子宮がない。お前に嫉妬してる”って」
「タカヤ!」とハフシが制止のために名を叫ぶ。
「本当の話なんですか?」
アナスタシアもまた、口をつぐんだ。
でも――
「事実だ」
「事実…それは、病気で? それとも事故?」
「後者さ。正確には事件と言った方が正しいかな。あの子はかつて受けた暴行が原因で、身体の至る個所に激しい損傷を受けたんだ。子宮もその1つだった。
緊急手術で子宮を取り除いた今、シレーナに母性なんてものはない。愛情だとか、敬愛なんてものは彼女には無縁の存在。
そう結論が出ていたが、まさか、エマに嫉妬していたとは…」
「それって、前に言ってた連続殺人や、あの眼とも関係が?」
「ああ。それが――」
その時、アナスタシアの電話が鳴った。
相手の名前を、彼女は受話口に叫んだ。
「シレーナか!」
開口一声、シレーナの声。気丈を装っていたが、微かに震える言の葉に、アナスタシアは不気味な何かを実感した。
「奴が…」
「どうした、シレーナ」
「奴の眼に…パラーチがっ!」
アナスタシアの顔が一瞬で青ざめた。
「どういうことだ! きちんと説明しろ!」
「ジョナサンの眼に、ワタシのものと同じ裂け目ができたんだ! それまでと打って変わって敏捷になりながら、奴は闇の中に消えちまった!」
「どこにいるのか分からないのか?」
「今探してるっ!」
焦燥感にまみれた声は、怒号に変わり、貴也やハフシの耳にまで聞こえる程。
「シレーナ! お前は、今、どこだ!」
荒い息がするだけで、反応がない。
「こりゃあ、まずいな…」
呟いたアナスタシアは、ハフシを見た。
「ハフシ。市警に連絡して、埠頭上空にヘリを飛ばしてくれ。轟音とサーチライトで、地上にいる怪物をあぶりだすんだ!」
「了解!」
その状況に、理解が出来ていないのが貴也だった。
「どういう事ですか! 分かるように説明してください!」
最早、アナスタシアにも躊躇という選択肢を持つ余裕すらなかった。
彼女は即座に答えた。
「あの眼だよ。君がシレーナに見た、あの傷ついた光彩のことさ」
「単なる傷じゃないんですね?」
「―――― パラーチ。
あの“眼”の存在をしる連中は、そう呼んでる代物さ。
ある種の特殊能力みたいなものだ。
“殺人に特化した瞳”…彼女の眼には、相手の人数や急所、武器、行動半径と、そいつがこの後動くルート…そして、自分や相手の銃が描く弾丸の軌道、威力……そんなものが全て視覚的に映し出されているんだ。
それも、相手や弾丸が同じコースを通る、約5秒前にな。
こう言えば、分かるか。
自分の周囲にいる生命体を、確実に抹殺できる“5秒後の世界の姿”が濁流の如く、シレーナの眼や脳に流れ込んでいる、と」
「そんなバカな!
じゃあ、シレーナの傷ついた眼は、未来を予測しているってことですか!?」
「信じられないだろうが、そういうことだ。
裸眼の彼女の見る世界は、既に定められた“死の運命”であり、人は彼女が視る“世界”から逃れられない。
更にシレーナは別個に、人を殺すための技術を十二分に習得し保有している上、長年の大量殺人による反動で、人殺しをやめられない」
「……」
貴也は言葉を失った。
「人を殺す技術と、人殺しに特化した最強の瞳。
2つの強大な力を支える殺人願望。
それが都市伝説となった処刑者シレーナ・コルデー……コードネーム“スマイル”を構成する真の姿であり、我々警察と教科省が動かす、殺人許可システムの根幹だ」
「そんな…あの子が……殺人マシーンだなんて…」
「君が彼女の手から生還したのが、どれだけの幸運か、理解できただろう。サホガワタカヤ」
「これは…夢なのか?」
アナスタシアは首を振った。
「いいや。これは現実だよ。もし夢ならば、それは…醒めることのない悪夢」
「……」
「ようこそ。こちら側の世界へ」




