70 「瞳…」
空が真っ赤に染まり、サイレンが運河を越えてやってくる。
炎が倉庫に、車に次々と延焼していく。
止まる気配もない。
まるで、1992年4月29日のロサンゼルスを再現するかのよう。
異常を見上げる者はいない。
ただ1人、車のいない道路を歩く、群青の瞳の少女を除いて。
彼女は探す。まるで野犬の如く。
その標的を。
「出てこいよ」
突如足を止めたシレーナが、暗がりに向かって叫んだ。
目線の先には、寂れたコンテナが数個。人など、いる気配すら感じ取れない。
「ふん。“ダーク・ゾーン”か…息を殺しても無駄だぜ。お前からは漂いすぎてる。死肉と動脈の心地よすぎるにおいがね」
瞬間、コンテナがギイーと、聞き苦しい音を立てて開かれた。
中からは全身に傷を負い、手にトカレフを握ったジョナサンの姿。
瞳はすでに、光を失っている。
「流石だね。ガーディアンにも優秀な人はいたんだぁ」
「お世辞なら、口を閉じな」
「いいや。むしろ嬉しいんだ。あの時感じていたものが本当だったってことが証明されたんだ!」
はしゃぐ子供のように、それでも感情を殺して淡々と述べる。
「証明?」
「水瓶市場でエマ姉と闘っていたとき、僕は気付いたんだ。僕たちと同じ種類のニンゲンだって…いいや。僕だ。君は僕なんだ」
「……」
シレーナは黙った。
「世間は、よく、こう言うだろ? ニンゲンはそれぞれの“匂い”を持ってて、自分と“同じ匂い”に魅かれるんだ、って。
君からも、僕と同じ匂いがした。暴力と正義と食人の匂い……」
「……」
「君もそうなんだろ? 皆から虐げられて、意味なく殴られ蹴られ、飢えをしのぐために人を食べた。それでも他の人にはない“正義”を持ってる」
彼は高らかに続けた。
「正直驚いたよ。こんなに匂いが一緒の人間がこの世にいただなんて。僕は震えが――」
「高説はもういいよ。何が言いたい?」
シレーナが手を振りながら言葉を遮ると、ジョナサンの顔から表情が消えた。
「死んでくれないかな?」
「どういう意味だ?」
「同族嫌悪ってやつかな。いままでなら、自分と正反対のガキだけヤッてたんだけど、どういう訳だか、君からはガキと同じような吐き気も覚えたんだ。殺したいくらいにね。
俺が痛めつけてあげたガキ共は、全員、幸せそうだった。家族とも仲が良かったし、笑顔が絶えていなかった」
「痛めつけてあげた?」
「そうさ。今は幸せなあいつらも、いつかは俺みたいに奈落の底に落ちる。ならば、落ちる前に奈落の怖さを知っておけば、落ちた時になんも痛みを感じなくなる…優しいだろ?俺って」
「それが…お前の垂れる“正義”…か」
「ガキなら、理由をつけて連れ去って、ボコボコに出来たが…君はそうはいかない」
「…やはり、チイのプロファイリングは間違っていなかった」
「でも、今なら好都合だ。誰も邪魔できない…ここで、お前を殺れる」
彼の持つトカレフが動いた時。
「1つだけ聞く」
エリスが口を開いた。
「なんだい?」
「エマは、君の遊びにどこまで付き合った?」
「ひどいなぁ。エマ姉と俺は一蓮托生。俺がピンチになったら、エマ姉が助けてくれた。倉庫のガキもそうだった。あのガキを興奮して殴り倒したところを、ガキの妹に見られちまってなぁ…エマ姉がすぐに捕まえて絞め殺してくれたよ。
死ぬ前に聞いた話じゃあ、友達の家から帰るところだったらしいぜ」
「事故に見せかけたのも、エマ?」
「頭いいだろ? すぐにばれちゃったけど、無能な市警だけが捜査していたら、永遠に全部が謎のままさ。
…さあて、もう質問はないか?」
「ええ」
そう言って、シレーナはクーナンのセーフティーを降ろした。
「これで、心置きなく、お前を処刑できる」
「処刑? ただのガーディアンが私刑かよ」
「死ぬ前に、いいことおしえてやるよ。アンタの前にいるのはね、ただのガーディアンじゃないんだよ…人殺しのできるガーディアンさ」
「それって…」
ジョナサンは狼狽した。
眼前に立っている少女が、彼にはもはや死神にしか見えていなかったからだ。
それでも、正気を保ちながら最後の足掻きに出た。
「フッ…なにかと思えば、つまらない噂話じゃないか。それが脅しのつもりか?
まあ、いいさ。その資格があるかどうか見極めてやるよ。どうせ、エマ姉が追いついたら、それまで――」
「彼女は来ないさ?」
一番胸にささる一言。
ジョナサンは、最悪な結末を逃避に回していきがり続けた。
「ま、まさか。エマ姉は、ずっと俺の傍にいてくれる。いままでも、これからも…そ、そんなに先に行くはずがない!」
トドメの一撃は、シレーナが無言で加えた。
クーナンのトリガーから指を外し、左手を空に掲げた。
彼は絶望に打ちひしがれた。
「うそだ…うそだ…」
クーナンの銃口には、エマの子宮を撃ち抜いた時の返り血が付いていた。
「彼女は“OK牧場の決斗”に敗れた」
「うそだ…そんな…」
「そして、せめてもの弔いに、彼女の身体を綺麗にしてやった」
「嘘だああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
虚空の断末魔が、轟音の火災をも切り裂いた。
否、切り裂いたのは空間だけではない。
突然の悲報に打ちのめされたジョナサンは、耳を塞いでしゃがみ込んだ。
その手で、その爪を、深く自らの耳に食い込ませて。
嗚咽、歯ぎしりは痛みによるものか。その手からどくどくと流れ出る真紅の液体は、暗黒の路面に垂れ落ちて――。
「叫んでも、何も変わらないさ。アンタの好きなお姉ちゃんは、とっくに向こう側に行ってたのさ」
「…っ……」
「ジョナサン・バイン。連続児童暴行殺人事件の第一級容疑者として、死刑を執行する。
恐れなくていい。悲しまなくていい…少しだけ早く、お前に“夕暮れ”がやってきた――」
次の瞬間、ゆっくりと立ち上がったジョナサン。
血まみれの手を放し、仁王立ち。
そして、開かれた眼に――
「おまえ…それ…」
動揺していた。
あの、シレーナが。眼鏡をしていないシレーナが…。
だが、気が付いた時、ジョナサンはそこにいなかった。
突然飛び上がり、シレーナの頭上を越え、再び夜の闇に消えた。
「どうして…」
まだ、動揺が収まらない。
視点が定まらない。
瞳孔が揺れている。
「どうして…奴の眼に……“パラーチ”が!?」
無理はない。
ジョナサンの眼に、それまでなかったものが現れたのだから。
切子硝子のように、光彩を切り裂く幾重もの亀裂。
それは、シレーナにだけしかないはずの――死の紋章だった!




