62 「全ては遅く」
夜の闇に佇む洋風の一軒家。
明かりは灯っているのに、静寂が全てを包み込んでいる。
人の話し声どころか、テレビやキッチンの音も。
どこかに出かけているのだろうか。否、家の横には自転車が2台に、白いプジョー。
周囲には人家が点在しているが、コンビニやスーパーといった類の店は見当たらない。徒歩でどこかに行くのは困難だろう。
事実、この家に人はいる。若い夫婦がつつましく住んでいる。
しかし――今、この家にいるのは、2人と全く関係ない兄妹。
◆
その少女はテーブルの上に並んだ手作り料理を、次々と取り上げていく。
デミグラスのハンバーグにツナサラダ、バケット、スープ。
それを次々にミキサーの中へとぶち込んでいく。
「これで、よしっと…そっちはどう? 弟君」
まるで、幸せな一時を楽しんでいるかのように、呼びかけられた少年は答えた。
リビングの向こう、廊下で何かを引きずりながら。
「うん。大丈夫だよ」
「重たくない?」
「へーき」
彼が引きずっているのが、喉仏と眉間に包丁を突き立てられ絶命している若い男であることを見れば、それが異常な事態であることはお分かりいただけるだろう。
この2人こそ、今や警察の厄介者。グランツシティのボニーとクライド。
ジョナサンとエマ。
ジョナサンが死体の髪の毛を掴んで引きずった先は、バスルーム。
そこには同様に目を見開き、心臓にナイフが刺さった若い女性の死体。
鮮血が速乾を謳い文句とする床を、ツーと流れていく。
2人は、この家に住む夫婦を瞬時に殺害したのだ。男の方は血が噴き出さない程深く、刃物を突き入れて。
川の字に横たえられた遺体に、ジョナサンは数時間前をフラッシュバックせずにはいられなかった。
後頭部に銃口を向けたエクスタシー。
自分にしたことと、同じことを仕返した優越感。
母への復讐を遂げた達成感。
喉を通った米、ケチャップ、肉…肉、肉、肉、ニク、ニク!
◆
「弟君?」
愛する少年が戻ってこないことに疑問を抱いたエマ。
彼女は、家の住人が食すであろうものだった夕餉をかき混ぜた、流動食のようなものをテーブルに置いて、廊下に出た。
クチャ…クチャ…
水気を帯びた効果音が、ほんのりと明るい廊下にこだましていた。
フローリングの上を、恐る恐る―と言うのは、結末を知っている作者の視点でしかないか ―否、ゆっくりとその方へ足を向けていく。
ピチャ…クチャ…
音は風呂場から。
そこにいるのはジョナサンと、2体の亡骸。
でも、水を使う音じゃない。
「弟君? 入るよ?」
ドアを開けて、彼女が見たものは――。
「弟君…なにやって…」
「ああ。エマ姉」
眠たそうな目で振り返った血まみれの姿に、エマは口を隠し後ずさりするしかない。
彼は童心に…童心の頃焼きついた、あの景色を再現していたのだ。
女性の胸に刺さっていたナイフ。
それを手にジョナサンは、狭い風呂場に「ナース・キラー」さながらの惨状を展開していた!
夫婦の遺体は、最早遺体と呼べるか曖昧な程に損壊され、腹部にあたる部位は、黒く大きな穴を晒し、そこから図鑑でしか見ることのない、ゾウキと呼ばれるものがむき出し、いや、引きずり出されている。
そして、それらゾウキには、何者かがかみついた跡。
ジョナサンの口もまた、ピエロの化粧という比喩すら生ぬるい程、真っ赤に染めあがって――。
「まさか…食べたの…!!」
「驚かないでよ。エマ姉…だって、子供の頃に一回やったことだよ?」
彼が立ち上がると、ベチャっと何かが床に打ち付けられた。
男性の手首だった。
「以前、ネットカフェで自分の事件を調べた、って言っただろ? その時、俺は人を喰ったっていう記事も見つけたんだ。
ゴシップだって最初は思った。
でもね、断片的に変な味覚が蘇ってきたんだ。それも、あの忌々しい偽物の父親に罵られる度に。
本物の父親を殺したら、その味覚の正体も分かるのかなって思った。
でも、アイツは勝手に死んだ。何も確かめられなかった」
「…やめて」
「エマ姉と一緒に、子供たちを“未来の絶望”から助けてあげるために、何人も何人も痛めつけた。痛めつけて、ご飯をたくさん食べた。
それでも、分からなかった。
するとね…だんだん声がするようになったんだ。誰のものなのか分からない声が。
老人の声と、何かをクラエって声。
イライラした。
とても。
それがね…今、やっと消えたんだ」
「…やめて」
ジョナサンは、どちらのモノなのか分からないゾウキを取り上げて、恍惚の表情を浮かべる。
「これだったんだ。これだったんだよ。
臭くて、濡れてて、塩辛くて、で…そんで……あったかい――僕はね、お腹が空いていたんだ」
エマは涙を流した。
長く流したことのない涙。
愛すべき人が今、自分の前でゾウキを頬張ってる。
スイカでも食べるようにむしゃぶりついて。
「もうやめてっ!」
頭より早く体が動いた。
彼女は血まみれのジョナサンを抱きしめる。
大粒の涙を流して。
「もうやめてっ! そんな弟君、お姉ちゃん、見たくない」
「どうして泣いてるの? エマ姉…エマ姉は食べたりしないよ」
「分かってる! 分かってるけどっ!」
彼女は分かっていた。
愛する人は、もう壊れている、と。
崩壊を止められない事を。
混乱しながらも、それだけは分かっていた。
初めてジョナサンの遭難事件、その食人記事を見てから、疑惑は持ち続けていた。
それが晴れるのならと、自分の私的復讐も兼ねて、父親殺害を持ち込んだ。
失敗すると、子供たちの襲撃を計画した。
明るい家庭の子どもたちが、将来、自分たちのように破綻するのを防ぐため。
彼らを守るために彼らを傷つける。
それは、建前で、本当はジョナサンが、自分の過去のスイッチが入らないように、人を傷つけることで、それを忘却してくれることを願って、手を黒く染めた。
要は「お腹が空かないように」
でも、出来なかった。
あの倉庫で彼が男の子を撲殺し、その一部始終を見られた妹を絞殺して、交通事故に見せかけて遺体を処理した日から、彼は食事の後、顔が険しくなった。
日に日に。
警察が、ガーディアンが自分達を追いかけていると知ってからは、段々激しく。
そして…今…。
それでも…それでも、進む崩壊を止められるのか。
愛する人を守ることができるのか。
この空腹を、どれだけの命をもって癒してあげられるのか。
「弟君を守れるのは私だけ」
エマはギュッと、彼を両手で抱きしめる。
息をするだけの少年を。
「エマ…ねえ…」
声に温もりが戻ってきた。
「行こう。2人で…誰も邪魔できない、スプリング・フィールドに!」
もう後戻りはできない。
彼女の瞳が闇に浸かった――。




