60 「少女の秘密―グレイプニルへの不信―」
市警の警察官大展開キャンペーンの努力むなしく、追っていたポルシェ ケイマンSは隣のコデッサ区西部で発見された。
それも、大胆な場所で――。
グランツシティ北区から東へ、グランツ湾に沿って走る国鉄港湾東線と、中央区から北へと伸びる私鉄SCR― スター・セントラル・ライン―が乗り入れるターミナル コデッサ南駅近くにある立体駐車場。
近くにはオフィスビルと私鉄資本の商業ビル、そして市立コデッサ中等学園もある、四六時中人の多い場所。
午後5時。
その屋上に、ドアが開けっぱなしの、不審な自動車が放置されていると警備員から通報が入ったのだ。
警察が駆けつけ、ナンバーから手配中の車であることが判明。
ポルシェは駐車スペースを乱雑にはみ出す形で停車、タイヤは全て空気を抜かれ、車内にはニスのようなオイルが撒かれていた。
計器も鉄パイプか何かで殴打したようで、配線やパネルがむき出しになっている。
証拠隠滅を図ったのは明らかだった。
直ちに捜査本部は、立体駐車場を中心に半径2キロ圏内の防犯カメラを確認するよう、捜査員に指示。
また鉄道公安隊にも2人の写真を配布。2路線全ての駅と、コデッサ南駅を午後5時以前に出発した電車を、くまなく捜索するよう協力を要請した。
捜査網は広く大胆になるものの、それでも2人の行方はようとして知れず、ただ陽が沈んでいくだけであった――。
◆
1時間後。
ダーダネスト・バローダ区5丁目
ジョナサンによって仕掛けられた爆弾による住宅火災は、ようやく鎮火した。
狭い道路を消防車7台が埋め尽くす大騒ぎ。
地井が助かったこと、住宅が密集している区内で大規模火災を防げたことはよかった。だが、大切な物証が消えてしまっては、元も子もない。
無論、シレーナはそう思っていない訳で。
ようやく消防士の許可を得て、警察鑑識課と捜査関係者、そして消防庁の火災調査チームが焼けた住宅へと入っていった。
全てが焼け焦げた住居は、放水の水が滴り落ち、煤の臭いが鼻につく不快な空間だった。
炎が激しかった2階は完全に消失してしまってはいたが、1階は燃えずに助かった箇所がいくつかある。
それでも、先述したとおり放水で全てが水没、証拠が出てくるのは望み薄だった。
シレーナは臨場してすぐ、バスルームへと向かった。
そこは幸いにも、火災の影響を免れていたのだ。
「よし」
そう言うと、シレーナは鑑識係と協力して、バスタブに沈んでいたノートパソコン、スマートフォン、紙資料の類を全部引き揚げ始めた。
無論、水を吸いつくし、復元不能な用紙も多数あったが…。
それでも、フォルダやクリアファイルごと浴槽に投入したものが多数あり、手がかりや証拠をつかむには充分であった。
貴也がエルと共に黄色いパッカードで現場に到着したときには、全ての引き揚げ作業が終わり、証拠資料が科捜研へと運ばれていくところであった。
市警のパトカーにもたれかかる彼女に、2人は走り寄った。
開口一声、貴也がシレーナに。
「地井の容体は? ハフシやサンドラから連絡が来ないから…」
「本部への連絡を失念しているのね。さっき、ラルーク綜合病院に搬送されたわ。命に別状はないようだけど、脳震盪を起こしていて意識はまだ戻ってない」
無事。そのことに、貴也は胸を撫で下ろした。
「事態の詳細はミスター・イナミから聞いたよ。危ないところだったな」
次いでエルが口を開くと
「チイと言うより、ここに駆け付けた警察官を爆殺するのが目的だったように思えるわね」
「この爆発がかい?」
3人は黒焦げになった住宅を見上げ、シレーナが続ける。
「彼女は2人のアジトを、そして現在の姿を知る唯一の警察関係者。変わり身を用意してまで逃げるような奴よ。口封じをして安全を確保するのがセオリー通りってものよね」
「残酷だけど、確かに…」
貴也も頷く。そこは、シレーナの言うとおりだ。
主犯のジョナサンは自分の背格好と似た同性の学生を殺害し、愛車に乗せて火を放ったのだ。
義父に自分は死んだと見せかけるために。
そして、その義父と実母を殺害するために。
そこまで用意周到な人物ならば、自分の計画を守るために、アジトを知られた地井を、すぐにでも殺すはず。
爆弾を使わなくても、力が弱く傷を負っている女の子なら、首を絞めるだけでも簡単に命を奪える。
なのに、半日もアジトに監禁し、その上時限式の爆弾まで用意するまわりくどさ。
まわりくどさと言えば、先述のポルシェもそうだ。
内部を丁寧に工作して車を放置している。
家を吹き飛ばした爆弾を、ポルシェに仕掛ければ、その手間が省けると言うのに、だ。
そこまでして地井を手負いのまま生かし、証拠隠滅に使用できる爆弾を、あえてアジトに仕掛けた理由。
考えられるのは、地井の殺害以外に別の目的があった、という事になる。
「恐らくチイは、かつて補導したエマを偶然目撃して追跡し、このアジトに辿りついた」
「でも、そこでエマ…もしくはジョナサンに襲われてしまった」
「その時、エマはチイが愛車のサモエドで自分を追跡し、その車を近くに置いていることを知っていたんでしょう。不覚にも、彼女の尾行はばれていたってこと。
それを聞いて、ジョナサンは、ある計画を立てた。
自分がトンプソン邸を襲撃し、車で逃走すれば、警察とガーディアンは、市内の不審車両を徹底的にマークする。その段階で、地井の車が発見されれば、捜査官はこの辺りを捜索しアジトに辿りつく。
地井を救出し、本部から応援を呼び、風呂場以外にも証拠がないか捜査を始める。
その、どれかの段階で爆弾がさく裂すれば――」
「警察を混乱に陥れられる。それに乗じて、市外にでも逃げる算段…そう、シレーナは考えたのか」
エルの言葉に、彼女は頷いた。
が、貴也は言う。
「でも、仮に俺たちがアジトに辿りつく前に爆弾が爆発していたらどうするんだ? 警察官もガーディアンも殺せないよ」
「殺せなくてもいいのよ」
「え?」
「身元不明の死体が出れば、警察はDNA鑑定を行うわ。それも、いつも以上に慎重にね。
市警にとっても、今朝の二の舞にでもなれば、今度こそ警察の信頼は地に落ちる。それを避けるためにね。
それまでは警察は犯人自殺と、地井死亡の2つの線で捜査を行う。前者となれば、市警は広域捜査網をある程度まで縮小する。その隙をついて逃亡できるわ。
逃亡以外にも、アジトごとの証拠隠滅、警察関係者の死による市警とガーディアンへのけん制ってメリットもある」
「そうか…警察が踏み込もうが、遅れようが、犯人には好都合だったって訳か」
「あくまで推測だけどね」
だが、問題は――エルがシレーナに、そのことを伝えた。向こうも知っていると承知で。
「だが、推測が事実だとして、皆殺し計画はとん挫したわけだ。群青の女神によってな」
「そんな上品なもんじゃないわよ」
「相手は、どう出る?」
「さあ。でも、まだ市内にいるのは確かね。
ターミナル駅前に車を捨て、電車で市外に逃げた…そう見せかけるために、人目につきやすく、且つ発見が遅れにくい場所にポルシェを捨てたに違いない」
「その心は?」
「捜査の眼を広域に拡大させ、足元をおろそかにさせるためよ。恐怖や不安の中にも、絶対に隙は生まれる。そこを突こうとしてるのよ。
これだけ大きな騒ぎになれば尚更――」
刹那。
ガーシュインのラプソディ・イン・ブルーが、シレーナのスマートフォンから流れる。
それが何を意味するか、彼女には分かった。
表情を硬く、その右手を耳元に向けて。
「シレーナ」
電話の向こうの声は、冷淡に彼女の耳へ、あの言葉をささやいた。
全てを打ち砕く、あのワード。
「“テミス”より“スマイル”。“アルカナ15のグレイプニルを解き放て”。繰り返す、“アルカナ15のグレイプニルを解き放て”」
しかし――。
「……」
少女は無言。何も答えない。
――スマイル…どうした、返事をしろ。
ゆっくりと眼鏡を外したシレーナは、貴也とエルから遠ざかりながら、電話の相手に問う。
鋭い眼光を向け、幾重にも路上に絡まる消防ホースを跨ぎながら。
「1つだけ確認させろ」
――なんだ。
「コイツは誰のための解放だ?」
――無論、一般市民のためだ。犯人に命を狙われている全ての人間を救済するため。
「その世迷いごとは本音か? それとも建前か?」
――何の話だね?
「とぼけるな。
トンプソン邸で殺されたレオン・マグニコフは、経済省とつながりの深い人間だ。現にIT専門の経団連設立の先頭に立っていたのも彼だし、現役時代、取締役をやっていたパストーラ・インターフェーズは、警察庁や国防省とも水面下で繋がっている企業の1つ。
“ウラノス”が…いや、全てを決める“ヘスティアーマ”の連中が、この事を黙殺するとは到底思えないからな。だから聞いたのさ、コイツは私怨を晴らすための、単なる茶番劇なのかってね」
――そんなのは、ただの都市伝説だ。お前と同じな。
「どうかな。ワタシは自分の存在を殺人行為を媒介にしてでしか証明できないが、こうして存在し、お前と話し、お前は存在不確実と言い切った相手に、処刑の指令を出している。
これが幻聴だと言うのなら、今すぐ電話を切って病院へ行くことだ」
――御託を並べるのが上手くなったな。
「それは、褒め言葉ですか?」
――どう取ってもらっても構わん。
そして、相手は改めてシレーナに言い渡した。
――“アルカナ15のグレイプニルを解き放て”。これが、お前がすべき義務であり宿命なんだ。
「…ヤー」
吹雪のように冷淡な返しと共に、彼女は通話を終え、その足で入り混じる消防車の影の中へと消えていくのだった。
◆
「とうとう、出ちまったか」
その一方で、エルは遠くにいるシレーナを臨みながら呟いていた。
貴也には、それが何を指すのか、すぐに理解した。
“瞬間”を目撃した人間として――。
「殺すんですか…犯人を」
「そのようだな」
「どうして、シレーナなんですか? どうして、彼女は人を殺すんです?
既に…既に……人を殺しているから…ですか?」
貴也はアナスタシアから聞いた情報を交えて、恐る恐る問うた。
しかし、エルは驚愕することなく、首を横に振った。
「彼女は確かに、殺人を許された唯一のガーディアンだ。でもな、それにはいくつかの語弊があるんだ」
「語弊…ですか?」
「ああ、そうだ。第一に、彼女は殺人を許されてはいるが、それは限定的なものだ。誰彼かまわず殺しても文句は言われないって免罪符じゃない。むしろ、束縛のための首輪なんだ。
シレーナが許された殺人ってのはな、罪を犯した者のみに発動される限定的殺人…いや、簡単に言えば処刑だな。
法の裁きを下すより前に、物理的に裁きを下し、その命で罪を贖わせる。
罪人の処刑執行を許された学生捜査官…それがシレーナの正体なのさ」
「処刑執行を許す…それじゃあ!」
貴也の驚愕に、エルは言い放つ。
「気付いたな。そう、彼女に殺人許可証を発行し、処刑を行わせているのは他でもない。此の国の治安維持機構であり、そこに関係する行政機関。
警察庁、国防省、教科省、法務省、内務省、外務省……最早、此の国の政府そのものが、シレーナを動かしていると言ってもいいくらいだ。
異常犯罪が横行し、そいつが“普通”と皆は捉えて自分を守る。全てが崩壊へと徐々に加速し始めている事すら、見て見ぬふりをしてまでもね。
その崩壊を防ぐ手段。その根幹にシレーナ・コルデーを置いたのさ」
それでも貴也に分からないのは、どうしてそれがシレーナなのか、という事だ。
誰かを国の支配下に置いて、現在のアンバランスな均衡を守ると言うのなら、何も未成年の少女にさせなくても適任はいくらでもある。
どこかのアニメやライトノベルのように、公安警察やレンジャー部隊のような、隠密作戦に特化した大多数のオトナを用意すればいい。
連続殺人鬼や死刑囚を、拘束付きで動かせばいい。未だに死刑が執行されていない猟奇犯や元マフィアは大勢いる。
それでも少女を死刑執行人として動かす。その意味とはなんなのか。
鍛錬された警察官でも、殺人に慣れた死刑囚でもなく、群青の瞳の少女だったのか――。
「その理由か…」
エルは言葉を詰まらせたが、何かを決心したのか、一息吐いて口を重く。
「それがシレーナ・コルデーという少女の大きな秘密でもあり、犯罪者執行システムの大きな秘密でもあるんだが…君は、彼女の瞳を見た生還者だ。これくらい話しても構わんだろう」
夕陽は沈んだ。
全てを照らすものが、緊急自動車のランプだけになった街角で、青年は新参者に告白する。
「シレーナはその中に、システムを構築するに十分すぎる全てを内包しているんだ。
犯罪、武器、人体、攻撃方法…人の生死に関する、ありとあらゆる膨大な知識と技術。そして、どんな事態にも動じず迅速に応対できる精神力と体力、瞬発力――」
「それは、彼女が犯した大量殺人が由来の?」
「ああ。正確には“植え付けられたもの”なんだが、それは今は言えない。
だが、それらは表面的なもので、シレーナが執行人となった本当の理由にはならない」
「じゃあ、本当の理由ってなんなんですか!」
「君は見たんだろ、あの瞳を。そして聞いてるだろ? メガネをはずすと口調が変わるのを」
そう。それこそ、根幹。
「“殺人に特化した瞳”……シレーナ・コルデーという少女の最大の武器であり、執行システム最大の秘密さ」
「あの瞳が…そんな…」
人を殺す――それだけのために、彼女は生まれてきたとでも言うのか!




