58 「黄昏の告白」
現地時刻 AM10:10
イタリア・トスカーナ州 フィレンツェ
ここは言わずも世界中に知られた街の1つだろう。
かつて名家、メディチが統治し、イタリア・ルネサンスの中心地ともなった芸術と文化の都。
オレンジ屋根と白い塔が印象的なゴシック、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂が街の中心部に鎮座し、その傍に建つ、大聖堂に引けを取らない時計付きの鐘楼は、つい最近レオナルド・ダ・ヴィンチの名画が発掘された市庁舎、ヴェッキオ宮殿。
更にそこから歩いてすぐの場所に、「ヴィーナスの誕生」や「受胎告知」を展示するウフィッイ美術館、宝石店のある二階建て家屋が並ぶヴェッキオ橋といった、観光名所がひしめく。
そんな観光名所、もとよりフィレンツェの街全体を見渡せる小高い丘が、街の外側に位置する。
置かれている銅像の名から通称を「ダビデの丘」とも呼ばれるこの場所からの写真は、読者の皆さんも、書籍や教科書等でご覧になったこともあるだろう。
今日も観光客が溢れ、各国の言語が飛び交い、絵や写真を売る商人が腰を下ろして隣とおしゃべりを楽しむ、もしくは黙々と絵画を模写する昼下がり。
この男だけは、眼前の風景を背に、携帯電話を耳に当てていた。
「商談は成功だよ。カメルーンとギリシャの民間軍事会社が、増強ユニットの購入を決定してくれたし、新しい秘書も、こないだのポンコツよりも有能だ。
だが、ああいった軍事展覧会は私は嫌いだよ。誰も彼もがガキみたいに、偉そうで無知な雰囲気をばら撒いているからな。
日本人の名語録に“お客様は神様”ってやつがあるが、正にそれだ。連中は神を気取ってやがる。恐怖って虎の威を借りたろくでもない神様だ」
そう語る背広の若い男。
30代後半くらいだろうか。顔立ちは西洋人のそれで凛々しく、それでいていわゆる“ハンサム”の部類だ。
かれこそ、シグマ・インターナショナル社長、シグマ・プールド・ハット。
名語録の主らしき人物を横目で見ながら鼻で笑う。
新婚だろうか。日本語を喋るカップルが、街を背にスマートフォンで相合な写真を連射していた。
「平和な連中だ…ん? ただの独り言だ。
最後の1社の商談も、さっき終わったから、予定通り、夕方の飛行機でそっちに帰る。
これから列車でミラノだ。全く、骨が折れる」
すると、シグマはフィレンツェの町並みを傍観しながら、笑みを浮かべた。
「さて、こんな私を癒してくれるものと言ったら、彼女の話だ。
…ああ。デカメロンより荘厳で官能的な一夜物語さ」
暫く、彼は口をつぐみ、青空の下に広がる茶色い風景を眺め始めた。
周りをとりまく、様々な言語もアウト・オブ。
「そうか。相手は…いや、手を出すな」
シグマは、電話の向こうの相手に言うが、相手はその口元に浮かぶ笑みは読み取れまい。
「目に見えているが、面白いカードじゃないか。
もしスリーカードが、ロイヤルフラッシュに勝つようなことがあれば、全ての計画が無駄に終わる。
そんなことがあるか。いいや、絶対にない。
ここは傍観といこう。セルリアン・スマイルの道程のために……」
冷たく不意に吹く風は、木の葉を舞い上げ、風情ある街区を背景に吸い込まれる。
雲一つない、セルリアンな空へ。
◆
「シレーナ!」
一方、ゼアミ分署屋上。
貴也が屋内へ続く階段のドアを開けると、そこにはシレーナとアナスタシアの姿。
「どうしたの?」
素っ気なく、いつものように答えたシレーナに、貴也は緊張の色を隠せない。
「バローダ分署から連絡があって、地井のサモエドが路上に放置されているのが発見されたそうなんだ」
「それって、彼女が勝手に――」
「昼前から、ずうっと…そこに乱雑に停まったまま…だとしたら?」
シレーナも顔色が変わった。
彼女は、エマの事は知ってても、ジョナサンに関する情報は一切知らないに等しい。
まさか……。
「どこ!」
「ダーダネスト・バローダ区7丁目の路上だ。ハフシとサンドラが先に向かったよ」
「了解!」
シレーナは貴也を置いて飛び出そうとする。
「待ってくれ、一緒に――」
「お前はここで、奴の行方を追え!」
目も合わせず。
制止したのは、やはりこの女性。
名前を呼ばれ、少女は振り返った。
「既に報告しているが、遺棄された嬰児がエマと、血のつながった父親との間に産み落とされたものだと分かった。
いや、それだけじゃない。
兄妹殺害現場と朱天区殺害現場から、エマのものと同一のDNAが検出された」
「エマも、一連の殺人に関与していると?
アナスタシア、どの遺体も損傷はかなり激しかった。男性の犯行とみて間違いはないはずだろ?」
「カロン・リーは扼殺だ。首を絞めるくらいなら女性にもできる…我が子を産み殺した母親に、そんなことができる体力があるかどうかは未知数だがな」
シレーナは言い放つ。
「体力? そんなものは必要じゃない。本能のままに動く…ただの獣さ。獣を止める方法は1つ」
「お前が“グレイプニル”を自分から求めるか…」
「私が求めなくても、上は絶対処刑を言い渡すさ」
「……」
無言となったアナスタシアを置き、歩みを一歩。
「シレーナ…冷静にな」
答えることなく扉が閉められる。
彼女がいなくなったのを確認するかのように、周囲を見回すと、貴也はアナスタシアに問うた。
「シレーナに、何かあったんですか?」
「何かって言うと?」
「彼女、さっきから変なんですよ…さっきからというか、この事件を調べ始めて…それが進行していくのと比例して…」
彼も正直、言葉に困った。
どう表現すればいいのか、分からなかった。
分からないのか、それとも、自分の脳内が、その言葉を拒否しているのか。
でも、何のため。
その中で、貴也は言葉を選んで説明していくしかない。
「そう…殺気…殺気のようなものを匂わせていくんです。雰囲気だけじゃなくて、口からでる単語も、ハンドルを握る手も…眼鏡の向こう側も…」
「殺気、ねぇ」
「それに、今さっきも、“ジョナサンはまるで、昔の自分と同じだ”だとか、意味の分からない事を言ってて。
教えてください、アナスタシアさん! シレーナに一体、何があったって言うんですか!
あの眼と、何か関係があるんですか?」
迫る彼に、アナスタシアは言葉を詰まらせた。
それは、彼女の表面的な秘密を知っていたとしても、その最深、政府級の最重要極秘情報にもつながる彼女のエピソードを、M班の新米たる彼に話していいものだろうか、と。
そのショックは、計り知れない――だろうか。
「……」
彼女の口が、封印を解くまでに、そう時間はかからなかった。
「そうね。M班の大半が…といっても、そこまで詳しく知ってるのは2人、ないし3人しかいないけど…あなたにも話しておいた方がいいのかもね」
「アナスタシアさん?」
「詳しいことは、後日改めて話すとして、今から話す事は、警察やガーディアンでも極秘に近い事項だ。絶対に他言は無用。それを心得てくれ」
「極秘? …ですか?」
驚く貴也。
頷きで返した回答に、言葉での追い打ち!
「そう、今の彼女は、無秩序に且つ計画的に、人を傷つけ殺していくジョナサンの姿に、自分の過去を投影しているに違いない。
それは彼女にとって、自分の存在を脅かすもの。
例えジョナサンに死刑執行が言い渡されなくとも、彼女は自分の意志で奴を殺すだろう。
どっちの“わたし”が動くのか分からないけど」
「い、意味が分からないんですが……」
アナスタシアは、貴也と向き合い、険しい目で言った。
「タカヤ。シレーナはね、昔……人を殺しているんだ」
「えっ」
「君が彼女の存在を知るずっと前、彼女は人間を殺した。
それも1人2人じゃない。警察が把握しているだけで、48人は殺してる。
男、女、子供、老人――武器の有無すら関係なく、ただ、そこにある命をね」
「…そ、そんな」
「信じられないと思うが事実だ。紛れもなく、後味の悪い、な。
ジョナサンがそうなったように…いいや、その上を行く、犯罪史上類を見ない、最も可憐で、幼く、悲劇的で猟奇的な大量殺人犯。
それが君のバディ、シレーナ・コルデーの正体さ」
「う、嘘だ……シレーナが…殺人鬼!?」
黄昏は萌え、その空は、すっぽりと自分の全てを開けてしまった貴也の殻を吸い込まんと、雲の隙間から待ち構えているようであった。




