56 「疾走」
住宅街を抜け、エミリアの駆る、黒いメルセデスベンツ AMG GTは、2車線の生活道路に。
そこで、ようやく標的を捉えた。
「みつけた!」
赤のポルシェ ケイマンS。
とうとう殺人鬼に成り果てた少年 ジョナサン・バーンが乗る車だ。
速度を上げ、AMGがケイマンの背後を取る。
グルナ区を北に、尚も走り続ける。
サイレンも警告もない。そのスピードから、一般車が避ける隙すらない。
一瞬の判断ミスが、即事故につながる。
危険な追いかけっこに、関係のない人間を巻きこめない。
眼前に3車線の道路と合流する丁字路。
この先には丘陵部があり、ここに建立するのが聖トラファルガー医大。
信号は赤。
真紅の跳ね馬はフットブレーキをかましながら、停車する車列を抜け強引に右折。
一台、また一台と急ブレーキ。追突。
その後を漆黒の月桂冠が、華麗なドリフトで通過。
医大に沿って緩やかに曲がる道路を、動くパイロンをよけながら走っていく。
「どこへ逃げる気よ!」
エミリアが睨む相手は、依然と止まる気配がない。
次々と、体をくねらせて車間を通り抜ける。
それどころか、フットブレーキを踏みまくり、クラッチを使う気配がない。
「こんな走り方じゃあ、ブレーキが焼切れる……あっ!
前方、軽自動車をギリギリに避け、クラクションの置き土産。
「こんな場所じゃあ、強引になんて…」
そう。3車線道路で周囲は緑地。相手を止めるにはこれ以上とないプレイス。
問題は交通量だ。
この道路― 医大バイパス線― は、環状鉄道と交差したのち、2本の道路に分かれる。
前者は直進しサンタ・アンジェ区に入り環状道と合流。
一方の後者は北区唯一のメインストリートに化ける。ハイウェイをくぐり、区役所や分署が集中する区画を通り抜け、ゼアミ区との境目で、やはり環状道と合流する。
そのため、この道路を走行する自動車の数は、ものすごい量となる。
特にハイウェイへ向かうトラックや、各区を結ぶ路線、スクールバスといった大型車も。
それらに高速で走る車が突っ込めば…どうなるかぐらい小学生でも理解できる。
このまま、手をこまねいて追いかけるだけなの?
エミリアは下唇を噛んだ。
その時――。
「なに!? 今のは!」
耳たぶが、突然凍ったように痛く冷たくなる。
エミリアが危険を感じたときに流れる、警告のようなものだった。
背後から、殺伐としたおぞましい気配。
それを“殺意”とひっくるめてもいい。
ナイフを押し当てられているかの如く。
まるで背後に幽霊でも乗っている…それを確認するかのような、狼狽の眼差しでルームミラーを覗いた。
そこには追い抜いてきた一般車の姿―――否。
カーブの先…スクールバスの背後から、そいつは現れた!
「レッド…キャップ…!!」
しなやかに流れるサーフィンラインを躍らせ、四つ目を焼き付け、道路を狂おしく踏みつける。
“ケンメリ”の名で愛された幻の名車、日産スカイラインGT-R KPGC110。
世界でただ1台のワインレッド・カラーを、皆は“レッドキャップ”と呼んだ。
この血塗られた妖怪の名を冠したマシンこそ、あの少女の愛車だ。
丸いヘッドライトは光を帯び、葡萄酒より赤黒いボディは、悲鳴を上げる四肢は、正に怪物の名を冠するにふさわしい風格を晒す。
周囲の車が、自然と道を開けていき、そこを猛スピードでかけていくのだ。
「チッ、シレーナのやつ、相当キレてる。何があった?」
聞こえるのは只、エンジンの唸り。
エミリアはハンドルに手をかけたまま、片手をポケットに入れ、イヤホンマイクを取り出してシレーナにダイヤル。
しかし、相手は応答に呼びかけず、その代わりなのか、パッシングを送る。
「邪魔だ」
そう言わんばかりに。
しかし、相手は馬力が違う。
「無茶言わないで。
確かにアンタの車も、基本スペックは6気筒エンジン。でも、40年以上前の直列S20型が、ケイマンの水平対向ミッドシップに勝てるわけがない! 力の差がありすぎる!」
しかし、怪物は聞く耳を持たんと言わんばかりに、速度を上げてAMGを追い抜いた。
その姿に、エミリアは身震い。
「冗談きついわよ…こっちはV型8気筒ツインターボエンジンを回してるのよ。そんなAMGを追い抜けるGT-Rなんて、35くらいしかいない。
でも、この音はVR38DETTじゃない。無論、RB26でも……シレーナ、ソイツに一体何を積んでるんだっ!」
と言う叫びも聞こえる訳もなく、ケンメリはケイマンの背後を取ると、ゆっくりと横へ並ぶように再加速。
サイド・バイ・サイド。
次第にケンメリが、その体を押し当てに来る。
ケイマンに逃げ道はない。すぐ横はガードレールに守られた歩道だ。
だが――!
「ジョナサンのやつ、ギアを低速に!?」
エンジンを唸らせ、一気に加速。
一般車の間を縫い始めた。
ケンメリも後を追うが、一方のAMGを駆るエミリアは速度をそのままに、走り続ける。
「正気なの、シレーナ。その先は――コークスクリューよ!」
この区内には、かつて此の地を踏んだ、宣教師や移民の石工たちによって造り上げられた、ローマ水道が敷設されている場所で、歴史的にも大変貴重な構造物である。
第二次大戦後、そこをくぐり抜けるようにしてバイパスが作られたのだ。
この先、道路はなだらかな左カーブを描きながら降ると、直後に石造りの水道橋をくぐり、今度は上り右カーブ。
コークスクリュー。
サーキットなら、どうってことのないルートだ。
しかし、ここは公道。カーブを共に走るのは、事情を全く知らないオーディエンスだという事だ。
黄色い標識と電光掲示板を追い抜く。
車線減少の案内だ。
2車線になった道路が右へとカーブし、並走する景色が樹木から金網に。
車と同一の目線を、石畳の水路が流れている。まだ、現役なのだ。
前方を走る車が、カーブを描きながら左へ消えていく。
3台も、その滝に迫る。
先ずはケイマンが、ブレーキをかけながら減速しカーブを抜けた。
幾台の車を、ハンドルをせわしく動かしながら。
アンダーで揺れるテールライトが、その焦り様を知らせる。
ケンメリは
「減速しない?」
ブレーキを掛けることなく、そのままカーブへと突っ込んで行く。
水路と並行する直線は約1キロ。カーブの先には、後方から単純に数えただけでも十数台はいる。
このスピードのまま、カーブを曲がるとなると、ドリフトするくらいしか方法は無い。
それは、自殺行為と言っても…いや、道連れ自殺としか言いようがない。
予想通り、ケンメリは車体を横に滑らせ始めた。
「死ぬ気か?」
だが、次の瞬間。
(え? 今、浮いた?)
エミリアが我が目を疑う。
無理もない。
ケンメリの車体が、一瞬だけ宙を浮いたのだ。
錯覚か。
否、錯覚ではなかった!
ハイウェイばりの猛スピードでカーブに突っ込んだケンメリは、下り坂となるカーブ入り口で車体が浮いたのだ。
そう。空中でドリフト。四輪が道路から離れた――。
間近で見ていたならば、気絶していただろう。
着地を決めたケンメリは、そのまま何もなかったかのように、横滑りしながら体勢を戻し、風情ある水道橋をくぐった。
石の荘厳たるアーチの下に、タイヤ痕を残し、次いで上り坂。
クオンと唸りを上げ、更にスピードアップ。
コークスクリューを終える頃には、既にケイマンの姿を確実にとらえている。
…と、ここまで来て、読者諸君は、この華麗とも過激ともいえるシーンにおいて、ある描写が確実に抜けていたことに気が付いただろうか。
この“サーキット”には、一般車がいるのだ。
そんな神業、出来る訳がない。
だが、彼女には出来た。何故。
信じられないのだ。彼女が走った軌道上に、他の車が一台もいなかった。
いなかったのだ。
まるで…そう…元から、そのコースを走るよう決められていたかのように。
彼女は着地しながらトラックとバスの間を抜けながらドリフトし、セダン数台を交わしながら、水道橋をくぐって、ワゴンとパネルトラックで視界が悪い中、スピードを上げてヒルクライム。
全く信じられない。
だが、それが実際に起きたのだ。
紅い悪魔が、それを成し遂げ、獲物を血眼で追いかけている……。
道路は平地へ、そして3車線に戻った。
この先は、バイパスの終わりと2本の道路の始まり。
環状鉄道の高架線を抜けると、沿道に住宅や商店が姿を現し始めた。
車の行き交う大きな丁字路。眼前の信号は青。
ケイマンはそこを右折し、北区へ向かうメインストリートに入る。
対向を横切ったがために急ブレーキをかけた一般車など知らぬ存ぜぬで。
無論、背後を取っていたケンメリも、再度ドリフト――
できなかった。
直進レーンから、旧型のダッジが飛び出し、丁字路内で右折。
スピン。
白煙とスキール音を纏いながら、丁字路内で停止。沈黙。
既にケイマンの姿はなかった…。
◆
1分ほど送れてAMGが丁字路に到着。
降りてきたシレーナに、エミリアが怒鳴りながらドアを開いた。
「アンタ、気は確か?」
市警のパトカーがサイレンを鳴らしながら接近してくる。
それを除いても、彼女が気づいていないとは考えにくい。
シレーナは、北区への道路を凝視したまま、微動だにしていなかった。
「聞いてるの?」
エミリアは車を降り、彼女の元へ近づくが…。
「事故でも起こしたら、どうする気? 生徒と学校の安全を守るガーディアンが、交通違反してるなんて、笑い草よ」
遅かった。
シレーナが眼鏡をかけていないことに気付くのが。
襟首を無言で掴まれる瞬間から、逃げるのが。
「よく聞けよ、エミリア。本当の笑い草はね、アイツを逃がしたことさ。
それに比べれば、事故なんてもんは些細なものに過ぎない」
「些細? 事件に些細も冗談もないわ!」
「お前は、アイツの惨状を見て、何とも思わなかったのか?」
「思ったわ。3人が撃たれて――」
「重要なのは撃った事じゃない」
その言葉に、エミリアは引っかかった。
「奴は、その場にあったメシを食い荒らしたんだろ?」
「え、ええ…」
「寿司とバーガーセットを2つ」
「そうだけど」
「残飯は?」
「は?」
「どれくらい、食い残していたかって聞いてるんだ」
「た、確か…米が少しと――」
「はあ? 誰が献立聞きたいって言った?
簡潔に答えろ。食い残した量は多かったか、少なかったか」
襟首を締める手が強くなり、エミリアは息苦しさを感じ始めた。
「お、多くはなかったわ…こぼれ落ちた残骸…そんな印象だった」
「じゃあ、ほとんど食ってたわけだな? 寿司もバーガーも」
エミリアは頷いた。
途端にシレーナは、彼女を道路に突き飛ばす。
「面倒なことになったな…」
「さっきからなんなのよ! 自分だけでイライラしてんじゃないわよっ!」
粗暴に怒りを抑えられるわけもなく。
「ああ、イライラしてるさ。奴はもう、殺しを止められなくなっちまったんだからな」
「え?」
「大人もガキも関係ない。アイツを早く始末しないと、見境なく人間を殺戮し始めるぞ」
そんな、馬鹿な。
エミリアは突きつけられた彼女の眼差しが信じられなかった。
「そんな…そんなはずは無いわ」
「どうして、そう言える?」
「彼は自分の親を殺したのよ。その呵責が――」
「クフッ…」
次に耳を疑う。
だが、展開される光景は嘘をつけない。
「ウッフフフフ」
表情は見えないが、とても楽しそう。
夕暮れに染まり始めた青空。照りつける大型トラックのヘッドライトをシルエットに、少女は不気味にで笑った。
口を手で押さえ、前かがみに。
傍観するしかないエミリア。
ライトを背に、彼女を見下ろしたとき、シレーナは言った。
「呵責? そんなもの、アイツにはないよ。
残すか吐くかしてくれていれば、まだ救済はあっただろう。でも、人を殺し、その臭いを添えて完食してしまった時点で、奴は、後戻りできないところまで来てしまったのさ。
ましてや、添え物の1つは、自分を産んだ母親で、既に食人を経験済みっていう、冗談のようなストーリーまで持ってる。
そこまで来たニンゲンは、どうなるのか。
ただ単に、本能のまま動くだけさ。野生の獣が“狩り”をするようにな」
「どうして、そう言いきれる?
お前の哲学は、どこからやってくる?」
什麽生のような返し。
だが、シレーナは穏やかに笑いながら、ただ冷静に返すだけだった。
「ワタシも…このワタシも、そうだったからさ」
「シレーナ…アンタ…」
「“全て”が形作られて初めての夜、“私”も同じように死人の臭いで飯をがついた。
そして、残らず取り込んだ瞬間から…“ワタシ”が芽吹いたのさ。
人を殺すことでしか、自己を満たすことができない“ワタシ”がね……」




