誘惑アフター(☆)
「ハルショカ」内の「誘惑ビフォー/アフター」の二人の話です。
うちに来ないかと誘っておきながらド緊張してるなんてどうしたことだ。
らしくない。早くおさまれ心臓。
自分ちに好きな男がいるくらいなによ。今更純情ぶるなスナイパーが。狙いどおりお持ち帰りに成功したんだから、ここはさっさと押し倒すんでしょ。
――なんて、言葉ばっかりが勇ましく空回り。
だって、中川君がうちにいるんだよ。あの中川君が、や――――――っと。コンパクトな私の部屋の中で、クッションに正座してきょろきょろしたりして。
何考えてるのかなあれ。いいにおいだーとかだったらいいんだけど、もし『ノコノコついて来たけどやっぱ帰りたい』とかだったらどうしよう。うわ、ありそうでやだな。
てか、ぼーっと見惚れてないでそろそろお茶でも淹れようか。
「あ、」
出来の悪いロボットのように心も体も硬直したままでお茶を淹れようと準備してたら、茶葉をのせた匙が茶筒のふちに当たって盛大にこぼれて、あたり一面緑色になってしまった。
「あーあ……」
ため息をついていたら、「どうかした?」と向こうに座っていた筈の中川君がキッチンに顔を出して、まんまと惨状の現場を目撃されてるし。
「ハデにやったなあ」
「めったにないんだからね! こんなのたまたまなんだから!」
「はいはい」
「ほんとだから! いつもはもうちょっとはちゃんと、」
「分かってるし知ってるから」
テーブルの上や作業台の上で使う箒&ちりとりなんてこじゃれたグッズはそもそもうちにはなくて、みっともないけど手で集めて、下は掃除機でもかけなくちゃと思いつつ言い訳してた間に中川君は古新聞入れからさっさとチラシを出して、それを箒&ちりとりがわりに使って茶葉を集めてくれた。
「宮迫、そこどいて」
「あ、はい」
その手際の良さにまたもやぼーっと見惚れていたら、下に落ちた分も掃除機で吸われて、すっかり綺麗になってしまった。おまけに、さっさとお茶も淹れてくれた。
「宮迫はたまに抜けてる時があるよな」
「うるさい」
「カワイイって云ったんだよ」
ぼそ、とその四文字だけ音量を落として。二人でいるのにそんな照れる必要ある?
とか思ってる自分も、こんなにどきどきする必要ある?
――私は当然そういうことするのハジメテなんかじゃないし、ビギナーの向こうがスムーズに進められるようにフォローしなくっちゃくらいの気持ちでいたのに、中川君が慣れ親しんだ風景にいるのを見たらもう駄目。一気にテンパってしまった。やだやだ。うぶい自分なんてさぶいぼ出まくりだよ。正気になれ。そして襲え。
そんな風に、頭の中では強い自分なんだけど。
「はいどうぞ。熱いから気を付けて」
「ありがと。いただきます」
腕まくりされた水色×白のストライプの長袖シャツ。見覚えのありすぎる馴染み顔なのに、今日ばかりは私をホッとさせてくれない。むしろ、お気に入りのそいつにどきどきを煽られているような気にさえなる。くそ。
せっかく中川君が手早く淹れてくれたお茶だけど、二人とも猫舌人なのでやっぱり長いことふうふうしてた。手があちちってなりながら、私は湯気越しの中川君にまたもや見惚れてた。――スナイパーは、どこ行っちゃったのほんとに。
そうこうしているうちに、ほどよくさめたお茶をやっと口に含む。
「……おいしい」
「茶葉がいいから」
「ねえそれ私にケンカ売ってる? 自分で淹れてもこんな味にはならないんだけど!」
おいしいお茶に少しだけ落ち着きを取り戻した心は、ようやくいつも通りの軽口を呼び込むことに成功した。
「温度と抽出時間さえ守ればこうなるけどなあ」
「簡単そうに云うよね理系の人は」
「――――俺にはおしゃれのコーディネートの方が難しいと思うけど」
「思いっきり考え込んでからのフォローとかやめて! かえって嘘っぽい!」
そんな風に、ひとしきり言葉でじゃれ合って、さんざん笑って。
そうするのが当り前みたいに、横並びのその人に近付いて、ぴと、と腕と腕をくっつけた。ついこの間まで半袖だったからじかにくっついていられたのに、今はシャツとブラウスに阻まれてるのが悔しい。でもこれからは『さむーい』って外でも中でも密着できるからそれはそれでいい季節だよね。この人相手にテクニックでそれを出来る自信は、もうないけど。
「どうしたの」
「んーん。中川君と付き合って、良かったなあと思って」
どきどきも笑いもくれるなんて、ほんと好き。
笑いすぎて滲んだ涙を拭こうとティッシュに手を伸ばしたら、自分のより一回り大きい中川君の手に阻まれた。
「え、」
涙を啄まれ、そのまま頬と唇にキスをされた。一旦離れた唇は、私が思考停止している間にもう一度やって来た。そして、角度と深さを変えて、何度も。
何でこんなキス急に。さっきまでお茶してたのに。
ああ、そうだ、そうだった、私が彼を家に招いたんだった。もっと傍に居たくて、帰したくなくて。
夜を共に過ごしたくて。
「ちょ、ちょっと待って……」
さんざんキスを堪能してから、やっと胸元を押した。その手の力も懇願の声も、なんだかへろへろだ。
「どれくらい?」
間近から覗き込まれて、静かに問われた。
「どれくらい待ったら落ち着くんだ」
そんなこといくら聞かれたって分かる訳ない。そもそも、お持ち帰りしてからはずっと慌てた状態だっていうのに。
「俺は駄目だった」
静かに、でもきっぱりと彼は云う。
「いくら待っても、ちっとも収まらなかった。今日なんか一日ずっと、宮迫の顔がチラついてた」
朝、職場でコーヒーメーカーの前にいた時も、その後見かけた時も、いつもの顔して普通に仕事してるように見えたのに。
「それに」
ちらっとこちらを見る。ただ視線を投げかけただけ。なのに、抜き身の刀を見せつけられたように強くどきっとした。一瞬、心臓がリアルで痛んだ程。
「『好きな人に待てって云われたら待つな、むしろ押していけ』って俺に教えたのは宮迫だよ」
う。そうでした。だって、付き合う前、二人で飲みに行くようになってたあの頃はそんな風にでも云わなきゃ彼は行動に移してくれそうにもなくて、焦れた私はもっとぐいぐい来てほしくってだね、あくまで一般論のふりした『こうだったらいいのに』をあれこれと吹き込んでたんだった。
『好意はとにかくマメに伝えること』『フラッシュ・モブとかサプライズとか、派手なことするより相手がどういうものが好きかを把握すること』――なんてね。
それは、全部私の理想で、かなえてもらえるなんてこれっぽっちも思ってなかった。付き合ってからだって、いつも仕掛けるのは私で、それを苦笑していなしたり照れくさそうに笑って受け止めたりしてくれるのはいつだって中川君で、だからまさかこんな風に、彼の方から静かにぐいぐいくるなんて、嬉しいけど想定外すぎてどうしたらいいやら。
言葉に詰まる私に、中川君はさらにぐいぐいと畳み掛けてくる。
「『でもほんとにいやがってたらすぐに引くこと』だよね? 今、宮迫はほんとにイヤ?」
じいっと見つめられる。五秒、一〇秒。『目を反らしたら負け』対決は、堪えきれずに俯いた私が負けた。
「……、じゃ、ない」
「うん?」
小さな声でごまかそうとしたら、即座に聞き返された。聞こえない程の小声じゃないから、もちろんわざとだ。ちょっとしたいじわるまで出来るようになったか。悔しいから、おっきい声で云ってやる。
「ヤ、じゃない!」
「うん」
「ヤじゃないけど……」
「それ続きあるんだ」
ぷは、と空気が抜けたみたいに笑う。笑いながら、下を向いたままだった私の頬に手を伸ばした。
「緊張してる?」
優しい問いに、こくんと頷く。
「こわい?」
「……少しだけ」
自分の部屋にお持ち帰りしておいて、いまさらいろんなことが気になっちゃった。
大きい空気のカタマリが詰まってるみたいな頭の中で、『生ごみ片付けたよね』とか『服もその辺に散らかしてないよね』とか、小っさいことがぽこぽこ浮かぶ。うん、ちゃんとしてある、大丈夫。
そんな混乱に加えて、怖さもあった。心のずーっと底の方。枯れない小川のように静かに流れ込んできて、どこにも行き場のないままどんどんたまってきてしまう。
これから晒す自分は嫌われないか。二人のいわゆる『相性』は。
ビギナーを狩るのは初めてで、先の展開は今のところ読みにくい。
リードした方がいいのか。でもそれは男のプライドって奴を傷つけてしまうのか。下手に動いて嫌われたくないなんて、こんなのスナイパーとして失格だ。
今日も一日耳につけてた、誕生日に中川君から贈られたいちごのピアスに触れた。ひんやりとした温度は、自分の指先の熱をつきつけてくる。
一向に冷めない指が耳元から離れた途端、手を繋がれた。ぱっと見上げると、彼の目にも自分と同じ色が揺れていた。
「……こわいのは俺の方」
ふわりと抱き込まれて、すっかりなじんだ匂いに包まれた。知らずに入っていた力がふーっと抜ける。
「……ちゃんと使い物になるのか、とか、本やら動画やらで勉強した手順、ぶっとばないかとか、宮迫に気持ちよくなってもらえるのか、とか」
清潔そうな顔と云ってることのギャップがすごくて、真面目な場面て分かっててもつい笑ってしまう。
「笑わないで」
「ごめん」
なんだ。そっか。そうだよね、中川君の初めて兼二人の初めてなんだもんね。もしかしたら今日はうまくいかないかもだけど、そしたら次に挽回すればいい。
ふててとんがった唇に、私から近付く。すぐにあちらからも寄せられる。初めてキスした時にごっつんこしたおでことおでこは、そんなのなかったみたいに、柔らかくそっと触れあった。
「……二人で探そうね」
中川君と私、二人でちゃんと気持ちよくなれるところ。すぐにはそこに辿り着けなくてもいいから。
「私がいつもと違っても引かないでね」
「引かない」
「グラビアアイドルみたいにくびれてなくてもガッカリ」
「しない。するわけないだろ」
普段はめったにしない乱暴な手つきでネクタイを緩めて放ると、中川君は私をぎゅっと抱き締めた。
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「……中川君」
「何?」
「初めてとか、ウソでしょ……」
「ほんとだって。――宮迫も気持ちよくなってくれてよかった」
男前の階段をすごい勢いで駆け上がっていく彼氏の新たな武器(?)の威力はすさまじく、リードしようだなんておこがましいくらいだった。スナイパーの称号、返上しようかな……。
自信を無くしかけた私が「あんまり急いでいい男にならないでよ」と半ば本気で云うと。
「いーや。俺は最速で宮迫に見劣りしない男になるって決めてるんだ」ときっぱり宣言されてしまった。
それなら私も、受けて立たないとね。いつまでも中川君に、そんな風に云ってもらえるような女であり続けてやるんだから。
顔の赤みが引けたら、すぐにだって反撃してやるんだから。




