すくみ足レディ(☆)
「ゆるり秋宵」内の「勇み足レディ」及び「ハルショカ」内の「しのび足レディ」の二人の話です。
のんきに恋の予感、みたいなものを楽しめたのは、ほんのわずかの間だった。
秋の人事異動で、海老沢の下にはかわいい後輩の女の子がついた。整った容姿をハナにもかけず、ひたむきに仕事をするいい子だ。私なら、じっと見つめられたら簡単に落ちる自信がある。大学時代はミスキャンパスで優勝しただの、その美貌見たさに入れ替わり立ち代り関係ない部署の男性社員がやってくるだの、いろんな噂話が飛び交う彼女だけど。
「実際どうなの」と海老沢に野次馬根性で真偽のほどを聞くと、「まあ合コンであれが来たら男どもはだいぶ持ってかれるだろうなって感じ」と冷静に分析された。
「まあ、俺は一切そういう気にはなれないけど」
「ソーデスカ」
「いやほんとに。あんたも知ってるとおり、俺には一応、心に決めた人がいるんでね」
「――」
目を見て、しっかりとそう伝えられた。
「……そう」
そ知らぬ振りは多分へたくそ。海老沢笑ってるし。その笑顔がやたらと優しいのも、心臓がすごいことになってるのも無視してアイスコーヒーを飲む。
途端に、ずぞぞぞとお行儀の悪い音を立ててしまった。もう空にしてたのを忘れてストローをさらに吸い上げたなんて、私動揺してますって云ってるようなものだ。
元凶は、聞かないふりというスマートな対応なんかせず、遠慮なく人の失敗につっこむ。
「三田村、飲み終わんの早すぎ」
そうだよ。私はなんでも早いの。歩くのも食べるのも考えを決めるのも、――人を好きになるのも。
さらに、怖くなるのも。
後輩ちゃんは、私が勝手に抱いている危機感のモトではない。海老沢と同じ部署で業務上よく関わる異性だからって、仕事に私情絡めていちいち勘ぐる趣味はないし、海老沢が云うことを私は信じてるから。
それより、自分の心の方の問題。
海老沢は私の勇み足を嫌いじゃないって云ってくれてたけど、それは今でも有効なの? 好きと嫌いが表裏一体だとしたら、真っ先に幻滅されるのはどう考えても勇み足だっていう自覚がある。
嬉しかったからうっかり真に受けて、さりげなく優しくされていい気になって、まんまと好きになっちゃったけど、ここいらで少しちゃんとじっくり考えたほうがいいんじゃないか。
いたずらに立ちどまるのが一番よくないって、分かっていながらあえてそうした。勇み足で踏み込むことも、しのび足で撤退することも、両方選べなかったから。
それからというもの、海老沢からの飲みの誘いを『仕事がたてこんでて』と何回か嘘で断った。実は今日も。
分かった、と返事が来て、思わずメッセージを何度も読み返してしまう。ほっとするようながっかりするような。どうしたいのよ私。
気持ちがぐるぐるしたまま定時で仕事を上がってエレベーターを降りると、エントランスには人待ち顔の海老沢がいた。知らんふりで逃げるなんて許される暇もなく、すぐに視線で捕捉された。顔を見る勇気はなくて、ゆったりとこちらに向かって来る海老沢のネクタイのあたりを見る。叱られる自覚のある子どもみたい。
「なんで」とネクタイの柄を見つめたまま呟くと、「安河内さんに探り入れたら、『別に今そこまで三田村は仕事抱えてない筈だけど』って返事もらったから、どう云うことかと思ってここで張ってみた」と返ってくる。声色はいつも通りで、よかった嘘ついたのに怒ってないなんてことを思って、安堵している自分。でも。
「俺、避けられてる?」という言葉に、顔を上げて瞬時に否定した。
「! 違う!」
「じゃあ、逃げられてる?」
「……」
「当たりか」
苦く笑う海老沢。そんな顔しないで。あんたが悪いんじゃない。
「……私、ちゃんと考えたくて、それで」
「じゃあ、考えたらそれは俺にとっていい返事になるの?」
静かに問われて、やっぱり答えられなかった。
考えなしに動いて、もう大事な誰かを傷つけたくなかったから足を止めてとことん考えたいんだよ。それを、『さりげなく優しい』海老沢だって知ってるくせに、どうしてこんな追い詰めるようなことするの。
「飯行くぞ。あんた腹減るのも早いしな」
さっきまでのやり取りがまるでないみたいに、海老沢が云う。
「行かない」
「……三田村、」
「行けないよ」
「……いいから」
エントランスでのこのやりとりを注視する人はいない。でも、とってもとっても、私には今これが大事な瞬間だって分かってる。
だからこそ、二の足を踏んでいるってことも。
いつになく煮えきらない私を、海老沢はいつもと同じように声をかける。
「来い。大丈夫だから」
「……でも」
出した声はまるで私らしくもない。小さくて、その上ふるえてた。
「駄目だったら、どうするの。大丈夫だなんて、どうして言い切れるの」
先は見ない、そう決意したはずだったのに、気がつけばまた先ばかり見ていた。
だって、気の合う同期だからよくても、恋人としては気が合わなかったら?
もし別れるとしたら、同じ会社なんてすっごい気まずい。
……先を考えないなんて、無理だよ。ずっとずっと遠くまで見ちゃうくらい、好きになっちゃったんだもん。
「お前ってほんと気が早い」と、海老沢が笑う。
「まあ、そういうとこも好きだけどな」
さらっと初めてその言葉を口にして、歩み寄れない私に向かって踏み込んできた革靴。今日もピカピカだな、とそんなことをぼんやり思った。
「未来もいいけど、今目の前に立ってる男を見るのが順番としちゃ先ってもんだろ」
そっと手の甲に触れる指は私より暖かい。海老沢、心優しいのにね。
「俺の気のせいじゃなければ、俺たちは両思いじゃないかと思うんだけど」
どう? って顔を覗き込まれて、奴の前髪が鼻先をくすぐった。思わず身じろぎすると「ん、そうか」と抱き込まれた。慌てて周囲を見るけど、奇跡的に人波が途切れてた。ホッとして、いやホッとしてる場合じゃないとあらためて抗議する。
「ちょっと、今のはうんってしたんじゃなくて!」
「もう遅い」
「えびさ、」
「……もう遠慮しないって云ったろ」
静かに、そう宣告された。
手を掴まれて、海老沢のペースで歩き出す。ヒールの足ではやっとついて行けるくらいの、でも転ばない程度の速さ。いつもの私の歩くスピードだって相当速い方だけど、そんなの目じゃない。合わせてくれてたんだな、『三田村、歩くの早すぎ』って笑いながら。
振り返らない背中と、繋がれた手を見る。こんな強引なのは初めて。それがちっともやじゃないの。でも。
「ちょっと、海老沢! 手離すかゆっくり歩くかしてよ!」
いいかげん、足が痛いってば。
「こうしてないと逃げられるからだめ」
何度かこんなやりとりをしたあげく、そのままお店に連行された。おしゃれぶったところじゃなく、馴染みの居酒屋。
「じゃあ、まずとりあえずあんたの不安要素を潰してこうか」なんて、枝豆ぷちぷちしながら云うこと? むすっと黙り込んでたら「食わないの?」なんて聞かれるし。
「食うよ!」
あーもーなんかバカみたい。
ビールを煽る。ほどよいひんやり感と苦みでリラックスするのが不思議。ビールで緩んだ心は、促されるまま不安を吐露した。
「私、今日誕生日なんだ」
「知ってる。おめでとう」
「ありがと。――で、十代の頃の人生計画ではもう結婚して子供が二人いる筈だったの」
「昔っから計画好きな、お前」
笑うな。きゅんてするから。
「で、子供どころか旦那さんもいないし、それどころか彼氏もいないし」
何か云いたげな海老沢を目で制して、ビールで喉を湿して続けた。
「もういい年だし、次に誰かとこうなる時には結婚も視野に入れてと思ってたのに、海老沢はなんか私のこと好きっぽいのに全然ぐいぐい来ないから! 不安にもなるじゃん!」
こんなの八つ当たりだって分かってる。恥ずかしいからビールをぐっと空けて、おかわりを頼もうと上げかけた私の手を、海老沢がそっと包んだ。
「あのなあ、こっちだって準備万端なんだけど」
「――え?」
「お前の性格知ってるし、待つ時間長かったからな、そろそろ覚悟決めさすつもりで、二人で住むとことか調べてる。うちにおいてある結婚情報誌の山とスマホの住宅情報系のブックマークすげーぞ」
「――え!」
「という訳なので結婚前提のお付き合いをお願いします」
「あ、はい」
あっさりお返事すると、「さすがのクイックレスポンス」と海老沢が嬉しそうに笑う。――今日、ずっと怒らないで笑っていなしてくれていたけど、嬉しそうなのはこれが初めてだ。
「うちの両親には『結婚を考えてる相手がいる』って云ってあるから、あんたも早めに――って云わなくても大丈夫か、話通しといて」
「うん」
「……結婚するのにいつまでも『あんた』じゃおかしいか」
海老沢はそう一人ごちると、照れくさそうに笑って。
「詩音」
初めて、そう呼んでくれた。
なによ、人のことさんざん早い早いって云っておいて、この周到なセッティング。逃げ足も勇み足もかなわない、こんなの。それだけじゃない。
足が竦んでいたら、迎えにきてくれた。すごく嬉しかったよ。今までそんな風にしてくれる人、いなかった。私を『せっかちだ』とたしなめる人はいても、笑って面白がる人も。
えびさわ、と呼びかけて、そうか自分も海老沢になるんだと気付く。呼び名に悩んでいたらすぐに察する海老沢。
「どうした?」
「……さすが、『さりげなく優しい』だけあるね」
「いっとくけどその『さりげなく優しい』砲、お前あてにしか撃ってないからな……。で?」
嘘だあ、全方位に向けてるじゃんと思いながら「今から旦那さん、とかって呼んで慣れておいた方がいいかな、と思って」と相談すると「その前に名前で呼んでくれ」と、やっぱり勇み足を笑ってくれた。
えび「結婚はそれでいいとして、じゃー次は墓の心配でもする?」
三田村「――私より先を見過ぎ!」
 




