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ゆるり秋宵  作者: たむら
season1
28/47

逃げ出す小鳥(☆)

「ゆっくりダイヤモンド」の本多君視点です。(☆)

 彼女が俺の部屋に来ると、ぱっと花が咲いたみたいにいい匂いと甘い空気に包まれる。

理子(りこ)

「ん? なあに、斗真(とうま)君」

「――なんでもない」

「ひどーい!」

 意味もなく名前を呼べば、彼女はからかわれたと思ってひどく憤慨する。確かに、小学生の男子の常套手段みたいだ。でも、からかってなんていないよ。

 名前を呼べるのが、幸せ。すぐそこにいる君を呼べば、返事をしてくれる幸せ。



 随分毛色の違う子がいるなあと思ったのがきっかけだった。

 学祭での出演はいつもライブに来てくれるお客さんだけじゃなく、普段はライブハウスやロックに縁のなさそうな人――事務局の人や、教授達――にも観てもらえたけど、そこからライブ会場まで足を運んでくれる人は、まだそう多くはない。そんな中、ゆるーっとふわーっとしたスタイルで来ていた彼女は、男も女もTシャツにデニムという格好が多い会場内で、一際目を引いた。

 今までこんな小さなハコにきたことはないのだろうか、きょろきょろしてみたり、スピーカーからの音にびっくりしたり。それでも、俺達の演奏が二曲目に差し掛かる頃には、こちらを食い入るように見つめていた。

 学祭でも演奏したその曲を気に入ってもらえているらしく、イントロが始まると笑みが漏れる。その顔がかわいくて思わず演奏の手が止まる――なんてことはないけれど、結局その日は何度も彼女を見てしまった。


 それからライブのたび、ステージへ上がる時に客席をざっと目で浚うくせがついた。彼女はいつも、大体後ろの方にいる。立っている時もあるし、お友達とテーブル席――ベース(おれ)に近い方――に腰掛けている時もある。

 演奏前も演奏中も緊張はしているものの、意識のどこかは常に彼女へとアンテナを向けていた。だから、キャッチ出来た。

 ずっと、まっすぐ見つめられていた。俺のファンになってくれたのか、バンドのファンなのか、まだ判定は付かない。でも、そうやって見てもらえることにやたらと優越感を覚えた。

 別にそこまで肩入れするほどのことじゃないのかもしれない。でも、ボーカルやギターならともかく、ベースの俺に興味を示す女の子なんて殆どいない。だから、いつまでも飽きることなく注がれる視線に、いつしか『俺のベースの音が好きならいいのに』と欲が出た。

 同時に、それだけで留まらない自分の気持ちにも気付く。無名の学生バンドのベース担当が奏でる音、だけじゃなく、俺自身を好いてくれればいいのに、と云うのが本音だった。


 こんな風に、俺の側は階段を一段飛ばしで駆け上がる勢いで彼女を好きになったけれど、だからと云って押せ押せで行った訳じゃない。

 同じ大学の子だって云うのは、何回目か足を運んでくれたライブ後にほんの数分雑談して知った。そうしたことで、彼女はワンナイトを愉しむ人種じゃない(もちろん俺も)と再確認した。言葉を交わすだけで赤くなる頬と震える声から推測するに、おそらく恋愛の経験らしきものも殆どなさそうだ。

 だから、逃げられないようにゆっくりと距離を縮めていった。


 学内で顔を合わせれば、会釈をした。少し離れた所から俺がそうすると彼女は『ハッ!』として、その後慌ててお辞儀してくれて、その拍子に抱えていた本がバサバサーっと音を立てて落ちてしまう。傍にいたしゃきしゃきしたお友達に「何やってんのリコ!」と怒られているのが聞こえた。

 そうか、リコちゃんて云うのか。かわいいなあ。どんな字、書くんだろう。

 チケットはいつもライブ会場で次の分を買ってくれるので、名字も連絡先も知らない。


 会釈だけじゃなく「こんにちは」と声を掛けたのは、彼女と同じ講義を取っていると気付いて早めに訪れた講義室で。

「こ、こんにちは!」

 真っ赤になって、ぴょこんと背を伸ばして。その動きでバッグが倒れ、中に入っていた学生証がこちらの床に落ちてしまったので、通路にいた俺が拾って手渡す。

「はい、どうぞ」

「あ、りがとう」

 彼女に手渡す前に、それを見てしまった。今よりあどけない入学当時の彼女は、ちょっと緊張した顔で映っている。その下に、藤崎(ふじさき)理子、と印字してあった。――彼女のフルネーム、ゲット。


 ヤバいな、ストーカーみたい俺。

 そんな自分を戒めるためにも、いっそうゆっくりと近付くことを心掛ける。

 少しずつ、少しずつ。臆病な小鳥が翼を羽ばたいて逃げ出してしまわぬように、そっと。

 そう心掛けて接していたら、嬉しいことに彼女もだんだんに緊張を解いてくれた。

 バンドのメンバーには「今時中学生の方が早く発展するぜー」と呆れられている。でも俺はこのテンポが嫌いじゃない。

 走ったら、弾き零す音もあるだろ。ゆっくりな曲はむしろごまかしがきかない分侮れない。そして技量を試されているように難しい曲だって、苦しんだ分達成感があって好きだ。

 本音を云えば、彼女の体をすぐにでも爪弾きたいよ。男だし、貪っていい音で鳴かせたいと思うよ。でもそれは、きっとずっと後のことだ。今はまだ触れることさえままならないのだから。

 ――と音楽になぞらえて答えればきっとまた『指弾きベーシスト変態乙』と云われてしまうのでただ「楽しいよ」とそれだけ返すと、ボーカルの顔に『手も出せないどころか付き合ってもいないくせに楽しいとか、やっぱり立派な変態だコイツ』とでかでかと書いてあった。


 講義室や学食で交わす挨拶にも慣れ、ライブ後の雑談だけでなく打ち上げにも来てもらえるようになった頃、講義室での彼女が珍しく一人でいるのを見た。――しゃきしゃきしたお友達とにこにこしたお友達は、大体いつも陣取っているあたりに座っている。どうしたのかと心配しつつチャンスとばかりに声を掛けると、お友達と離れて座っているのは別に仲違いした訳じゃなく、風邪を引いた彼女が空調の風の届きにくいところに移動しているだけだと知ってほっとした。

 それにしても、かさついた声がかわいそうだなあ。

 そう思ったら、さっき生協で買ったばかりののど飴を、そのまま手渡していた。それだけなのにそんな嬉しそうな顔なんてされたら、もっともっと色々してあげたくなる。

 図々しく下の名前を呼べば簡単に頬を染めて。講義中も、遊んでいる俺の指先ばかり見ていた彼女に、そろそろ告白してももう今なら怯えて逃げられたりしないかな、と踏んだ。


 のど飴のやり取りをした翌週のライブ。ステージでベースのストラップを肩に掛けつつ、無事完治したらしい彼女がちゃんといつものあたりにいるのをしっかりと確認した。

 今日も、彼女は食い入るようにこちらを見つめる。どれだけ集中して聴いてくれていたのか、俺達のほんの四、五曲が終わればくたりとテーブルに頬を付けていた。ステージを降りて近付くと気だるげに見上げてきて、無垢なままこちらを煽る。

「……そんなになっちゃうくらい好き?」と聞けば、こちらの真意も知らずに「こんなになっちゃうくらい、好きだよ」と素直に答える彼女。バンドのことを云っているのにそれだけでも嬉しくなってしまう自分は単純と云うよりむしろバカなオスだ。

 このやりとりに勇気をもらって、この後彼女も参加する打ち上げはそこそこで抜けだし、俺の気持ちを伝えようと心を決めていた。ところが当の本人である理子ちゃんが、酔って俺の膝で眠り込んでしまった。――まあ、今更少しくらい告白タイムが伸びたところでどうってこともないけれど、出鼻をくじかれた感は否めない。

「ちょっと麻友(まゆ)さん、理子ちゃんどうして止めてくれないの」

 やつ当たりだと分かってはいたものの、思わず理子ちゃんの隣で煙草をふかす友人のしゃきしゃきさん、もとい麻友(まゆ)さん――同い年なのにおもわずさん付けしたくなるほどの迫力がある――を咎めると、肩を竦めたその人から、理子ちゃんが誰かにこんな風に絡んだことはないと聞かされて有頂天になる。

「にやけるんじゃないわよ」と顰め面で云われたって、澄ました顔なんてもう無理だった。


 眠り込んだ理子ちゃんは小鳥と云うより猫みたいだ。かわいいなあ。小さな体をもっと小さくくるりと丸めて、寒いんだろうか。自分の着ていたシャツを脱ぎ、彼女に着せ掛けてぽん、ぽんと繰り返しその背中に触れていたら、鼻先を腿にすり寄せられた。その様子にまたにやけてしまう。

 早く起きて欲しいような、ずっとこうしていたいような。


 そんな風に、お楽しみは最後まで取っておく派の自分が、ケーキの上の苺に等しい彼女への告白をじっくりと待っていたら――ごらんの通りの有様だ。

 言葉はいいように改ざんされて伝えられ、理子ちゃんに近付くことさえ叶わない。

 ずっといちファンでいてくれた子からの告白を断ったら、こちらの恋まで巻き添えに木端微塵にしてくれた、なんて、何度考えても理解不能だ。おかげで、もう少しで捕まえられそうだった小鳥は、彼女の友人による鉄壁のガードの向こうに保護されてしまった。同じ講義を取っていても、もはや声を掛けることも許されず、ライブにも宣言通り来てもらえなくなり、正直とても堪えた。近頃では自分でも分かるくらいにピリピリと神経を尖らせている。

 手と手を繋ぎいい感じで打ち上げを抜け出した筈の俺が、明くる日から落ち込んでいたのをバンドメンバーは見過ごしてはくれなかった。なんだかんだと云いつつも俺と彼女をずっと見守ってくれてたと分かっているので、事の顛末を極めて簡潔に伝える。話さなくても、たった二人しかいないベースファンが二人とも急に来なくなったことで早々にばれていたとは思うけど。


 ライブ中、何度客席を見たって、もうそこに彼女の姿はない。

 穴が開きそう、という言葉をひしひしと実感するほど見つめてくれた彼女が不在のままライブを重ねた。それでも人前で演奏出来ることに音楽バカの血は喜び、滾るけれど、心のどこかはごっそりとやせ細ってた。


 そんな調子で秋を過ごし、相変わらず気落ちしたまま貸しスタジオで練習していると、ライブでは堂々としているけれど実はバンド内で一番のヘタレであるボーカルが、じゃんけんで負けたので来たくないけど仕方なく来ました感丸出しで近付いてきて、「俺らから話してみようか?」などと震える声で云い出してきた。

 気を使ってくれているのは分かるけど、他人が介入すれば拗れると学んだばかりなので丁重にお断りしたら涙目になって逃げ帰って行った。――そんなに凶悪な顔をしていただろうか。


 このまま手をこまねいているだけでは、あの小鳥は手に入らない。とにかく一度、こちらから会いに行ってみようと決めた。

 ただ、同じになる講義以外は彼女が何を受講しているかは知らずにいた。なりふり構わずがつがつ聞いておけばよかったな、こんなことなら。でもやっぱり怖がらせたくはなかったから、仕方ないか。


 講義と講義の合間に図書館や学食や講義室、ゼミ室の方にも足を運んでみても、そう簡単には会えないまま何日かが過ぎた。

 そして、いつもの水曜の二コマ目。

 お友達からは今日も強烈な『近づくなオーラ』が出ていたし、講義前にする話じゃないと分かっていたので、終わりをじりじりと待つ。やっと講義が終わって声を掛けようとするも、最前列に座っていた彼女たちはさっさと退場してしまい、何とか自分も講義室から抜け出た頃には既にエレベーターホールにその姿はなかった。

 その後向かった学食にもカフェテラスにも彼女たちは見当らず、もう一度駄目もとで講義室にも行ってみようと、混んでいてなかなか乗れそうにないエレベーターを避け階段で向かい始める。すると上り始めた途端、彼女がお友達と話している声が聞こえてきた。でも、その内容までは分からない。

 ここで、彼女達が下りてくるのを待っているか、それとも上がろうかと迷っていると、「じゃあ、合コンでもセッティングしようか」と云う、にこにこさんの声が、降ってきた。

 それを聞いて、考えるより先に「そんなのは駄目だ!」と云う言葉が口を衝いてしまった。

 頼むから、俺がそこへ行くまで逃げないでくれ、と祈る気持ちでぐんぐんと階段を上る。

 三階を目指して上がると、そこには驚いた顔で固まった彼女が一番上の段に腰掛けていた。――ああ、理子ちゃんが俺を見ている。心が喜んだ途端、逸らされる視線と立ち上がる彼女。逃げないで、と乞えばそれは聞き入れられたものの、依然として視線は逸らされたままだ。

 どこかで、期待していた。もしかしたらまだ間に合うんじゃないかって。でもどうやらそれは勘違いだったみたいだ。今にも踊り出しそうだった浮かれた気持ちは、彼女の態度に一瞬で萎れた。

 巻き戻したい。でもどこから? これまでの進め方がそもそも間違いだったなら、君のペースなんて最初から無視して、強引にかごの中へ押し込めていればよかったのか。それでも君は、俺の傍で笑ってくれたのか。

 ――どう出ても、詰んだ結末にしかならない気がした。


 それでも、なんとか言い訳を聞いてもらえることになった。こんな局面でも理子ちゃんは優しい。だからと云って心は逆転ホームランなど期待しておらず、ただこの機会を与えられたことを素直に感謝した。

 もう、いい。俺の気持ちを誰にも曲げられずに伝えられれば。言い訳を聞いた理子ちゃんがそれをどう判断するかなんて、彼女の自由だ。

 ああ、でも。

 君と、ちゃんと恋までたどり着いてみたかったな。

 そう思いつつ、静かな心でなるべく事実だけを伝えるように努める。今まで一度もしたことのない『藤崎さん』という呼び方は、彼女にこれ以上近付く気はありませんよ、という意思表示のつもり。


 いつまでも未練たらしい気持ちでいたから、会えばきっと諦めきれないと思ってた。逆に心を手放す決意に至ったなんて、昨日の自分じゃ想像もつかないことだった。


 聞いて欲しかったことを全て伝え切って席を立とうとすれば、伝票を持った手をぎゅっと掴まれ、留められた。

 おそるおそる、彼女の顔を伺うと、ライブの時のようにまっすぐ、理子ちゃんは俺を見ていた。――どうやら言葉は撥ねつけられずにきちんと届いたらしい。

 なんとか笑えば、笑い返して。繋いだ手を、向こうからも絡めて。

 喪ったと思っていたものが、鮮やかに蘇る。捨てられる訳がなかった、俺はこんなに君が好きなのに。


 逃げられないようにものすごくスローなペースで近付いて、なおかつ逃げられてこんなに遠回りもしたけれど、やっと二人で恋の入口に立つことが出来た。

 小鳥のような彼女は、鳥の巣のような俺の頭を大層お気に召している。一向に飽きることがないようでなによりだ。

 触る。手を弾ませる。指にパーマの髪を絡める。そんな愛撫のような触り方や、お姫様抱っこを『楽しみ』と言い切ったことなど、成人しているくせに彼女は何の計算もなしに繰り出してくる。それが俺の心をどんなに乱し、理性を試しているかも知らないで。

 まあいいさ、大丈夫。俺は、臆病な小鳥を懐かせた男だからね。キスから始めて、一つひとつ大切にゆーっくりのーんびり、恋をしよう。理子ちゃんと最後まで関係を進めるのを後一年ばかり待つくらい、なんてことないよ。その間に間断なく訪れるであろう男の生理的苦悶だって、楽しみに変換してみせる。

 俺のこの決意を知ったバンドメンバーからは、『無茶しやがって……』『さすが変態乙』『本多は修行僧にでもなるの?!』とことごとくひどいコメントをもらったけど。



 そうして念願かなって、旅先のホテルの部屋でお姫様抱っこをしたのはほんとにきっちり一年後。

 無邪気にはしゃぐだけだった女の子は、今まで彼女自身がしてきた誘惑の数々を、ようやくそうと自覚してくれるようになった。

 わるいキスも覚えて、ベッドに横たえても怯えは見せず、なのに変わらずにまっすぐな瞳。

「斗真君」

「何、理子」

 ついこの間、これの逆のやり取りをした時『なんでもない』って云って怒らせたっけなと思い出す。もしかして『なんでもない』返しが来るかもと予想していた俺に、彼女は「ありがとう、大好き」なんて不意打ちの言葉をくれたもんだから、理性の在庫の最後を使ってもキスが乱暴になってしまったけれど、それすらハグで受け止めてくれた。


 ――どうしても手に入れたかった小鳥は、今ようやく俺の腕の中。


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