恋なんて
音響×運営
う、わ――……。
思わず、正直にそんな顔して見せたら、真正面に座るその人がぴくりと眉を寄せて不機嫌顔になった。デスヨネー。
ふた月前に振られた片思いの相手と、合コン会場でバッティング中。
八雲さんと私は、ふた月前まで約一ヶ月、同じイベントに関わっていた。私は運営で、八雲さんは音響さん。
現場仕事は拘束時間が長い。今回組んだ人達とは以前も何度か単発のイベント仕事をご一緒させていただく機会があったので、どんな感じかは知っていた。でも初めてひと月のほぼ毎日、家族よりも長く時間を共にしたことで、いい面も悪い面もより鮮明に見えてきた。八雲さんに関しては、手際の良さと酒ぐせの悪さが。ほんっとうに、あの酒ぐせ何とかしてほしい。
八雲さんは、お酒が入っていない時は頼れるプロフェッショナルで、なおかつ面倒見の良い、ついでに云うと見場も良い男性なのだけれど、お酒を入れると本当に『あかーん!』てな人に成り下がっておしまいになる。酔った状態で放っておくとイベントの表舞台に立つお姉さんへの下ネタトーク炸裂によりチームワークに支障をきたすので、色気成分控えめの私が監視役を務めることとなった。以来、八雲さんはお姉さんと私が席をチェンジすると何とも云えない残念そうな顔をするものの、それでも『もっと色気のある奴をはべらせろー!』とさらなるチェンジを要求されたことはなかったんだけど。
「なあ知ってるかタマ? 10cc ってバンドの名前の由来だけどな、」
お姉さんを遠ざけた腹いせなのか何なのか、聞きたくもない穢れ情報をノンストップで教えてくれたり(しかもそのバンド名の由来情報ほんとじゃなかったし!)、「女性用下着のエロティシズムについて」といったおおよそ私が今後要り様になりそうにない持論を熱く展開したり。
おかげで、このイベントに関わるビフォー/アフターでは、私の中の桃色知識の量が劇的に変化しました。嬉しくない。
そんななのに、さ。
二時三時まで飲んだくれてたとは思えないきりっとした顔付きで、音響ブースであれこれ操作している姿は、悔しいけれど本当にかっこいい。いや、かっこいい人だからかっこよく見える訳じゃない(ややこしいな)。
仕事にプライドを持っていて、それを凌駕するだけの技術を持っているから、かっこいいんだ。ちなみに、技術云々に関しては私にそれを語れるほどの耳はなく、うちの会社の社長からの受け売りだったりする。その言動と物腰からおネエ疑惑が濃厚な社長だけど、仕事(特に金銭面)に関してはすごくシビアだ。そんな社長から『八雲君なら安心して任せられるわ』と語られるその人。技術的なことは詳しく分からなくても、音きっかけや演出とのタイミングが常にスムーズで、音に関するトラブルもなかったことから、私の中でも八雲さんへの尊敬と信頼は共に過ごしたひと月の間、日々増すばかりだった。――尊敬と信頼、だけでは気持ちが納まらなくなるとは思いもよらなかったけど。
こうして長く時間を共有しなければ、きっと今までどおり『八雲さんかっこいいなー。眼福』だけで終わってた筈だ。なのに、自分でも気づかないうちにこんなに好きになってたとか反則過ぎるだろう、ええ? 神様よ。イベント期間が折り返す頃、いつもなら『よっしゃーあと半分!』ってテンションが上がるとこで、『あれもう終わっちゃうんだ残念』だなんて思うから、自覚してしまったじゃないの。
それからは、フライパンの中のポップコーンみたいに、じりじり焼かれる思いだった。舞台上でマイクテストをする姿に見惚れないように、その時間はなるべく会場内にいないようにしてた。でも、会場の外に設置したモニター越しに『チェック、ワンツー』と低い声が追いかけて来て、耳が聞き惚れてしまったから結局意味なかったのかも。
野外イベント以外は基本インドア仕事だからなまっちろいかというと全然そんなことはなく、重たい機材を自分で搬入出しているその人の半袖Tシャツからのぞく腕は意外に逞しくて、目の毒極まりなかった。
狭い通路ですれ違いざまに体が触れれば、それこそ気分はポップコーン。跳ねて跳ねて跳ねて、――でも向こうはそうじゃないから、「顔赤いぞー。風邪ならうつすなよ」とか真顔で云われちゃう。
女として意識もされないし、いつだって私の扱いは他の女の人へのジェントルなものとは違う、雑極まりないもの(髪の毛ぐっしゃぐしゃにされたり、ほっぺを通りすがりにつままれたりとか)だったから、振り向いてもらえる、なんて思えたことない。けど、せっかく恋するなら両思いがよかった。なんでこんな非生産的な恋なんてしちゃってんだ。
恋することは幸せだなんて最初に云った奴、私の前に出てこい。
と悪態をつきつつ、結局思いは一向に目減りしないのだから、困ってしまう。
長めの髪をいつも上だけ結んでるその人は、飲み屋さんでナンパされることもある。酔うとエロトーク炸裂の八雲さんにしてみたら絶好の機会だろうに、そんな時には何故かいつも。
「タマ」
私に一声だけ掛けて、あとは人差し指をちょいちょいってして。
監視役がいてはお邪魔だろうと思ってせっかく席を外したのに、と思いつつ近付いて行けば、ぐいと肩を引き寄せられて「俺、こいついるから」とナンパしてきた人に宣言して、めくるめく一夜へのチケットは毎回あっさりと手放してた。
「いいんですか」
「なにが、――あ、神の河ボトルでちょうだい、タマは?」
「ファジーネーブルお願いします。――八雲さんの大好きな、お化粧ばっちりおっぱいばいんばいんのお姉さんだったのに、もったいない」
「――タマのばーか」
「なんでっ!」
「ばーかばーか」
「っていうか、手、どけてくださいよ」
「やだもん」
「かわいく云っても無駄ですからね」
「もー。タマのイケズ―。鈍感純情ガールなんだからほんとに」
「意味わかんない」
「分かれよ」
「――」
「分かれよー、タマあのね、俺はねえ、」
「あーもーうっさい酔っぱらい!」
気を回しても怒っても突き放しても、八雲さんにはちっとも効きやしない。肩に回されていた手がするりと滑り落ちたかと思ったら、今度はこてんと頭が乗せられた。
「重い」
「お前ね、そこは『きゃっやだー、八雲さんと大接近☆なんかいい匂いもするー』とか云えって」
「『きゃっ やだー 八雲さんと大接近 ほし なんかいい匂いもするー』」
「棒読みかよ!」
八雲さん相手にときめいてどうすんの、無駄撃ちじゃん。『女はこー、細いくせにおっぱいはでっかいのがいいよね、ちなみに俺の理想はアンダー65のEカップな』ってお椀型にした両手(ゆっさゆっさと揺れる動き付き)で熱く語られてるってのに。ちなみに私の胸はA75だ。大きさを再現する手は、決してお椀型にはならない。
ナンパ→お断り→私を弄る、といった一連のやり取りのたびに、周りも八雲さんも笑ってたけど、私は怒った顔の下でいつも少しだけ泣きたい気分だった。
相手にされない自分が悲しくて、そういう相手として見ないくせに、私を構ってくる八雲さんが残酷に思えて。
なにさ。自分こそ鈍感お下品男じゃん、なんて張り合ってみたところで、ちっとも嫌いにはなれないし。
気持ちを伝えたところで玉砕するのは分かりきってた。八雲さんは大人の人だし、『Cカップは必須』らしいし、私なんかどうせ『タマ』呼ばわりの猫扱いだし。でもどうせなら、云わないで後悔するより、云って後悔した方がいい。そう思って、イベントが終了して、後日行われた打ち上げの一次会会場を出たとこで、八雲さんを引き留めて告白した。
「八雲さんが好きです」
心臓が口から飛び出して今ここで死んでしまう、と思うほど緊張しながら伝えてみても、やっぱり結果は予想通り。
「――お前が、俺を?」とものすごく驚かれた。うん、そのリアクションは私的には『ないわー』と同義語だ。
「あ、いいですいいです結果は分かってますんで。自分の気持ちをお伝えしたかっただけってことで。それじゃ、おつかれさまでした! またどこかの現場で!」
『ごめん、俺お前にはその気になれないわ』も、『お前をそう云う風に見たことない』も要らない。だから、わざわざ受けなくていいダメージを受ける前に諦めをきちんと表明した。
ちゃんとにっこりできたと思う。御挨拶だって駆け足だったけど一応はした。
くるっと回れ右して、歩行者信号が点滅し始めた横断歩道を渡って、――この日のために履いてきたヒールもコケたりしないできれいに小走りして。道の向こう側で赤信号に足止めされた八雲さんがオイコラとか待てとか云ってるけどもう聞かない。
早足のまま駅の改札をくぐって、終った、って思った瞬間。
涙が、だーっと溢れた。
それが夏の終わり。
連絡が来ることを微塵でも期待しないで済むように、そして連絡が来ないことにガッカリしないで済むように、告白した帰りの電車内でアドレスも電話番号も拒否設定にしておいた。でもやっぱり未練が残って、ひと月はめそめそしてた。
もしまた今、このタイミングで現場がバッティングしたらやだな、って思っていたけど、気合いを入れていざ現場に入ってもその姿はいつもどこにもなかった。――毎回、ぷしゅーっと、気が抜けた。
秋になって、ふと思い立って髪を切った。久しぶりのベリーショート。頭が軽くて、すぐに乾くのがいい。案外手持ちの服とも相性がよかったのも嬉しい。
相変わらず八雲さんと会わない現場が続いているせいか、思ったよりも辛い思いをしないで済んでいることに感謝する。
ってか、狭いこの業界で、大体合わせる顔って限られてる。なのにほぼふた月近く会ってないってことに、今更ながら作為を感じた。
現場仕事のない日に事務所へ行って領収書を経理担当に渡して、今日もいい感じにおネエな社長と打ち合わせをしてる合間に、「もしかして、八雲さんと私がかち合わないように調整とかされてます?」と聞いたら、「そうね」ってあっさり認められてしまった。
「――何でですか」と口を尖らす。
振られたけど、だからと云って一緒に働くくらい平気だ。仕事に悪影響なんて及ぼしたりしない。てかそもそも社長は、私の気持ちなんか気付いていない筈だし。――そのはず、だよね。おそるおそる口髭のその人の顔を盗み見る。
「うん、何があったのか詳細は知らないけど、玉木は仕事にプライベート持ち込んだりしないからその辺は僕、信頼してるのよ」と嬉しい言葉を戴く。
「ま、ここ二ヶ月のシフトは、僕的には煮え切らない八雲君にいやがらせの意味も込めてるのよね」
「はい?」
何でもさっさと手早く処理してしまう八雲さんが煮え切らないだなんて、そんなのあるんだろうか。悩みでも抱えてるのかな。
私がちょっとだけ心配して、いやいやもうそう云う感情は潔く捨てようよ! と自分につっこんでいたら、社長が「清瀬君の話だとだいぶキテるみたいよ、八雲君」と楽しげに云う。清瀬君、とは八雲さんが所属している音響会社の社長だ。
「ところで玉木、今彼氏いるの?」
「――いませんよ」
それどころか、やっと失恋の痛手が癒えはじめてきたところですよ。思いきり顰め面したら、「そんな顔したら彼氏が余計できなくなるでしょうが」と、社長がお母さんみたく注意してくる。
「ねえ、だったら明後日、ちょっとこれ行ってきて」と、フッツーに仕事のお使いみたく渡された、飲み屋さんのカード。
「はい?」
「どうせ休みなのに暇なんでしょ。合コンのメンツが足りないんだって。清瀬君とこの若いのとか、俳優志望の子とか来るらしいから、玉木も目の保養しておいで」
「そこで一番かっこいい人を釣り上げておいでとは期待していないわけですね」とハナから成果を求められていないことに苦笑した。
そんな訳で非常に気楽な気持ちで参加したら、なんとびっくりふた月前に振られた片思いの相手と(以下略)。
遅れて参加してきたその人が向かい側の席に着いた途端、シーソーの反対側みたいに立ち上がりたくなってしまった。なのに、ちら、と見られればそれだけで嬉しくなる自分がばかみたい。
「ど、どうも……」
「――よう」
何とか交わした挨拶も、どうやら会話の糸口にはならなかった模様。
社長―、この場で一番かっこいい人が目の前にいますが、目の保養どころじゃないですよー。今すぐここに緞帳をガーン! と下ろしていいっすか。
久しぶりだな、とか、元気にしてたか、とか、社交辞令でも云ってくれればいいのに。
私からは云えないよ、まだ諦めてないのかって思われるのやだ。好意を返してもらうことはもう望まないけど、嫌われたくはないんだ。
間が持たなくて、宴会セットがやって来るというのに思わずメニューに目を通してしまう。
お刺身食べたいな。盛り合わせの奴。出し巻き卵とか大根サラダとかもよさそう。あ、点心あるんだ今度来た時食べよう、デザートも豊富で嬉しいな――なんか喋ってよいいかげん。
まだ振られてふた月のくせに合コンとか、軽い女だって思われたらどうしよう。
いや、別にいいじゃん。もう関係ないじゃん。
私の中でせめぎ合う気持ち。決着がつかないまま、やって来た生グレープフルーツサワーを飲んだら思いのほか苦かった。八雲さんは、何故かまだ飲み物も頼んでない。
会話もなく大変に気まずいここを除いて、合コンはおおよそいい雰囲気で進んじゃってるらしいので、このタイミングで席替えはどうやら出来そうにもない。ならばいっそ酒をどんどん飲ませて八雲さんをとっとと潰して、寝落ちしてる間に帰ろうかな。
好きだった人、にはまだなり切れていない人に、そんな風に思うってどうなの。でも、ずっと不機嫌な顔で黙り込んだまま正面に座られてるのもきつい。やっぱ潰すか。
そう決意して、焼酎をボトルで注文しようと上げかけた手は八雲さんに手首を取られてしまったので、店員さんを呼ぶことは出来なかった。
「ちょっ……!」
離して、と云おうとしていた口は、八雲さんが立って「ご協力ありがとうございました」と合コンのメンバーに頭を下げたことで云えなくなった。ご協力、って?
「別にいいっすよ」
「それより頑張ってくださいねー!」と、次々に八雲さんに飛ばされるエール。展開についていけずにいたら、八雲さんに「出るぞ」と促され、掴まれたままの手首を引かれて立ち上がった。そのまま歩き出して、外に出たところで気付く。
「私、会費払ってない!」
「俺が二人分幹事に渡してある」
「え、じゃあ今清算しますね。お財布出したいんで手を離してください」
「断る」
そう云うと、大幅でガンガン歩く八雲さん。ちょっと、こっちのことも考えて下さる? 長身の八雲さんのペースについてくの、大変なんだけど。
それに、なんか商店街をあっちへうろうろこっちへうろうろと迷走しているように見えるんですが、気のせいでしょうか。
一旦止まってくださいも少しスピード落としても速攻で却下されて、だんだんむかっ腹が立ってきた。聞きたいことならあるよ。それを思いついた順に口にした。
「そう云えば協力って何なんですか? それに何で怒ってるんですか八雲さん、あと何で私、手首掴まれてますかね?」
「協力は協力だ。それよりお前、何髪バッサリ切ってんだよ」
「切りたくなったから切っただけですけど」
「――俺のせいか」
少し弱気なその声を聞いて、さらににむかっ腹が立った。
「別に、関係ないし。女が髪切ったからってすぐ失恋と結びつけるの、やめてくれません?」
離せこのやろーと手をぶんぶん振ってみても、ちっとも手首からその手は離れない。
なんなのよ。いいかげんにしてよ。振ったのはそっちでしょ。これ以上、私の心をがちゃがちゃにかき混ぜないで。
泣きたくなんかないのになんか泣きそう。
早歩き&さ迷い歩きしていた八雲さんがいきなり止まったので、歩くつもりだった私はつんのめりそうになる。すると、ふわりと抱き留められた。
お礼を云って離れようとした。
離してもらえなかった。
「勝手に失恋したとか思ってんじゃねえよ」
なんで。なんでなんで。言葉と抱擁にぐるぐると混乱していると、「お前なんてタマのくせに」とまたカチンと来ることを云われたので、混乱しつつも噛みついた。
「先祖代々から受け継いだうちの苗字にケチ付けないでください?」
「胸のサイズだってAだし」
「うっさい!」
「鈍感だしすぐ怒るし」
「ちょっとそろそろ殴ってもいいですかね?」
ボディに一発拳を決めてやろうかと思ってたら。
「――でも、好きなんだよ」と、にわかには信じがたい言葉に見舞われた。
「はあ?」
思わず、告白した時八雲さんにされたのとどっこいなリアクションを取ってしまった。
え、好きって云った好きって云った。なんで。
「まさかお前に気持ちを返してもらえるだなんて思ってもなくて、うっかりとは云えあんな風に返したあの時の自分を殴りたい」
そう云われて、鮮明に蘇る。――お前が、俺を?
それは、私が考えてたのとはまるで逆だった、というか、今の私状態だったって云いたいの? まっさかぁ。――まさか。
「告白したくせにとっとと諦めやがるし、あの後何回電話してもメールしても繋がんないし、お前んとこの社長は俺の気持ち知ってて現場がバッティングしないようにしやがるし、こんななのにお前が好きだなんて、今更どうすりゃ信じてもらえるんだよ」
困ったような、泣いちゃいそうな、揺れてる声。
信じて、いいの?
信じたいよ。
だって、こんな風に素の八雲さん、はじめてだ。
朝から晩まで(正確には二時三時まで)一緒にいた時期があるから、八雲さんがどんな人なのかは知ってる。
頼れる音響さん。ちょっと私が落ち込んでる時は、客入りまでの時間に私の好きな曲を流してくれた。
酔うと下品なおっさん。でも、ナンパについてくことは一度もなくて。
人を騙したり、騙された人を見て笑ったりなんて、絶対出来ない人。だから。
信じて馬鹿を見てもいい。
もう、いい。意地張るのやめる。
あれからずっとバラバラだった心が一致団結して、答えはもう一つしかない。
でも、真相を聞かされて『なんだよー』とも思ってる心は、もう一度好きだと云えるほどには、まだ素直でもなく。
「キス、すればいいんじゃないですか?」
上を向いてちゃんと顔を見て、とはいかず、ふてくされた顔のまま八雲さんのジャケットの釦を見てたら、おでこにそっとキスが来た。手首をつかんでない方の手が顎をすいっと持ち上げて、啄むキスを何度もされれば、強張ってた心がするりとほどけた。
さっきとはまるっきり違う意味で、泣きそう。と思った瞬間、堪えきれずにぽろりと零れた涙も、八雲さんの唇が吸い取ってくれた。
「それから?」
唇が触れていたおでこと、短くなってしまった毛先とむき出しの耳と、涙が流れた頬と、それから唇と。優しく撫で下ろされて、ようやく素直に甘えたくなった。
「……手首じゃなく、手がいい」
私の手首をやすやす掴んでたおっきな手が、握り拳にしていた手を更に覆うようにして包んだ。
「それから?」
「ちゃんと、名前呼んで」
「あず」
「ちゃんと」
「――明澄」
私のことを正式名称で呼んだだけで、顔が赤い。とんだ純情野郎だ。
「俺みたいな、お前ととおも離れてるおっさんなんて好きになってもらえないと思って、あんな風にハンパに構ってた。年上のくせにちゃんとしてなくてごめん。――好きなんだ」
はっきり云ってくれた。だから私も素直に、もう一度心を差し出した。
「私も八雲さんが好きだから、信じてあげます」
「そうしてくれると助かります」
耳のいい八雲さんには、今の私がまだ涙声なのはモロばれだろうけど、そこには触れずただ抱き締めてくれてた。
思いを確かめ合った後、正気に戻って離れようとすると「駄目。もー離さん」と宣言されてしまった。
「でも、道端だし」
「乗って」
指で示されたのは、私たちがいちゃついてたとこからすぐ近くにあるコインパーキングに停まってた、八雲さんの乗ってるちっちゃくてかわいいミニ。成程、さっきの行き当たりばったりに思えた早足街歩きは、駐車場を探して彷徨ってた&見つかって立ち止まったって訳か。云えよ。
お嬢様のように助手席のドアを開け閉めされた。――なんだか今までとの待遇の差が劇的にビフォー/アフター過ぎて、落ち着かなくてムズムズする。今日だけだよねこんなのきっと。いつまでも続いたら脳みそ煮えてしまうよ。
私がそんな風に悶えている間に、八雲さんは駐車料金の精算をして、小走りで戻ってきた。いささか焦った様子で乗り込んだその人に、「そんなに慌てなくても」と声を掛けると、「あずに逃げられたらやだから」と正直にぶっちゃけられてしまった。
「――さっきから何なんですか」
動揺が、声を震わせる。いい年したおっさんがちょっとテレながら人のことあんな風に呼ぶとか、ほんと困るんだって。かわいいとか、思っちゃうじゃないか。
八雲さんは運転しながら笑う。
「二ヶ月、ずっとすれ違いで云うに云えなかったからな。もう聞いてもらえるんだって思ったら口が滑る滑る」
「滑り過ぎです」
「でも、黙ってて傷つけるのはもう二度とやだし」
それを云われると、それ以上抵抗は出来なかった。私だってやだ。ここ二ヶ月の気持ちを思い出せば胸が痛くなる。けど、今こうして一緒にいられるんだからいいやと気持ちを治めた次の瞬間、そういえば今日の合コン、私は上司命令でだけどこの人は自由意思で参加したんだよね私のこと好きとか云っておいて、と思い出した。なので、なるべく恨みがましくならないように「もう合コンとか、行かないでくださいね」と釘をさす。すると八雲さんも「そっちもな」と返してきた。そこは、『分かった』って云っておくべきでは?
「仕組まれ合コンだって分かってても、あんな場にお前に出て欲しくない」
「もちろんもう出ませんけど、仕組まれって、もしかして今日の会合って、」
ご協力ありがとうございましたと頭を下げた八雲さんと、あたたかいエールを送ってたっぽい参加者。その答えは。
「俺が、会社の若い奴に頼んだ。お前んとこの社長通じてお前に声掛けてくれって。俺は用事あって後から行くから、他の男絶対宛がうなって」
う、わ――……。
駄目だほんとに脳が煮える。顔もきっと赤い。夜でよかった。でもきっとばれてる。
矢継ぎ早にそう思っていたら、信号待ちでハンドブレーキを引いて、また私の顔の右側を擽る手。こそばゆくて肩を竦めると、無防備な耳元で「好きだよ」と囁かれた。
云うだけ云って、ハンドブレーキを解除する。鼻歌なんか歌ってるぞチクショウ。こっちは、囁かれた方の耳を手で蓋して、狼狽えてるって云うのに。
「――っ、突然云われるこっちの身にもなってください!」
「あずも、云っていいよ」
「云えるかあ!」
そんな風に噛みついてないと、また泣いちゃいそうだ。
私とは裏腹に、視界に入る八雲さんの口は、嬉しそうに緩んでる。
慌てて目を逸らしても、街灯さえもキラキラ輝いて見える。恐ろしいぞ両思いマジック。
シートの上でグーにしていた手は、信号待ちになるたび八雲さんに包まれてるし、なんて云うかその。
いつかの前言、今ここで全部撤回します。
恋することは幸せだと、しみじみ実感中。
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15/01/23 誤字訂正しました。
15/02/07 誤字訂正しました。