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ゆるり秋宵  作者: たむら
season1
24/47

フォルテシモ・ピアニスト(後)(☆)

 去年コンサートのリハを逃げ出した彼の気持ちが今ならわかる、なんて思いつつ、云われたとおり一足先に身支度を済ませた後、薄暗くて狭い廊下を歩く。ミーティングと着替えのための部屋へと戻る仲間のスタッフとすれ違うたびに『頑張ってね』といくつも激励を受けつつ、とうとうその扉に辿り着いてしまった。

 こんこん、と私がしたノックは思ったよりも頼りない音で、もう一度した方がいいかなと思っていた矢先、中から「どうぞ」と声を掛けられた。

「失礼します」とドアを開けて中に入って、ドアを閉めて向き直って、一礼。彼女ほどエレガントじゃないけど、仕事で厳しく指導されているし、彼よりはきちんとしているはず。

 顔を上げると、ざっくりした黒の薄手のセーターとスキニージーンズといった格好に着替えた彼女と目が合う。っていうか目線で刺されまくってる私。痛い痛い。

 長いことじろじろ見られてから、ようやく彼女が口を開いた。

「彼、どんな子と付き合ってるのかと思ったら、本当に普通の子なのね」

「……はい」

「凡庸って云われない?」

「はあ」

『普通の』人はふつう、そんなに明け透けには人の顔の良しあしについて面と向かって云わないからなあ。

 当惑していると「座って」と彼女のすぐ横に置かれたパイプ椅子を示された。

「失礼します」と腰掛けると、また目線で刺される。見られたところがちりちりとしているみたいに感じてしまって、少しでも体を隠したい気持ちで、膝の上の手を重ねる。そんな様子までしっかりと見られているのが分かった。

「普通の容姿の、ただの普通の女の子」

 歌う調子で、でも多分ひどいこと云われてるぞ。

「彼とは違うレイヤーに生息しているはずの」

「違わないです」

 思わず、口を挟んでしまった。でも止めないよ。

「同じところにいます。私に音楽の才能は、ないけど」

 てっきり、『口を挟むんじゃないわよ小娘!』だとか、『人の話を聞きなさい!』って怒られると思っていたのに、彼女は整った眉毛をぴくりと動かしただけだった。

「じゃあ聞くけど、あなた彼のどこが好きなの?」

「――ほっとけないとこ」

「は?」

 彼女が今度こそ盛大に怪訝な顔をしたけど、『彼の好きな所』をあれも好きだしこれも好き、って思ってた私はそれどころじゃない。頭の中で散々ピックアップして、それから厳選したそれを口にした。

「かっこいいのに情けなくて、優しくてでもちょっと自分勝手なとこ、――です」

 うわ、云ってるうちにどんどん恥ずかしくなってきた。じわじわと顔に熱さがのぼってきたのを感じる。

「ああ、そう」

 せっかく恥ずかしい思いをしてまで教えてさしあげたと云うのに、質問してきた当の本人は丸いライトがぐるりと囲んでいる鏡の前のテーブルに頬杖なんかついて、足を組んでこっちを見ている。目線攻撃をやめて、どこか面白そうに。

「『王子様みたいだから』とか『指が奇麗だから』なんて云う普通の答えだったら張り倒してやろうと思ってたのに、つまんない」

 おっと、命拾いしたらしい。今更ドキドキしながら、鏡の方を向いてしまった奇麗な彼女の奇麗な横顔を見つめた。

 艶やかな口紅の引かれた唇が小さく動く。

「私が何を云ってもこっちと同じテンションでは相手をしてくれない彼に、付き合ってる間中、私はずっと苛々してた。ピアノはあんなに激しいくせに、いつも困った顔してる彼の弱気が嫌だった。――でもあなたは、そこが好きなのね」

「はい」

 自信を持って頷く。他は何一つ自信なんか持てない私の、唯一。

 気持ちなら、誰にも負けない。王様にだって、女王様にだって。

 そんな思いでまっすぐ見つめれば、「大丈夫よ、過去の男の今の恋人なんか、取って食ったりしないわよ」と鏡越しに目があった彼女に肩を竦められた。

「あの優男が選んだ子を見てみたかっただけ。悪かったわ、お詫びを用意したから持ってって」と云われて慌ててしまう。

「いえ、別に私は何も」とあたふたしていると、なんだか廊下がざわざわしだして、そしてちょっと乱暴な足音がして、ノックもなしにドアが開いて、――。

「はい、『お詫び』」

 いたずらが成功した、と云いたげに人の悪い笑顔になった彼女が手で示したのは、ふわふわの前髪と息を乱して、鋭い目つきで彼女を睨んでいる彼だった。

 開けた時と正反対にそっとドアを閉めて大股でこちらに近付くと、彼は私の手を引いてパイプ椅子から立たせて自分の後ろに隠した。そして、座ったままの彼女に「――どういうつもり?」と苛立ちを露わにして詰め寄る。

「別に、楽しくお話ししていただけよ」

 ねえ? と促されて、『楽しく』という部分に若干疑問を感じつつもこくこく頷いて見せたけど、彼は信じてくれなかった。

「君が僕をどう思おうと自由だけど、この子を巻き込むな」

「そんなに大事?」

「ああ」

「ピアノと同じくらいに?」

「もちろん」

 挑発する彼女に対峙している彼は、いつもと全然違う。うちに結婚を申し込みに来た時とも、違う。

 大事にされてるし言葉もたくさんもらってるけど、こんな風に強い口調で云われたのは初めてだ。その上、きっと彼女に呼び出されてここに来てくれた。――忙しいのに。

 ほんとは今日、こっちに帰って来てるけど遅くなるから会えないって云われてた。なのにここにいると云うことは相当な無理をしたと云うことで、さっきから彼の上着のポケットからずっと聞こえているマナーモードの音は、多分マネージャーさんからの呼び出しなのだろう。ごめんなさい、とすっかり親しくなったその人に心の中で謝る。それから。

 ――そんな場合じゃないのに、彼の言葉と行動が、なんだか嬉しく思えてしまった。じっと見つめていた彼から目線を外した彼女は、頬の緩みがどうしても抑えきれない私に向き直り、「ですって。よかったわね」と優雅に笑んだ。そして、「もういいわ、こっちの用は済んだし私も忙しいから、二人ともとっとと帰ってちょうだい。ご苦労様」と女王然とした彼女にひらひら手を振られた。この様子だと電話かメールでよほど脅かされていたのだろう、さっきまで息巻いていた彼が状況の変化について行けずに険しい顔から一転、思いきりぽかんとした。


「ごめんね」

 関係各所にお詫びを入れて、マネージャーさんから電話越しにこっぴどく怒られてしゅんとして、それから彼はようやく私の手を繋いだ。

「何が?」

 二人で、駅に向かって歩いている。駅前じゃないとタクシーが捕まえにくいから。やだな、今日会えると思ってなかったから、ピーコックブルーのVネックセーターに黒のカーゴパンツ、モッズコートにコンバースと云った、思いっきり気の抜けたスタイルだ。さっきのピアニストの彼女ほど整っている人ならシンプルな格好も際立つだろうけど、何と云っても私は『普通』だし。ふんだ、ちょっと根に持ってるんだから。普通で悪かったねー、だ。

 でもあの女王様みたいな彼女のおかげで今日、彼に会えたし。彼の本音(別に、新事実はなかったけど)も暴露してくれたし、感謝もちょっとだけしてる。


 歩きながら、隣を歩く彼の顔を盗み見る。――ひと月ぶり、くらい。なんだか少し痩せた。外食続きとホテル生活と移動に注ぐ移動のせいかな。そう思うと会えたのは嬉しいけど、ゆっくりと体を休めるはずの夜が呼び出されたり心配させたり怒らせたりになってしまって、申し訳ない。

 髭がうっすらと伸びてる。触ってみたいなと思っていたら、「どうしたの? 僕の顔に何かついてる?」って気付かれた。

「髭が」

「ごめん、髭剃る余裕もなく来たもんだから、むさくてごめんね」

「そんな風に思ってないよ」

「それならよかった」

 笑う顔、やっと見られた。よく見れば彼も私と同様カジュアルで、しかも若干ヨレ気味だった。いつもは、きちんとしたおしゃれさんなのにね。さっきまでそんなことに気付けないくらい、実はいっぱいいっぱいだったか、私。

 繋いだ手をきゅってしたら、彼もきゅってし返してくれた。 

「こんな形になっちゃったけど、君に今日会えてうれしい」

「うん」

「そのかっこ、初めて見るけどかわいい」

「……ありがと」

 私から指を絡めたら、抱き締めるように絡め返された。心が温かくなる。やさしい気持ちで、いっぱいになる。それからようやく、最初に云うべき言葉を思い出した。

「おかえりなさい」

「……ただいま」

 しみじみと口にしてそれから、もう一度「ただいま」って云ってくれた。


 ああ、いいなあこんなの。

 忙しくしてた彼が、どんなに遅くても一番に私に『ただいま』って云ってくれて、私も一番に彼に『おかえりなさい』って云えるの。――あ。

 その気持ちに、思わず口に手をやり、足も止めてしまった。当然、私と手で繋がっている彼は急に立ち止まってしまった私にすぐ「どうしたの?」と声を掛けてくれる。


 どこに潜んでいたの、やっと見つけたよ。

 かくれんぼの上手なお友達みたいに、ずっと見つけられなかった気持ち。

 覚悟とも云う。自覚とも云う。自信だったり、確信だったりもする。

「あの、ね」

 その言葉を口にするって、こんなに心臓がどきどきするんだ、って思いながら、私の顔を覗き込んでいる彼に、震える声で小さく云う。

 ――結婚、してください。

 そう伝えた瞬間、彼は瞬きすら忘れたように、固まってしまった。それから私が『頼むから、何でもいいからお返事して!』と思う程度に時間が経ってようやくフリーズのとけた彼が瞬きをして、深く一度息を吸って吐いて、それから恐る恐ると云った様子で声を掛けてきた。

「――本気、なの? その、」

「うん」

 あっさり肯定すると、彼は「え、ちょ、ちょっとまってちょっとまって、落ち着くから今!」と今まで見た中で一番動揺していた。


 繋いだ手はそのままに、気持ち顔を上に向けて、目を瞑ったまま、すう、はあと何度も深呼吸して。いつも、コンサートの最初にやる緊張を解くおまじない。ファンの人には『神が降りるのを待ってる瞬間』と勘違いされているらしいその仕草。――って、緊張してるの? 母に云われるまでは散々あんなに強めに押してきてたくせに、急にここでへなちょこになるなんて。

 少ししてから、閉ざされていた彼のまぶたが開いた。慌ててたのとか気弱だとかを全部落ち着かせた静かな湖みたいな目が、茶色いふわふわの前髪の向こうから私をじっと見る。私も見つめ返す。

「いいの? もっともっと慎重に考えてくれたっていいんだよ?」

「私なりに考えましたよ」

「結婚て簡単な紙切れ一枚の契約じゃないんだ。周りを巻き込むし、魂と魂を結び付けて一生離さない契約だよ」

「ロマンティスト」と笑っても、彼はムッとすることもなく、「それくらい大事なことだから」と譲らない。

 へなちょこなのに、頑固なんだから。音楽家なんて面倒な生き物。その面倒さ加減が嫌いじゃない私も、実はおんなじくらい面倒な生き物なのかもしれないけどね。

 それにしても、私のようやくの前向きな言葉をいつまでたっても喜んでくれない彼にだんだん腹が立ってきたぞ。

「それで結局私と結婚したいのしたくないの、どっちなんですか?」

 私がぶっきらぼうに言い放つと、「したいにきまってる」とややむくれた様なお返事が来た。

「でもあんなこと聞いたら、もう君を手放す事なんて出来なくなる」

「いいですよ」

「だって僕はきっと君を束縛する」

「今、されてないとでも?」

 そう返すと自覚は当然あるようで、言葉が詰まった。充分されてると私も思うよ。付き合うに至るまで囲い込まれて、周りに認めさせて。でも、私が嫌じゃないやり方でしてくれてたって分かってる。

「……きっと、今以上に」と懺悔する彼に、「されたくなかったらとっくに逃げてますから」と、少しかさついた唇に私からキスをする。背伸びしたら、腰を支えてくれた。

 道端なのを思い出して早々に離れると、残念そうな顔をされてしまう。その様子が年上の人なのにかわいらしくて、くすりと笑ってしまった。

「二人のこれからも、楽しく楽しく、楽しくしましょう」

 彼のお気に入りのおまじないをアレンジしたら、泣きそうな顔で「うん」と云って、小さい子のようにこくりと頭を縦に振った。そうすることで、ふわふわな前髪が揺れる。


 結婚する意志は固まった。まだやっぱり時期は未定。

 でも、今まではどこか『乗り気じゃなくて申し訳ないなあ』と及び腰で聞いていた結婚にまつわる話を、これからはこちらも楽しみながら交わせることだろう。

 すっかり止めてしまっていた足を、再び駅方面に向ける。繋いだままの手に、きゅ、きゅっとリズミカルに軽く力をこめられる。ごきげんな時の彼の癖。疲れた顔も、彼女の仕掛けたサプライズと私からの『結婚しましょう』で吹っ飛んじゃったみたいで何よりだ。でも早くおうちに帰さないとね。そう思ってたら駅でバイバイしようとしていた気配を感じ取ったのか、「今日は帰らないで」と彼に懇願された。

「うちに来て。ただ傍にいるだけでいいんだ。隣で眠って、朝を一緒に迎えたい」

 そう云われて、急いで明日の予定を頭の中で浚ってみる。日曜だけどバイトはなし、久しぶりにちょっとゆっくりしてから予定が会えば彼と会いたいなと思ってたから。

「はい」

 答えた瞬間、タイミングよく通りかかった空車のタクシーを駅まで行かずに彼が捕まえて、私も同乗することになった。


 久しぶりの彼のおうちで、まずはと彼が大急ぎでお掃除をして――ピアノを弾ける防音の部屋なので、夜でも掃除機が掛けられる――、私がお湯を沸かしてカップスープをマグで溶いて、冷凍してあったパンを焼いてスープに浸しながら二人で食べた。

 シャワーばかりで日本式お風呂が久しぶりの彼の長風呂を、疲れて湯船につかったまま寝てないよねと心配しつつ待った。上がってきた彼は「少し寝ちゃった」と正直だ。こら、と叱っても嬉しそうにしてる。

「眠かったら先に寝て下さいね」と一声かけてから私もさっと入った。


 上がってから歯磨きやらスキンケアやらも済ませて、それからようやく足を忍ばせて再び寝室に入ると、彼がベッドで横になって、半分目がくっつきそうになりながらも「おかえり」って笑う。

「寝てていいって云ったのに」とかわいげなく云うと、「せっかく久しぶりに一緒の夜なのに、おやすみなさいも云えないのはやだったから」と理由を教えてくれた。そんな彼の横に滑り込めば、当たり前のように腕の中に閉じ込められる。そのまま、あちこちにキスを落とされた。そして、おでこに唇を付けたまま、いつもよりゆったりなテンポで彼が話す。


「タキシードは着るとどうしても気持ちがステージモードになっちゃうから、できればフロックコートとかがいいなあ」

「え、でも私タキシード姿も好きなんだけどなあ」

「それはこれからコンサートで、いくらでも見せてあげるから。……君は何でも似合いそうだね」

「ドレスなんて着たことないから、想像もつかないです」

 ドレスのカタログも時間もたくさんあるからたくさん悩もうと、目をつむったまま彼は笑う。

「でもほんとは、早く結婚式をしたいけど」とこっそり本音を教えてくれた彼に、「続きは明日に。おやすみなさい」と声を掛けたら、「……おやすみ」と云って、ようやく寝てくれた。

 意外と頑固なんだよなあ、と再認識しつつ、彼がまた暴走しないように、でもしゅんとならないように舵取りをしていこうと決めて、私も目を閉じた。


14/12/22 誤字訂正しました。

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