フォルテシモ・ピアニスト(前)(☆)
「クリスマスファイター!」内の「ピアノドルチェ」及び「如月・弥生」内の「グリッサンドの魔法」の二人の話です。
「タキシードは着るとどうしても気持ちがステージモードになっちゃうから、できればフロックコートとかがいいかな」
普通、日本の男の人はそんなものを着る機会ってそうそうないと思う――結婚式でもない限り――けど、私の恋人はピアニストなので例外中の例外だ。コンサートでのタキシード姿を見るたびに、まだどきどきしてしまう。
タキシードを着ていない彼にも日々どきどきさせられているということは、まぁおいといて。
「君は何でも似合いそうだ」
ドレスのカタログも時間もたくさんあるからたくさん悩もうと彼は笑う。
パーティーにでる訳じゃない。
彼と私の結婚式で着る衣装について話をしていたところ。
といっても、結婚式が具体的な日にちで決まっている訳でもない。私は学生だし、いずれ結婚するにしても就職だって普通にしたいし。それに。
何と云っても、まだ結婚なんてリアルに思い描けない。――自信もない。
なのになんでそんな話になっているかと云うと、その自信のなさだとかリアルに思い描けなさを付き合い初めと同様、逆手に取られた形だ。
『いつでもいいよ。でもいつか、君の中で僕との未来を真剣に考えられるようになった時に、結婚して欲しい』
そう、告げられた。
『僕は普通のサラリーマンじゃないから収入も生活サイクルも不規則だ。コンサートであちこち飛び回るし、レコーディングが続けば君をさびしくさせる事もあると思う』
わざわざ、マイナス面まで提示して。
『それでも、ちょっとでも可能性があるなら、どうか』
手を取られて、両手で包まれて懇願された。
だいぶこの人の情熱的スキンシップには慣らされたつもりでいた、けれど。情熱的プレゼンと合わせ技で来られたら、まだまだ未熟者の私はあっさりと気が動転してしまう。
『え、えっと、その、』
『嫌なら無理強いはしないから』
『やじゃないです、でも!』
『よかった』
晴れやかに笑うその人に、ああ、また一つ何かを籠絡されたと分かった。
『すっごく待たせちゃうかもしれないんですよ?』
『構わないよ、待つ時間だって楽しめるさ』
『散々待たせた挙句、『ごめんなさい』になるかもしれないんですよ?』
『それでも、君と過ごせる時間が長ければ長い程僕は幸せなんだし、その先にあるものが何であれ、後悔なんてしないよ』
好きな人にそこまで云われてしまって、それでも拒否できる人なんてきっといやしない。
それにしても、結婚ねぇ。
まだ身近に挙げる人もいないし、ピンとこないったらありゃしない。でももちろんいつかは、って思ってる。――いつかは『だれかと』じゃなく、彼と。でもそれが例えば半年後なのか明後日なのかは、まだ分からない。
それから時々、彼は強めのプッシュを掛けてきてた。毎回じゃないところがあざとい。しかもちょっと強めのアプローチだったなあと内心怖気付いていると次はちゃんと手加減してくれるところが、やっぱり大人だ。そう、思っていたのだけど。
私の返事をもぎ取った後、結婚の申し込みをしに我が家にやって来た彼――とりあえず体が空いているうちに、と慌ただしく来たので、あいにく父は出掛けていて不在だった――に対して、ずっと味方だった母が予想に反して思いもかけない反応を見せた。
「聞かなかったことにします」
賛成でも反対でもなく、母はそう告げた。
「この子に、その気も覚悟もまだない以上、囲い込みに加担するような真似は親として出来かねます」
せめて婚約という形を取るだけでも、と食い下がる恋人に、母は日頃見せない厳しい顔をした。
「あなたが自分の気持ちよりこの子を優先するつもりならば、そんな言葉も出てこない筈ですよ」
途端に、しゅんと俯いてしまう彼。隣に座っていた私が、テーブルの下でそっと手を繋ぐと俯いたまま少しだけ笑った。そして。
――再び前を向いた時には、ピアノに対峙している時と同じ顔をしていた。
「仰るとおりでした、焦りから自分の気持ちばかり押しつけてしまいました。――彼女の気持ちが固まってから、また改めて御挨拶に参ります」と、私の好きな、あんまり上手じゃないあのお辞儀をソファに座りながら母に向かってひょこんと披露した。
それを受けて母は、いつものようににっこりと笑う。
「そうしてあげてね」
「はい」
それでこの話は終わりとばかりに、母はぱっと話を切り替えた。
夕方、我が家を辞した彼をお見送りがてら、車を停めてたコインパークまで二人で歩いた。
「ごめんなさい、母があんなこと云うだなんて」
私が謝ると、「僕こそ、大人のくせに本当に駄目でごめん。君のお母さんに云われて気が付いたよ。――今までとは、違う。君が僕の望む方を選ぶように誘導するのは、結婚に関してはしちゃいけないことだった。だから、今後は一切控える」
その言葉に、彼から距離を置かれたように感じてしまって、途端に寂しさを感じた私に彼は「でも、普通に恋人としてデートもお泊りもしてもらうし、君に厭きられないようにこれからもちゃんと口説くからね」と笑った。よほど、心細い顔をしてたかな。
あの時、あれよあれよと流されていつのまにやら結婚、にはならなくてよかったと思いながら、スーパーでベビーカーを押すお母さんを見送る。お腹の大きな妊婦さんに、電車で席を譲る。結婚したら、自分も当たり前にそうなるかもしれない未来。
彼と同じベッドで眠る夜もあるからもちろん避妊はしているけれど、万が一と云うこともある。一〇〇パーセント完璧な避妊なんてないから、毎回ちゃんと生理が来るたびにホッとしてる。もし出来ちゃったとしたら喜んで責任を取るよと彼は云ってたので、その点は安心出来る、けど。
問題は、私だ。
今すぐにお母さんになるって云う覚悟は、ない。結局、就職も結婚も妊娠も出産も、私には全部ふわふわな想像の向こう側にあるんだ。
だって私はまだ学生で、恋人がいるってだけで精一杯なのにそれが年上のピアニストでちょっと人気のある人でなおかつ結婚を望まれているだなんて、手に余り過ぎる。たまに、提示されたカードを『わあああっ!』て手で全て払ってしまいたくなる時も、これでいいのかなあって、迷うこともときどきある。自分で選んでいないような、楽な方へ楽な方へと、ただ流されてきているような気がして。実際、岐路に立つたび、彼が手を引いてくれるのを、『こっちだよ』と甘く囁いてくれるのを、私はずっと当たり前に受け入れてた。
彼のことは好き。これだけは自信を持って断言出来る。でも、結婚てきっと『好き』だけで決めちゃ駄目なことだ。
後少しで、出会った季節がまた来る。まだ一年足らずなのに、激変してしまった自分。彼と結婚するまでに、ゆるぎない自信と、確信が得られたら、と願う。
彼の隣に相応しい人に、なりたい。
でもどうやってなったらいいの、そんなの。分からないけど、でもこのままただ彼に守られて、愛されてるだけなのは、嫌だ。
もらった分だけお返し出来るだとか、彼と肩を並べるとかは思ってないけど、一方的じゃない関係を築けたら、少しは違うのかな。
悩んでいても何にも解決はしないから、まずはとこの秋から大学で英会話サークルに入った。とりあえず、英語がもっと上手に使えるようになれば少しは役に立てるかも、なんて思って。
それと、今まで講義をどこか気が抜けた感じで受けていたけど、資格を取れなくてもこうやって教わったことがいずれ教養として身に付くのならと、真面目に受講するようになった。
自分一人の為にそう出来なかったのが、ちょっと残念。
相変わらずコンサートホールでのチケットもぎりのアルバイトも続けて、講義を受けて、時々甥っ子と遊んで、サークルに参加して。充実しているはずなのに、どこかに心を置き去りにしたみたいに、気ぜわしい日々を送っている。
いつもなら『無理をしないで、ほら、肩の力を抜いて』って、私と向い合わせに立って肩に手を置いて、笑いながら一緒に深呼吸してくれる彼は、只今海外にて演奏旅行中だ。お付き合いを始めてからこんなに離れているのは初めてで、寂しさを埋める為に自分は忙しくしてるのかもって思う。
空いた時間で連絡を取ろうにも、時差や移動もあってなかなかうまくいかない。こういうことか、と実地で『音楽家を恋人にするということ』を知る。
それでも彼は、メールも絵葉書も(時には現地から宅配便でプレゼントも)私にたくさんくれるから、メールや時折交わす電話で、『さびしい』じゃなく『ありがとう』って伝えられることがひっそりと嬉しい。
彼と出会った例のホールで、例のごとく会場ご案内係を務める日。
コンサート前のスタッフミーティングで、チーフ格の先輩から「あなたは扉前対応から、会場内一L一扉に変更」って急に告げられた。――デジャブ?
あんまりこんなことないはずじゃなかったっけ、って首を捻りつつ承諾すると、「今回も上の上の上ーの方からのお達しらしいけど、ほんとに何したの?」と、人差し指を上に向けたゼスチャー付きで苦笑された。
何もしていない、とはもう云えない。そのことを、先輩はじめスタッフはみんな知ってる。困った顔をしているだろう私に、先輩はそれ以上の詮索はせず「それでは今日もがんばりましょう。解散!」と手を叩いてミーティングを終えた。
若干の緊張を感じつつ、今日の出演者であるピアニストの女性のチラシを開場前のホワイエで手に入れた。――目元が涼しげな和風美人さんだ。年は彼より少し上、かな? なんて、判断基準がすっかり彼になっている自分に苦笑する。
そして今日の自分の持ち場である会場の内側の扉前であれこれ――お席の場所やお手洗いの場所のご案内、この近くにカフェやレストランはあるかといったお問い合わせやブランケットをご所望の方への対応、等々――しているとあっという間に時が経ち、開演五分前の一ベル、そして開演のベルが鳴る。
カツ、カツとヒールの音を鳴らして、真紅のドレスに身を包んだピアニストが舞台上に現れると、途端にうわんと空気がうねるような、熱気のこもった拍手が会場内を包み込む。それをエレガントに一礼して受け取って、彼女はピアノへと向かう。――その前に、鋭く視線を投げられたのが分かる。
ああ、これが『僕の過去の恋愛事情』か、と実感した。
『清廉潔白ならよかったんだけど、残念ながら僕は君と出会う前に何人かの女性と恋をしてた』
きちんとお付き合いして随分経ってからのある夜、懺悔するみたいに私の前で項垂れる彼。
『その年で未経験の方がどうかと思いますけど』と本当の気持ちを伝えても、『優しいね』なんて弱弱しく云われてしまう。
『別に他人から後ろ指を指されるような事はしていないつもりだけど、僕の過去の恋愛事情が原因で君に嫌な思いをさせてしまうこともあるかもしれない』
『やだなあ、大げさ!』
その時はそう笑ったのだけど、もしかして笑い事ではないのかも。
程よく空調が聞いている会場内で、ユニフォームであるネイビーブラックのワンピースの半袖から出ているむき出しの腕が、すっと冷えた。
彼とお付き合いするようになってから彼のCDは繰り返し聞いてはいるものの、相変わらず私はクラシックに詳しくない。だけど、舞台上のその人の弾いた曲は激しくて、強くて、そして奇麗だった。
演奏を終えた彼女が舞台袖に消えるまで送られた称賛の拍手と、消えた後も『早く! 早く!』と鳴り止まない再登場を促す拍手を受けて、女王の笑みを湛えた彼女が再び舞台上に現れてアンコールで披露したのは、――彼が去年のクリスマスのコンサートで弾いた一曲、だった。とても好きなんだ、と宝物を見せてくれるみたいに教えてくれたその曲を、彼女も好きなのだろうか。彼とは全く違うけれど、でも彼女のアプローチも素敵だな、と思ったその小品の演奏を終えると、深々とエレガントにお辞儀をして、今度こそ本当に彼女が舞台袖に消える。会場内に灯りが戻り、夢から覚めた人々が席を立ってゆくのを、「ありがとうございました」とお辞儀してお見送りした。
最後のお客様が出て行かれた後、客席チェック――席の上や下や通路にお忘れ物や不審物がないか――を終えたタイミングで肩を叩かれる。振り向くと、先輩が「お疲れ」と声を掛けてくれた。
「『上の上の上ーの方』から、お呼び出し。タイムカードはこの時間までで記入しておくから、着替え済ませて私物も持って、楽屋に行ってくれる?」
「――はい」
うわあ、気が重い。