こわがりメモリーズ(中)(☆)
こうして散々だった旅は最後に優しく掬い上げられて、俺は無事に日本に帰る事が出来た。
家に着いて、とーちゃんとかーちゃんに「まったくあんたは心配ばっかり掛けて!」って怒られて、「お世話になったって方に持っていきなさい」って、おせんべいの詰め合わせを渡された。――フレンチのシェフに渡すもんとしてこれってどうなの、と思ったりもしたけど。
心配掛けて、の言葉の裏にはきっと旅行だけじゃなく、駄目になってしまった恋の後ゾンビみたいになってた俺自身も含まれてる。
だから、「うん」って受け取った。
仕事もせずに、と云われそうだけどゾンビの俺を知ってる家族は決して俺を急き立てないでいてくれた。ありがたい。
毎日、ぶらぶらとフレンチを食いに行く日々。ナオさんのお店の名前を知って、検索すればすぐにどこにあるか、どんなお店なのかを知る事が出来た。そのお店の評判も。それで、おせんべいは日持ちもするしすぐには訪れずに、俺は最初行くつもりじゃなかった都内の有名フレンチ店へとジャケットを着こみ革靴を履いて通った。
お店の雰囲気、内装、料理を五感を使ってフルに味わって、ギャルソンのサービスも、給仕長もソムリエもじろじろ見た。きっと嫌な客だよな。
本をたくさん読んで、美術展やクラッシックのコンサートに足を運んで一流と呼ばれるものにじかに触れて。付け焼刃でも、ないよりはいい。高カロリーなものを毎夜食っていたので、腹が出ないようにランニングもした。落ちまくりだった体力もついて一石二鳥だ。
そうしておせんべいの賞味期限と貯金が僅かになった頃、ようやくナオさんのお店を訪れた。
「ドーモ」と声を掛けた時のナオさんの顔、俺忘れないと思うね。カウンターの向こうでぽっかーん、てしてた。
それから、「おや、大矢君。元気そうでなによりです」って澄ましてたけど、我慢出来ない様子ですぐに吹き出した。
「どうやって調べたんですか、ここ」
「とある筋からの情報としか云えません」とそらっとぼけると、「まったく、マダムは」ってあっさりとバレた。
「これ、うちのかーちゃんからです」とおせんべいの包みを渡せば、「これはこれは、わざわざありがとうございますとお礼を云っておいて」とちゃんと受け取ってもらえた。
「せっかく来たんだから、何か食べて行くかい?」とカウンター席を勧められて、懐かしのポトフやら、ソーセージやチーズの乗ったサラダ、最後にデザートのプリンまでしっかりと平らげた。料理の間に赤ワインを飲んだ。食後にはコーヒーも。
一人でその小さな店を切り盛りしているナオさんの出すものは、有名店とは趣が違うけれどどれも本当においしくて、ポトフなんかマダムの味が忠実に再現されていて感激した。
平日の夜なのに、常連らしきお客さんもそこそこ入っていて、色んな意味でホッとする。――ここに来るまでに膨らんでいた気持ちが、またぐんと前のめりになったのが分かった。
閉店時間を僅かに過ぎて、俺以外のお客さんがいなくなった頃合いでお会計を済ませて、俺はまたナオさんがぽっかーん、てするような事を口にした。
「俺をこの店のギャルソンとして雇ってください。お願いします」
半分、勝算はあった。
いくら小さな店と云えども、たったひとりで丁寧に料理を作り、提供している現状では満席になったらちょっとばたばたしそうだ。そう聞けば、痛いところを突かれたと云った顔のナオさんが、一言「そうだね」と認めた。『きちんとしたサービスが提供できないから』という理由で入店をお断りされたと云う口コミを読んで、満席でもないのに断るなんてすごくもったいないなと思ったんだ。その人がまた来てくれるかと云ったら、ちょっと微妙なとこだ。
よし、ぐらついてるとこに付け込むぞと、さらにも一つ先回り。
「俺、ナオさんに恩返ししに来たんじゃないです。困ったらいつでも電話してって云ってくれましたよね? 無職でチョー困ってます。見習いで、どうかお願いします!」
ナオさんがきっかけで、今までまるで縁のなかったフレンチに興味を持った。
お店に行く前にまずは予習をと、レストランで働く人々に触れて、『これだ』って思った。
もしナオさんの料理を食べて残念なクオリティだったら、おせんべい渡してお礼だけ云って、それで終わりにするつもりだった。喜ばしい事に、食べたら『ここで働きたい』と云う欲が出る味だったのが、決め手だ。
いつまでもずっと腰を折ったままでいたら、「頭、上げて」とナオさんが云う。その通りにすれば、今まで見た事のない厳しい顔したナオさんがいた。
「確かに人手は欲しいけど今のこの店じゃ、せいぜいアルバイト程度のお給料しか出せないよ」
「かまいません、見習いならそんなもんですよね」
「今はそれでよくても、五年後一〇年後はどうするつもり?」
「ナオさんのこのお店が今よりもっと繁盛して、なおかつ俺のサービスを認めてもらえた暁には、きっとそれに見合った給料をナオさんは出してくれると信じます」とハッタリ込みでそう強気に云えば、ナオさんは『なるほど』って顔の後、すぐに『コイツ』って顰め顔してた。
咳払い一つしてまた難しい顔を拵えてから、ナオさんが仕事に関するマイナス面を並べ立てる。
「拘束時間は長いよ。それに、終わるのも遅いから会社勤めしてる他の人と生活時間帯がズレる」
「かまいません。学生時代には夜中の道路工事のバイトしてたんで、それに比べれば全然いいです」
「土日もクリスマスも休めないよ」
「かまいません」
「何でもやらせるよ、料理以外は」
「お願いします」
そう云うと、ようやく本気だって分かってくれたみたいだ。
今まで厳しい顔をしてたナオさんが、ふ、と笑う。
「知り合いだからって甘やかさないよ。もう君は『大丈夫』みたいだから、あの時とは違って」
――それはすなわち、採用するって事だ!
「宜しくお願いします、シェフ」
「うわ、なんかそれ照れるね」
「慣れてくださいシェフ」
その後も呼ぶたびにいちいち照れるナオさんに、ツボった。
それから、にこやかだけど仕事にはえらい厳しいナオさんから、一つひとつ仕事を叩き込んでもらった。ナオさんの求めるクオリティにはなかなか到達出来なくて、正直つらくて何度か泣けた。でも辞める気なんて一度も起きなくて、むしろ『クッソ早く一流のギャルソンになってナオさんがハンケチ噛み締めて悔しがるほど給料ぶんどってやるしー!』って方向に気持ちが突き進んでた。
接客は楽しい。今までそういうバイトはした事なかったけど、そういや学祭の売り子は毎年自ら手ぇあげてまでやってたんだった。
家族はフラフラしてた元ゾンビがいよいよ人間に復活した事を喜んでた。お給料の安さについては『ま、がんばんなさい』の母の一言で畳まれてしまった。いいのかそれで。
マダムとは今でも文通している。『ナオさんのお店で働く事になりました』と記した手紙を送った時には、!!!!!!!!!だらけの激励エアメールを返してくれた。
必死かつ夢中な間に二年が過ぎて、いつの間にかあの指環のショーウインドーの前で立ち止まる事も、思い出して幻の血が噴き出る事もなくなっていた。
そして、マナミンに恋をした。
した、けど。
うじうじしている間に、季節が変わる。
新しい季節に、追い抜かれていく。ここに立ち尽くしている俺を残して、マナミンもきっと先に行ってしまう。
臆病に絡め取られたままの自分をどうしたらいいか分かんなくて、もどかしいし焦る日々。一度マナミンに渡して戻ってきて以来宝物のブレスレットに、まだ告白できないけどもう少しだけこのままでいて欲しいって、何度も自分に都合のいい願を掛けた。神様がそれをどう思ってるかなんて、知らない。
「こんにちは」
「いらっしゃいマセ。マナミン様おひとりですか?」
「もうナオさん、このふざけたギャルソン再教育が必要じゃないですか?」
「すみませんね、真奈美さん。――大矢君、ちょっと裏に」
「キャー! ナオさん鉄拳指導はヤメテ!」
ふざけてそんな風にミニコントを披露して、いつものようにマナミンがくすくすと笑う。好きな子が笑ってるのを見るのは嬉しいね。そう思っていたら、遅いランチをオーダーしたマナミンが、何か云いづらそうな顔してこっちを見ていた。
「何です―?」
「うん、あのね大矢君、ナオさんも」
「何でしょう」
ナオさんが、焼き始めた野菜から目を離さずにマナミンの言葉に反応する。
「この後、三時でお店一旦閉めるでしょう? ちょっとその間、大矢君に会って欲しい人がいるんですけど」
「でもマナミン、マナミンのお父様に会うのは俺たちまだ早いんじゃないかな」
俺が真顔&渋い声でそう云うと、マナミンはぷっと噴き出した。
「もう、いちいち笑わせないで。――ナオさん、」
「構いませんよ、大矢君の一匹や二匹」
「ちょお! ナオさんお願いだから人扱いして!」
その時は、誰かなー、最初にマナミンに会った時合コンに来てた誰かかね、なんてのんきに考えてた。
三時になって『CLOSE』の札をドアに下げる為に、重たいそいつを開けて外に出て札をまっすぐに掛けて、よっしゃオッケーさあ入ろーって思ってた時。
「広海」
俺の背中に掛けられたその呼び声に、雷に撃たれたみたいになった。
覚えてる。忘れる訳ない。
うわーって、人生の走馬灯が回ったらこんなんかなっていう感じで、彼女との記憶が濁流のように押し寄せる。
甘い記憶。苦い記憶。うっかり最後らへんばかりを思い出しがちだけど、それだけじゃなかったよな。
そーっと、心の中をスキャンしてみる。うん、大丈夫。もう古傷は血、出たりしない。よし。
俺はゆっくりと振り返る。
「――佳乃」
その名前を読んでも痛みを感じずに、微笑む事だって出来た。
「とりあえず、入って」と、かつて恋人だったその人を店の中へと招き入れた。彼女は中に入ると、「営業時間外にお邪魔してすみません。――仙堂さん、ありがとうございます」と深々とお辞儀をした。
はて仙堂さんって誰だっけと思って、ああマナミンの名字だと思い出す。マナミンはよそ行き顔でいえ、って云った。
「私は何も。古内様が『会いたい人がいる』っておっしゃった人が、たまたま自分の知り合いだったと云うだけですから」
知り合い――知り合い、ね。ふうん。面白くない。そりゃ、好きな人ですだなんて、云ってもらえる訳もないけど。
俺は佳乃の新しい名字よりもそっちばっかり気になってた。ちょっと口、とんがっちゃってたかもしんない。
そんな俺を見て、佳乃の名を告げずにここへ連れてきた事に腹を立てていると思ったのか、佳乃に続いてマナミンも、ぺこりとお辞儀をする。
「ナオさんも大矢君も、急にごめんなさい。どうしても、会っていただきたかったんです。古内様、」
マナミンが佳乃に頷くと、佳乃も頷き返した。
入り口に一番近い二人掛けのテーブル席へ佳乃を案内した。
別にいてもらって全然かまわないのに結局二人には気を使わせる事になった。――ナオさんは『済ませたい用があるので』と、マナミンも『ごめんね、急いでるから』っていなくなってしまった。ちぇ。『ここにいて』って甘えて服の裾をチョンって引っ張るほどには、まだ勇気を出せない。相変わらず弱虫過ぎるモンスターを心の中に飼ってる自分が悪いんだけどさ。
「どうぞ」
「ありがとう、いただきます」
自分にはコーヒー、彼女には紅茶を淹れて運んだ。彼女はそれに口を付けると「おいしい」って嬉しそうに目を細めた。その云い方とか、タイムマシンに乗ってあの時に戻ったみたいだと思うほど変わっていなかった。
頑なだった心が、ほどけ出す。もし会う事があるなら恨みつらみをぶつけてしまうんじゃないかと思っていたのに、さらりと「元気だった?」なんて、云えた。
「うん。――広海は?」
『別れてすぐは元気じゃなかった』って云うのも大人気ない気がして、「今は元気」とだけ伝えた。
テーブルに置かれた左手の薬指に光る指環。結局ちゃんとしたのはプレゼントさせてもらえずに終わったけど、その光るものを見ても心はもう揺れなかった。
「あの時の、彼と?」
「ううん、別の人」
「そっか」
「うん。――溺れるみたいに恋して縋って、いつも駄目にしちゃってた」
そう語る横顔は寂しげだった。
「でも、見つけたんだね」と、マリッジリングを指差すと「そうなの」とようやく嬉しそうな顔をする。よかった。本気で好きになった人には、自分とは駄目になったとしても幸せでいて欲しいから。
「旦那さん、どんな人なの?」
「優しくて厳しい人だよ」
描いていた人物像とかけ離れていて、びっくりした。彼女をただひたすらとことん甘やかす男と結婚したんだとばかり思ってから。
そんな俺の考えはお見通しだったのだろう、「さすがに社会人にもなって、ただ甘えた考えのままで結婚は出来なかったよ」って苦笑した。
「会社の、同僚なんだ」
両手で包んだカップの中に目を落として、彼女が話す。
「頼もしいところがいいな、なんて思って告白したら、『甘える事しか知らない女には興味ない』ってばっさりやられたのがきっかけ。がーん、てなったけど、そう云われて初めて気が付いたんだ。私ほんと、与えられてもらうばっかりなのを当たり前だと思ってたんだって。――広海にも、あんなにたくさん大事にしてもらってたのにね。『足りない』って不満に思うだなんて、とんでもなかった」
そうきっぱりと言い切る彼女は、もうあの頃のあの子じゃない。
「反省して、それから男の人に寄り掛かるのやめたの。しばらく一人でいて、去年ようやく彼に付き合ってもらえて、それで」
指輪を撫でる。彼女が嵌めた幸せは、ただ包まれるんじゃなく、自分で手に入れたものなんだな。
「よかった、おめでとう」
「ありがとう。――広海は?」
そうこちらを伺う瞳は、例えば『元彼が未だに不幸せなまんまだと寝覚めが悪い』っていうもんじゃなく、純粋に俺の今を心配してるみたいだった。――ほんと、変わったなあ。大人になった。しみじみとそう噛み締めつつ、答える。
「今は、一人。でも好きな人はいる」
「そっか。がんばれ」
「うん、サンキュ」
不思議だな、と思う。
二度と交錯する筈がなかった彼女と俺が、こんな風に優しい時間を共有出来るだなんて。
会ってみなくちゃ分からなかった。彼女が変わってた事。俺も、もう傷付いていない事。
カップの中の紅茶を飲み干して、彼女が静かに席を立つ。
「急に来ておいてあんまりお邪魔しても悪いし、そろそろ失礼するね」
「うん、気を付けて」
紅茶代を払う気満々の佳乃と、いやもらえないと突っぱねる俺とで一悶着して、そして彼女が押し切った。付き合ってた時には一度もなかったそのやり取り。
いいね。恋愛感情はないけど、やっぱり馴染んだテンポの会話も、少し強くなった大人の佳乃も、いい。
旦那さん、世界一大事だった佳乃を頼むよ。
そんな風に、まだ見ぬ――これから会う機会があるかもわからない旦那さんに勝手にバトンを渡した。
重たい木のドアを開ける直前で、佳乃がこちらを振り返る。
「広海」
まっすぐこちらを見る。あ、泣くの我慢してる顔だ。そんなのは、変わらないんだねえ。
「ひどいやり方で傷つけてごめん。好きになってくれて、ありがとう。――それを、云いたかったの」
「うん」
泣くなよ。こっちまで泣きたくなるじゃんか。
「俺も、佳乃を好きになってよかった」
そうだ。
傷付いたけど、それだけじゃない、あの日々は。無駄なんかじゃなかった。ちゃんと輝いてた。幸せだった。
有刺鉄線でぐるぐる巻きにしてた恋の残骸からそのとげとげの針金を外して、きちんと天に還す。
これでようやく前に進めるよな、モンスター。
「元気で」
「広海も」
好きだったよ、綿あめみたいにふわふわで、構ってないとすぐにぺちゃんこに潰れてしまう、俺だけの、もうどこにもいない女の子。
互いに、連絡先は聞かずに別れた。ど―――しても会いたけりゃあ、マナミン通じて連絡が来るだろ。
心のどこかにぽかんと大きく空洞を感じて――恋の残骸が、ずっと居たところ――すっきりした気持ちになった。
15/03/23 一部修正しました。




