こわがりメモリーズ(上)(☆)
「夏時間、君と」内の「臆病ハニー」「よわむしモンスター」の二人の話です。
……走り出したんだけど。
結局、告白する手前で、ブレーキをかけてしまっている。えぇえぇ、年季の入った臆病なモンスターは、結局勇者にはなれなかったんですよ。
それでもマナミンとは、たまに定休日前に飲んだり、定休日に映画行ったりご飯行ったりしてる。
普通のOLさんだと思っていたけど、実はウェディングプランナーさんで土日祝日が忙しく休みも不定休で、「だから大矢君より恋愛条件は不利だよ」と苦笑してた。
月に一、二回かな? 向こうと俺の都合がつく時に会って。
それの他にやっぱり月二くらいで、マナミンはお店を訪れては出された皿の一つひとつに感激しながらそれを平らげて、ナオさんや常連さんにあっという間に好かれて。
いいだろ、その子。なんて、自分のじゃないのに自慢げな気持ちになったりして。
なのに、手ぇ出すのは躊躇してる、そんな日々。
ある時、赤い目をしたマナミンが待ち合わせ場所に来た。バーに入りオーダーした酒が来て落ち着いてから、カウンターで横に座った人を改めて見てみる。
「どしたの? 目がうさぎさんだよ」とおどけて聞いてみたら、「今日お式されたお二人に感動してしまって」と、云っている間にその様子を思い出してか目を潤ませた。
「マナミンが頑張ったから、いいお式になったんだね」とイイコイイコしたら「やめてよー!」と云いながらぼろぼろと泣いてしまった。
いいなあ。この子、食べる時も笑う時も泣く時も全力だ。好きだよそう云うの。
酒を入れてたせいかすこーし強気になって、「俺マナミンの事好きだなあ」って云いかけた。
けど、魔女に喋れない魔法かけられたみたいに、口を開いたとこで固まった。ごまかす為にカクテルを口に運ぶ。
マナミンはようやく泣き止んでメニューを見ていたから、多分気付かれてはいない。
――やっぱり、怖い。また駄目になるかと思うと。積み上げたもの全部が、ひっくり返って砕けて細かなガラスの破片になって、ぐさぐさ心に刺さるのは。
随分前に本気の恋をして、それ以来女の子とどうこうなってない。
その当時はまだ二人とも大学生で、でも俺はいつかその子と結婚するんだと思ってた。はっきりとそう告げてはいなかったけれど、会っても会えなくても毎日必ず愛の言葉を交わし合って、ずっと一緒にいようね、なんて云ってシンデレラ城をバックにキスもしたし、左手の薬指に指環も贈ってた。
前期の授業が始まると、お互い自宅に住んでいたし出会ったころほど頻繁には会えなかったけど、週に一度は愛のホテルで愛しあったし、朝から晩までメールも電話もして、授業と就活の合間にガンガンバイト入れて、自分としては忙しいけど充実してるつもりだった。
そしたらさ、ある時彼女が俺に告げたのは、『私が寂しがりって分かってて放っておくんだね』って云う思いもよらない言葉だった。曰く、二日も放っておかれたら死にそうに寂しい、との事で、東京都を挟んで真反対に住んでて違う大学に通ってた俺たちに、同棲でもしなければそれは不可能なミッションだった。
――出会ったのは長い春休みで、付き合い初めと云う事もあって休みの間は確かによく会っていた。あれが彼女にとっての当り前だとしたら、現状は? 背中を、嫌な汗が流れる。
『ごめん、結婚資金貯めようと思ってバイト増やしてた』と内情を明かすと『そんな遠い未来より、今の私をかわいがって欲しかった』と過去形で告げられて、それからいくら宥めても懇願してもとうとう戻ってはもらえなかった。彼女の友人に後から聞かされたけど、もうその時には彼女は思うように甘やかしてくれる俺じゃない誰かさんの懐に入っちゃってたんだってさ。
『二度と会いに来ないで、だって』
それが、ついこの間まで愛の言葉を囁いてくれた子からの最後の言葉でしかも彼女のお友達からの伝言だなんて、本当に事実は小説よりも奇なり、だ。
本当に消したかどうか見せてとお願いのふりしたお友達の強めの言葉に、抗う気なんてとっくに失せた。その人の目の前で、携帯のアドレス帳の、いっとう最初に登録してた彼女のデータを、ボタン一つでナシにすれば心が大きく抉れた。
悲しすぎて笑う事も泣く事も出来なかった。
二人でデートした街を歩けばそこここに思い出と云う名の地雷が埋まっていて、不用意に足を踏みいれてはその都度自爆した。
そこを避けたとしても思い出の曲はラジオから流れるし、彼女と行ったファミレスのチェーン店がうちの近所にもあるし、そんなのにいちいち辛い思いをした。その上家まで思い出まみれだとどうしようもないけど、幸いと云うかなんというか二人ともアパートではなく実家に住んでいたおかげで、自分の部屋でどうこうなった事はなかった。
ずっと、贈りたい指環があった。付き合ってすぐにプレゼントしたものより、うんとグレードの高い、ちゃんとしたもの。
バイト先へ向かう途中でその店の前を通りかかるたびに見つめては彼女の笑顔を思い出して頑張ろうって思えた。
毎日のようにそうやって眺めていた癖はなかなか直らず、うっかりとショーウィンドウの前で足を止めて見てしまうたびに、自分の心から幻の血が噴き出すのが分かった。
貯金は、学生にしては頑張ったねってくらい貯まってたんだけども。
本当に俺が希望してた業種じゃなかったけど、安定性を第一に選んだ手堅い職場から二次面接の連絡をもらってたんだけれども。
そんなのがね、ぜーんぶどうでもよくなった。だって、貯金も手堅い職場も全部彼女との将来のためのものだったから。
面接はこちらから辞退させてもらった。内定が出てなくて本当によかった。出てた上での辞退だったら、大学にもOBにも後輩にも迷惑かけちゃうとこだった。
やる気が根こそぎ失せてしまってゾンビみたいになっちゃって、もう大学も辞めてしまおうかと一瞬考えたけれど、親に学費を出してもらってそれはないだろうと踏みとどまった。そして大学は何とか出たものの、とりあえず意味のなくなった貯金を少し使ってしまおうと――時間を掛け、汗水流して稼いだお金は、どんなに自棄になっていてもあぶく銭として一息に使い切る事は、どうしても出来なかった――卒業後単身でヨーロッパ旅行へと出た。
どんな優美な風景を見ても、どんなおいしい郷土料理を戴いても、どんな美人さんに誘われても、心は泥水でいっぱいみたいに重たくて、じめじめしてて、汚かった。
消えてしまいたいと本気で願ったのはあれが最初で最後。
「どうですか、その後」と、ナオさんが仕込みの手を休めないまま俺に聞いてきた。俺も、グラスを磨く手を休めずに、こう答える。
「どうもなってませんよ。ただいま恋愛停止中ですし」
それを聞いて、ナオさんはわざとらしくため息を吐いてみせる。
「人の恋にはやたらと首を突っ込んでキューピッド役を難なく勤め上げるくせに、自分の恋は棚晒しなんだね」
ナオさんが呆れたようにカウンターの向こうで呟いた。
「ほっといてください」
「放っておいたら大矢君はいつまでもぐずぐずしていそうだから」
「……ナオさんが冷たい」
「甘やかすのは奥さん一人で充分ですよ」と、ちゃっかりのろけるのも忘れない。新婚爆発しろ。
「出会ったときはあんなに優しかったのに」
ふざけてヨヨと泣き崩れるふりをしたら、「そうしないと君死んじゃいそうだったから」と真面目に返事をされた。
「そう、ですね」
うっかり、素で返す。
俺のうっかりで、沈黙してしまった。仕込み時間なのでBGMもない。窓を叩く雨音だけが時折聞こえる。――こんな、日だった。ナオさんに拾われたのは。
『生きていますか』
その問いは、通りの片隅でゴミのようにうずくまってる俺に投げかけられた。土砂降りの雨をしのぐ傘なんてとうになくて、ひたすら丸くなって雨が過ぎるのを待ってた。
「えぇなんとか……って、フランス語でなんて云うんだっけ……」
流ちょうなフランス語は、第二外国語で履修してた俺にもすうっとリスニング出来た。が、フランス語でとっさに返せるほど俺のバッテリーは残っていなかった。でも、思わず日本語で漏らした独り言を、その声の主は聞き取ってくれた。
「なんだ、日本人だったんですね」
「……え」
「俺も日本人なんで」
嘘だろ、お手本通りの発音で。
掠れた声で呻いたら「褒めてくれてありがとう」とにこりと笑った。俺はその笑顔を訝しく思う。
こんな、浮浪者みたいな、てか浮浪者の俺に声掛けて、ふつうに会話して。
みんな見て見ぬ振りしてるのに。体目当ての同性愛者なのか。傷心渡仏し、心を旅で癒そうと思っていたのもままならないまま帰国目前でスリにあって全財産を奪われ、すっかり荒んでいた俺はその人の良心を全然信じられなかった。
多分、人間にひどい事された野良猫みたいにフーッ! と毛を逆立てて威嚇してた。
ほっとけよ。もうどうなったってかまいやしない。
そう、思っていたのに。
その人はにこにこしたまま俺をいきなり肩に担ぎ上げた。すっかりへこんだ腹が肩に当たって苦しい。
「な、なにすんだよ!」
「まず、俺の宿でお風呂に入りましょう。それから着替えて、何かおなかに入れましょう」
人ひとり運んでいると云うのに息を切らさずスタスタ歩きながらそんな事を云う。傘もしっかり俺に差し掛けながら。
「は? あんた、なにが目的なの? いっとくけど俺、ホモじゃないよ」
「あいにく俺もヘテロセクシャルなので君の肉体には興味がないですね」
街外れの個人宅のような小さな宿に着いた、らしい。担がれたままドアを開けられてぎょっとする。
「無茶だろ、追い出されるってあんたも」
俺はその時三日は風呂に入っておらず路上生活をしていたのでそれなりに汚れてもいたし、若干匂ってもいた。
「大丈夫ですよ、ここは知り合いが経営している宿ですし、ご夫婦はとても優しい方たちなので」
バカじゃないの。んな訳ないだろ、トラブルに巻き込まれたアジア系異国人なんかに親切にするフランス人、この三日ではお目に掛かれなかったし。
だからきっとここも駄目だって、思った。
そんな俺を尻目に、長身男は奥から出てきた人の良さそうな老夫婦に僕の連れも泊まりますとやっぱりアナウンサーみたいに流暢に話して、あろう事か老夫婦もにこやかにそれを了承してしまった。何だこいつらは。ちなみにこの時、俺は担がれたままね。おかしいとか思えよ誰か一人でも。
「離せ!」
身を捩ろうとしても、ろくに栄養を取っていない体ではこれっぽっちも力が入らない。おまけにこっちの言葉なんてガン無視だ。
部屋の鍵あけをばーちゃんに頼んで「merci.」って笑ったその人に、そのままシャワールームへぶち込まれた。
文句を云おうとしたら「いいからさっさと汚れを落として、あったまること」とシャワーの使い方を教えてもらった。
何なんだよ。人の悪意と好意に、ちっさく縮こまって固まってしまった心は対応なんか出来っこない。――でも。
見ず知らずの人に親切にされて、異国の老夫婦にも拒否されずにこうして熱いシャワーを浴びる事が出来て、体だけでなく、冷え切った心もなんとか少し温まった。
お礼を云わなくちゃ。そう思っても、どこか麻痺したままの心が、それを素直に口にさせてくれない。結局、云う勇気が出るまでシャワールームに閉じこもっていた。
「……ありがとう、ございました……」
その一言をひり出すのに、どれほど時間がかかっただろうか、情けない。
ようやく出てきた俺が小さく云うと、テーブルで何か書付をしていたその人がほほ笑んだ。
「綺麗になったね。二割増しでイイオトコだ」
「たった二割っすか」
まだ素直に笑えなくて、なんだか口を歪めたみたいになった。
着たきり雀+野宿+雨に濡れたと云うトリプル汚れな下着と服はもう纏う気になれずに、備え付けのスリッパとバスタオルだけで出てきて途方に暮れた。幸い、スニーカーは乾かせばまた履けそうだけど当然ながらぐっちょりと濡れたままだ。どうしよう。
「それ、使って」
その人の長い指がベッドの上を示唆すると、そこには新品ではないにしてもきちんと洗ってあるTシャツとズボンが置いてあった。
「靴は、エスパドリーユでよければ後で買って来るよ、サイズ教えてくれるかな」
「え、……でも」
「いいから。素足じゃ外、歩けないだろ?」
「ありがとう、ございます」
躊躇せずにしっかり伝えて、ぺこりと頭を下げるとそれだけでふらっと来た。するとその人は慌てて俺を支えてくれた。
「無理するんじゃない、着替えだけ済ませたら食堂でご飯食べよう」
そう云われて、もう深々とお辞儀をする事も出来ず、メシと云う言葉につられていそいそと着替えをした。長身のその人の所有物らしい服は、俺にはちょっとでかかったけど何の文句があろうか。
食堂にエスコートされた俺はぶかぶかのTシャツにぶかぶかのズボンに部屋のスリッパだったけど、老夫婦はやっぱり何も云わずに席に案内してくれた。
すぐにスープ皿で出てきたのは、野菜と肉がごろごろ入った素朴なポトフだった。
『たくさんめしあがれ』
「マダムはああ云ってるけど、しばらくロクに食べていないのなら、ゆっくり無理せずにね」
「はい。……戴き、ます」
固くて丸いパンをちぎり、スープに浸してから口に含むと、それだけで唾液がじゅわりと溢れ出たのが分かる。――ああ。
あったかい。沢山スープを吸ったパンを一噛み、二噛みして飲み下す。食道を通って胃に食べ物が落ちていく感覚を、こんなに味わったのは初めてだった。
体が喜んでいるのが分かる。久しぶりの固形物に、胃はきゅっと痛んだ。でもそれより、一度食べたら止まらなくなってしまった。
口に入れるとほろほろと崩れる牛すね肉。キャベツと人参とじゃがいもは、どうしたらこんなにそれぞれの味が強く出るのか不思議なくらいだ。
野菜の甘みが存分に引き出されたスープは、飲んでも飲んでももっと飲みたくなる。先ほどのアドバイスを唱え続けて、かっ込むのを必死で堪えた。
「おいしい、です」
「うん、マダムの作るポトフは絶品だからね」
気が付くと俺は、鼻水を流して泣きながらそれを食っていた。
でもその長身の親切な人も、マダムも旦那さんも、誰もそれを笑わないでくれた。
俺、生きてていいんだな。
これから先何したらいいかなんてこれっぽっちも分かんないけど、このポトフがおいしい事は分かる。この人たちが親切だって事も。
今はそれで十分だ。
俺の腹が満たされて涙が落ち着くと、その人は何で俺があんなんなっていたのかをようやく聞いてきた。なので、『日本で人生が変わっちゃう位の失恋をした』『フランスに来て癒される筈が追剥ぎにあった』『このままもうどうなってもいいと思っていた』と吐露すると、「大変だったね」と痛ましい目で俺を見た。それから時計を見てまだお茶の時間である事を確認すると、「ちょっと待ってて」とふらりとどこかへ行ったかと思うとすぐに俺ジャストサイズのエスパドリーユを手に帰ってきた。
体調を聞かれて、特に問題ない事を伝えると、「警察に行って、盗難届を出そう」と云うが早くマダムに警察署の場所を聞いてそこへ同行して、俺の代わりに色々話をしてくれた。
後日、最寄りの領事館にも同行してくれて、おかげでパスポートの再発行もしてもらえる事となった。
マダムのご飯と、口下手なムッシュウのはにかんだ笑顔と、背の高い、優しい日本人の恩人――ナオさんと云った――のおかげで、再発行を待つ間に心も体も癒された。あの恋が壊れる前の心には戻れなかったけど、それはそれでいいと思えるように、なった。
「日本に帰ったら、恩返しをさせてください」
「そんなの、気にしないでいいから」
「でも」というやり取りを、ナオさん出立の直前までしてた。でも互いに譲らなかった。
マダムとムッシュウには帰ったら恩返しが出来ないから、いる間に掃除とか、庭仕事とか、出来る事を手伝った。そしたら『ありがとう』なんて云われちゃうんだ。あんな胡散臭かった俺を丸ごと受け入れてくれたのにさ。泣けるよね。俺、軍手で何回涙拭っただろ。
残念ながら、ナオさんと同じタイミングで帰国する事は叶わなかった。
出発の日、「俺は仕事の都合があるから先に帰るけど、何か困ったことがあったら必ず連絡して」と、ナオさんが俺に携帯の番号を記したメモと――ユーロ札を押し付けた。
「いやいいっす、そんな、もう充分よくしてもらいましたしそのうち家族から送金されますから!」と慌てて返そうとしても、にこにこしながらシャツの胸ポケにまた入れられてしまった。
「君のためにじゃないよ、ご家族に心配掛けたろう? おうちで待ってる人達に、大変な目にあったけどちゃんと楽しんで旅行してきましたって、お土産を買って報告しなさい」
そう、云われたって。傷心旅行の末に身ぐるみはがされて、楽しくなんか。そう云い返そうとして、やめた。
少しだけど、楽しい思いもした。ムッシュウの荷物持ちとして一緒に出掛けたマルシェには活気があった。マダムに『私のかわいい坊や』って云われて、坊やって云うなよぅ、と情けなく思いつつこそばゆくもそれを受け入れた。ナオさんとは夜な夜なワインを酌み交わし合い、いろんな話をした。――俺、もっともっとこの人と話をしたかったな。
過去形で語るのは、話の中でナオさんはシェフだと教えてもらったのに、帰国後お礼がてら訪れる為にお店の名前を聞こうとしても『次に、君が困っている人を見つけた時にその人を助けてあげればいいだけの話です』と拒否られてしまったからだ。
今だけの関係、なんて一夜のアバンチュール(笑)みたいだけど。きっと、俺がこの旅行の事を日本に帰ってまでも引きずらないようにとか考えてくれちゃってんだろうな。
そう見当がつけられる程度にはナオさんと云う人をこの数日で分かっていたので、それ以上の深追いはしなかった。
お土産を家族に、か。あんたほんとに優しいのな。俺は、ナオさんにニッと笑ってみせる。
「了解でーす。じゃ、ありがたくそうさせてもらいます」
「うん」
俺の返事にナオさんも笑って、「じゃあ」と握手を交わすと宿を出て行ってしまった。
その後ろ姿を見つめて、「甘いんだよ」と俺は呟いた。
話の中で聞いた情報の断片をちまちまと合わせていくと、ナオさんのお店がとりあえず関東にある事は分かった。都内の有名店じゃないって事も。
だから、ガイドブック片手&口コミサイトで情報収集した上で、しらみつぶしに各地のフレンチのお店へ行く。残ってる貯金、有効利用するよ?
もう一度、ナオさんに会う。そう決意してよっしゃと踵を返すと、一緒にお見送りしていたマダムが何かを呟く。
「え?」と聞き返すと、今度ははっきり、ある単語を口にしてくれた。
『ナオには内緒よ?』と茶目っ気たっぷりに釘をさす様子で、それがナオさんのお店の名前だって、分かった。
『マダム! 愛してる!』
『あら、私もよ、坊や』
がばっと抱きついたら、マダムはコロコロと笑った。
そして俺も、ようやく日本に帰る日。
家族に日本から送金してもらったので宿代をと申し出れば、マダムにノン、と拒否されてしまった。
『もうナオから受け取ったわ』と云われてしまった。くっそ、やられた!
『それに、たくさん手伝ってくれたでしょう? お駄賃をあげたい位だわ』
『でも』
また、涙が出てしまう。もう、男の子をあまり泣かせないで下さい。もしこの老夫婦が『日本人の青年は泣き虫』だなんて認識になってしまったら、それは確実に俺のせいだ。
マダムは俺の背中を優しく抱いて、『元気でね。私たちはいつでもここで、坊やの幸せを祈っているわ。それをどうか忘れないで』って微笑んでくれた。ムッシュウも庭仕事の手を休めて、『元気で』とあったかい一言をくれた。




