雨傘尾行少女
高校生×高校生
雨が、しっとりとその人を包む。紗のように世界を覆う雨粒の向こうで優しくけぶっている、その後ろ姿。
ガクランは雨でその黒がいっそう深くなっているように見える。
染めている訳じゃないらしい薄茶色の髪の先から、思い出したような遠いテンポで雫が落ちる。落ちたくないよとしがみついていた粒が、耐え切れなくなってぽたりとまた新しい染みになる。
片方だけで背負っているリュックは、時々ずるりと肩を滑り落ちるから、先輩は何度か背負い直してた。
大きなローファー。手の甲のほくろ。
そんなのを、後ろを付いて歩いて、見てた。全部。
高校から駅に向かって歩く私と先輩。ずっと前の方には同じ学校の人たちもいる。校門を出る時にはひとつのカタマリだったのに、それぞれの目的地や歩くペースが異なれば、スイミー達みたいだった一団もいつしかばらけた。先輩は、ゆっくり歩きの後ろから二番目だった。少しだけ間を開けて追っている私が最後尾。
いつも周りに人がたくさんいる先輩が、珍しく今日は一人きりだった。
話しかけるとしたら、絶好のチャンスなんだろう。だからと云って、向こうから見たらほぼ見ず知らずの後輩からいきなり声を掛けられたって迷惑でしかないだろうってことも分かってる。
同じ美化委員会の前期委員長とヒラ委員。委員会活動のひとつである校内の見回りでたまたま一緒になれば二言三言事務的な会話はしたけど、それだけ。多分個体認識はされていない。だから、図々しい真似はしない。でもせめて、駅までは一緒な気分で。
雨を理由に声を掛けるには、降りは弱かった。実際、校門を出たところで傘に入るかと先輩に声を掛けた人もいた。でも『大した降りじゃないから』と断っているのを見てしまったし、傘を差してない人が先輩以外にもいたので、ますますこちらからは声を掛けられずにいた。やってることが後ろ暗いって云う自覚もある。ひたひたとただ後ろを付いて歩くとか、一歩間違えればストーカーだ。
声を掛ける勇気があればいいのに。断られても平気な自分ならよかった。
今日のこのことを、きっと私は大人になっても覚えてるんだろうな。『好きな人がいたけど、結局何も出来なかった』って云う苦い事実と一緒に。
歩く。
先輩が二歩で歩くところを、私は三歩で。その、ゆったりしていながら迷いのない足の進め方に、フラフラ迷ってばかりの自分はいつも憧れていた。
委員会の活動日誌や黒板の文字が奇麗なことも。張り上げなくてもきちんと話を聞きたいと思わせる声も、理路整然とした話し方も。
もちろん、他の女子がきゃあきゃあと騒ぐように、長い手足や中性的な顔立ちにも魅かれてはいたけれど、好きな理由の上位じゃあない。
好き、でした。
過去形で語るのにはまだ慣れない。でも三年生が本格的に受験期に入るこれからは委員会も後期になって、二年生主体で活動をしていく。委員会でしか接点がなかった先輩とはもう離れて行くばかりで、これから道が交わることはないんだ。
先輩に合わせてゆっくりと歩いていた。なのに信号を渡って商店街を抜ければ、あっという間に駅に着いてしまう。
気が付くと傘を差している人は自分だけだった。雨が上がってたことにも気づかず、一心に先輩を見つめていたのだなと恥ずかしく思いつつ、水色に猫のシルエットのプリントが入ったお気に入りの傘をそっと閉じた。
柄の部分を手首に掛けて、さあ駅の向こう側に行ってもう少し歩かなくちゃと顔を上げると。
――今日はずっと背中ばかり見ていたその人が、こちらを向いて苦笑していた。
「やっと顔が見れた」
先輩が、私を見て、私に話し掛けてる。うそだ、だってそんなのありえない。
かーっと顔が熱くなって、平常時でもさして良くない頭の回転がますます鈍くなってるのがわかる。『ドウシテコノヒトガワタシニハナシカケテルノ』で頭の中がほぼ埋め尽くされて、わずかに五パーセントくらいの余地しかない。
「君がうしろにいるの、途中から気が付いてた。――傘なしで歩いてたらそっちから声掛けてくれるかなーって期待してたんだけど、見通しが甘かったな」
「えええっ?!」
五パーセントの余地すら、なくなってしまった。
震えた手から細身の柄の傘がするりと抜け落ちて、まだ湿っている道路に落ちる。先輩は屈んでそれを手に取ると、こちらに一歩近付いて、はい、と差し出してくれた。受け取る瞬間、目が合う。ちょっと、不服そうなその顔。――私、何かしでかしちゃったんだろうか。
「どうして、傘に入れてくれなかったの」
「……他の人に『いい』って云って断ったの見てたし、知らない人と相合傘を出来る性格ではないので……」
しどろもどろになって、それでも何とか答えると、「知らなくないでしょ、同じ委員会だったじゃん」とあっさり云われてしまった。
「!」
個体認識――されてた。どうしよう、どうして、すごく嬉しい。
「真面目に活動してたからよく覚えてるよ。……夏休みも、花壇に水を撒きに来てたよね?」
「なっ、」
何でそれをと云おうとして慌てて噛んだ。
「だって補講受けに来たら教室からよく見えたんだもん」
その時のことを思い出してか、普段はしなやかだけれども決して綻びることのない顔が、ふっと緩んだ。
その暑い日々のことは、自分もよく覚えている。
委員の中で、自宅が高校から一番近いと云う理由で夏休み中の花壇の水やり当番には他の人よりも多く駆り出された。そのかわりに二学期の見回り当番の回数を減らしてもらったので文句はない。
気温が上がり切る前にせっかく来たのだからと、わざと虹を作って遊びながら水やりをした。大好きなアマガエルを見つけては、掌に乗せてそこからぴょんと跳ねるのを見た。ミミズは苦手だけどアスファルトの上で干からびるのはかわいそうだから、濡らした花壇の日当たりの悪い土の上に移動させた。直には触れなくて、木の棒に乗せて。――そんなのを、この人に見られていた?
「委員会の時はわりと無表情なのに一人だといろんな顔して、子供みたいに遊んでて。かわいいなあ、話したいなあって思ってた。でも二学期になってからは見回り当番で一緒にならないまま俺の方は委員会が終わっちゃったから、正直焦った」
おっと。見回り当番、減らしてもらってラッキーって思ってたのに逆だったか。
「だから、今日こうしてるのって俺にはすごいチャンスなんだ。みっともないかもしれないけど、このままもう話せない方がやだった。気持ち悪かったらごめん、でももし迷惑じゃなければまずはお友達として、お願いできませんか?」
はい、もちろん。
私なんかでよければ。
うれしいです。
頭の中ではたくさんおしゃべり出来るのに、今はこくこくと頷くのが精いっぱいだ。
でもそんな私を見て先輩が「よかった、じゃあさっそく今日、これからお茶する時間はある?」と誘ってくれたから、また頷く。
「はい」と出した声は、裏返ってへんてこりんだったけど、先輩はそれを笑わないでくれた。
二人で、歩き出す。今度は並んで。私が右で、先輩が左。校内の見回りのときとおんなじだ。
顔をちらちら盗み見てると、時々あちらからも見返されて目が合って、二人して照れ笑いした。
駅ビルの中のカフェに向かってるのがわかる。カップルの多いそのお店に、自分も先輩の連れとして行くだなんて、まだ信じられない。ほっぺたをふにっとつまんでいたら「夢じゃないよ」とそっと指を外された。
今日で憧れを終わらすつもりでいた。でも、ここから始まるのかも。
私ははじめから諦めていたのに、先輩はそうじゃなかった。繋いでくれた。
だったら、いつまでも『ドウシヨウドウシヨウ』で頭をいっぱいにさせて、ろくな受け答えが出来ないのはもったいない、と思うけど、器用じゃない自分はそんなに急にスムーズになれないのも分かってる。
お店に入ってオーダーを済ませると、先輩に断ってお手洗いに立った。鏡の前で、何度も笑顔の練習。髪を撫でつけて、ブラウスを直して、リップを塗って。現状で出来る限りを尽くして満足のいく仕上がりになったのを見てから、背を伸ばして席へと歩く。向かう先には窓の外を眺めている先輩がいる。
胸が高鳴る。先輩が、私に気付く。もっと胸が高鳴る。
席に着く。練習したせいか、ちょっと自分を褒めたい位上手に笑うことが出来た。
さあ、何を話そう。
「先輩は、今何か読んでる本とかありますか?(……ってしまった受験生じゃん!)」
「勉強の息抜きに須賀敦子さんのエッセイ読んでるよ。オススメとかある?」
「(え? 私? えっとえっとえっとえっと)み!」
「み?」
「ミヒャエル・エンデの『モモ』、とか……(って、子供っぽいよ!)」
「ああ、俺もそれ好きでたまに読み返す」
「……(何を云ってみてもちゃんと受け止めて返してくれるなあ。先輩のそう云うところ、好き)」
「……そんなに見つめられると、照れます」
「! す、すいません!」
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14/10/13 前書きを忘れてたので書きました(カップル説明のアレ)。