第一章:5 『チート能力(紅茶)』
夜も更け。
もはや虫の鳴き声さえも聞こえないほどの深夜になっていた。空に浮かぶふたなりの月の光が【鳥籠】を照らして眩く、煌びやかに栄える。それ以外は何もない、ただの虚無の世界。
とにかく静かで、なにもないし、なにも起こらない世界。
「むあぁぁ……疲れた……」
ひとまず羽ペンを置き、本当に束の間の休息をとっていた。
外は暗い。生き物の気配もないし、時間が進んでいるのかさえも疑わしくなってくる。
それほど周りは妖しく、恐ろしいものだった。
そんな妖しい森とも――半生を、ともに成長してきた森との生活もあとわずか。
「……なんだか、猿みたい」
ふふっと笑ってみる。
猿が二匹、【鳥籠】に閉じ込められている姿を思い浮かべ、その滑稽さを笑った。
なんともバカらしい光景だろう。でも、今の光景……あたしとアスタが【鳥籠】に閉じ込めららえている光景は、それが人間になったのと同義である。
だから、笑ってしまう。
そして。
「……」
外の景色を見て、つまらないと感じた。
もう、この【鳥籠】から見た景色なんて飽きてしまった。絶景ですら何度も見れば飽きるというのに、絶景でも何でもない、この【鳥籠】からの景色を七年もの間見続けていれば当然だ。空に浮かぶワインレッドと黄金色の月、夜には、虫のさざめきすら聞こえなくなるほど鬱蒼とした銀杏の森。たったそれだけの世界。【鳥籠】の、本当に小さな世界。
あたしは考える。
それ以外の景色が、ここより外の世界にどれほどあるのだろう、と。そう考えると、そとに出る楽しみが増えるというものだ。
見たことのない世界。
初めてみる世界。
想像しただけで、高揚感が抑えられない。楽しみで仕方ない。
早く、ここよりも違う世界を見てみたい。
けれど。
「くっはぁぁぁぁぁ……」
まずは目の前に広がる絶望を終わらせなければ……。そうぼやきながら、あたしは一つの依頼書を手に取り、
「あぁ……あとどれくらいあるんだろ」
作っても、作っても、まったく終わる気配のない様子には、全くため息すら出ない。これも、全ての依頼を完了させて【世界樹】を気持ちよく倒せるようにと考えた結果なので、文句は言えない。が、それでも面倒は面倒なのである。机を見ても、床を見ても、あるのはものすごい量の依頼書の数々。これだけで何冊もの本が書けてしまいそうだ。作っても作っても、作った分以上の魔法の依頼が、明日には舞い込んでくるはず。
だから、作る手を休めてはならない。
それに、この程度の魔法で弱音を吐いていちゃ、【世界樹】なんて倒せないのである。【世界樹】を倒す魔法は、これらの魔法を、三日以内に完成させることよりも難しいことなんだ。
「ナルちゃん、もうそろそろ休憩する?」
と、後ろから声がしたので、あたしは振り返り、笑顔のアスタを見返した。その手にはマグカップが握られており、湯気が立っていた。そして、そこから漂ってくる甘い芳香。
「……紅茶?」
なかったはずの紅茶が、そこにあった―――
……………。
……………………。
紅茶だひゃっほおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!
「はぁはぁ……ど、どうして……紅茶が……?」
即座にあたしは立ちあがり、アスタから紅茶の入ったマグカップをひったくる。中身は鮮やかな赤色。甘い香りが漂い、空気中に交わって消えていく。
「あはは……紅茶だ……で、でも、どうしてうぇっへへへへぇっ!」
「う……うん、ナルちゃん、紅茶無くなって怒ってたじゃん?」
「えへぇ……そうらっけ?……忘れた!!あははは!!」
麻薬を前にした中毒者の如く、気分が高揚するうぇええええっへーい!!
「で、それで……」
「?」
「ナルちゃんの怒った顔、すごく可愛いなぁ、て思って」
「つまり隠してたってことかぁぁぁぁぁぁ!!」
「あはははは、ははははは、ははは……やっぱり可愛い」
「っ!……そ……そんなこと言うにゃあああああ!!」
叫び、手当たり次第、物を投げようとして、止まる。アスタの手に紅茶。それが粗末になるのだけは許せない。その様子を見て、アスタはにやにや笑う。
「ほら、可愛い」
「~~ッ!!」
何だかバカにされているようでならなかった。いつもこうだ。アスタはそうやって人の感情で弄ぶのが趣味なんだ。悪魔め、いつか祓われてしまえ。
とかまぁ、そんなバカなことを考えつつ、あたしは手元の紅茶のにおいをかいだ。いい香りだ。
アスタが淹れる紅茶は、あたしが淹れたものよりもかなり美味しい。アスタはいつかいい主夫になれるだろう。
香りはいいし、色も鮮やかに輝く赤色だから、とてもきれいだ。アスタがいつも淹れてくれる、『ピーチメルバ』、という種類の紅茶だ。甘い香りと、桃のような甘さのある、クリーミーな味が特徴の紅茶。
あたしはそれを一口、口の中に入れて転がす。舌をなじませ、そして香りを楽しみつつ、ゆっくりと飲む――
「……(がばがば)」
わけもなく、一気に紅茶を飲み干す。
身体が火照る。
気分が良くなる。
意識が朦朧と……して……あぁ、今なら何でもできる気がする……。
そんな気がしてから――
≪数分後≫
「あははははっははははっははははははッ!!」
「あはは。ナルちゃんが酔った」
「んぁ? にゃぁんか文句ありゅんかコラァ、あしゅたぁ。にはは、変な名前ぇぇ!!」
「あはは。確かに。にしても、ナルちゃんが紅茶で酔うと、本当におっさんみたいになるね。まあ、それを楽しんでいる俺だけど」
アスタが、ぶつぶつ、何か呟きだした。あたしは、おもむろに目の前の依頼書を手に持って、ひらひらと掲げた。
「なはは! もーこんな依頼書なんて、ごみ箱にポ―イ」
「ダ・メ・絶・対」
「むぅ……っちぃ……にゃらしゃっさとやるかぁぁぁぁぁぁぁ!!」
そう言って、羽ペンを握って、魔法を作り始める。今までの、毛虫の如きスピードじゃ考えられないほどのハイスピードで作り進めた。そんなあたしを見て、アスタは愉快そうに笑っていた。
みるみるうちに、依頼書が無くなっていく。あたしにとって、紅茶とは活性剤ようなもの。紅茶一口で、これまでの三倍以上のスピードで魔法が仕上がっていく。ある意味エコ。
エコに生きるからこそ、あたしは怠けているのだ。め、面倒だとかそんなんじゃないんだからっ。ただ、仕事はダルイからやりたくないだけよっ!
兎にも角にも。依頼書が面白いように消えていく。紅茶を飲んで一時間で、机の上の依頼書が全部終わり、床の依頼書に取り掛かり始めていた。
それと同時に、朝日が昇る。白い太陽。次第に赤く染めあがっていき、やがて直視できなくなる。太陽がじりじり、地面を焼き焦がし、その暑さは【鳥籠】にも及んでいた。
「あぁぁぁぁつぅぅぅぅいけっどやっちゃうぞおおおおおお!!」
しかし、今のあたしにはそんな気温なんてことは気にならない。僅か三日で、大量の魔法を完成させるのだ。
それは、誰かのためなんて言えるものじゃない。誰かを傷つける魔法を作っているくせに、誰かのためだなんて、とても口に出して言えるようなものじゃない。たとえ、子どもたちを救うために必要な作業だったにしても、代償として、大勢の人が死んでしまうことは受け止めなきゃいけない。
これまでも、たくさんの人を殺して、あたしは生かされてきた。その償いを、自分の手で行わなければならない。魔法で不幸にしたのなら、今度は幸せにできる魔法を作るのだ。【世界樹】を倒す……おそらく、それが当面の目的になるだろう。
日付が変わり、あたしはほんの一時間ほど仮眠してから、再び魔法を作り始めた。もちろん眠い。これまでになく頑張るあたしの身体は、すでに悲鳴を上げていて、赤べこよろしく頭をがっくんがっくんヘドバンする。
紅茶の酔いも醒め、労働と疲労が一対二の割合で襲い掛かってくる。仮眠をしている間に、アスタが新たな依頼書を持ってきやがるし……もう嫌だ。こんな社畜生活。
それでもその日の夕暮れには、ほとんど終わっていた。残り一枚になったとき、あたしの肩が叩かれた。
「ナルちゃん、そろそろ休憩しない? 朝からずっと、魔法作りっぱなしだよ?」
あたしの肩を叩いたアスタは、手に持っていたマグカップを机の上に置いた。立ち上る湯気から、甘い香りが漂ってくる。マグカップの中に、琥珀色の紅茶が煌めいていた。
「うん。でも、あともう一つだから、これだけ……ん?」
依頼書を見て、あたしは首を傾げた。今まで作った魔法の依頼書は、どれも豪華絢爛で、自分たちの権力の大きさを主張しているものばかりだった。けれど、最後の一枚だけは、ものすごくシンプルな装丁をしていた。その理由は、依頼人の名前を見ればすぐに分かった。あたしは笑う。
「あはは。なんで、あんたの依頼があるのよ、アスタ」
「たまにはいいじゃん。それに、それさえ作れば、【鳥籠】から出られる。これで、自由になれるんだ。だから、最後の魔法を作る前に、休憩取らない?」
「……うん」
マグカップを手に持って、熱い液体を流し込む。
アスタのための魔法。いままで、どんな時もあたしを支えてくれた彼に恩返しできる魔法になるんだ。
マグカップ片手に、依頼書をめくる。どんな魔法なんだろう。気になる項目を眺めて、
「ぶっ! ごほっごほっ!?」
紅茶を噴き出した。えづきながらアスタへ視線を送る。アスタは笑って、
「ナルちゃんなら、作れると思って」
と、一言。何の疑問も、嘘も、偽りもなく、本心からそう言っていた。アスタの表情は、あいかわらずの笑顔で、何を考えているのか分からない。でも、あたしは彼のことを信頼している。だから。
「わ、分かったわよ。作ればいいんでしょ!」
紅茶を置いて、羽ペンを手に取って巻物を開く。顔が熱くて、胸がどきどきとする。それを、きっと紅茶を飲んだからだと、心の中で言い訳しながら魔法を作り始めた。
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二時間ほどかけて、最後の魔法が出来上がる。全身から力が奪われたかのような錯覚に陥った。これで、あたしは解放される――。
アスタへ振り返る。笑顔を張り付けた顔が、少し安心したかのように緩んだ。アスタの手が、あたしの頭へ置かれる。くしゃくしゃとかきまぜられると、心に毛布を掛けたような、柔らかな温かみに包まれるみたいだった。
「お疲れさま、ナルちゃん」
首を傾げ、放たれたアスタのセリフが、心に沁みて涙となる。アスタが、あたしの頬を伝う涙を払う。頬を撫でる。温かいアスタの手に、自分の手を添える。
「あたし……できたんだ。アスタ、あたし、これで……これで……」
これで、自由になれる。
【鳥籠】に囚われた時間が、もうすぐ終わる。ここから出て、新たな世界を見るために。
涙が、零れた。
涙が、溢れた。
それは、今までの辛さを全て追い出すように。
それは、今までの虚しさを全て追い出すように。
それは、今までの哀しさを全て追い出すように。
「うぐっ……あたし、できたんだよ……えぐっ……これで……外に出られる……夢にまで見た、【鳥籠】の外の世界に……やっと……やっと……出られるんだよぉぉぉぉぉぉ!!」
「うん」
「これで……あたしはここから出られる……ぅぐ……もう、こんな辛いところにいなくていいんだ……だから……今だけは……」
アスタの両手が、あたしの身体を抱き寄せる。アスタの身体を抱きしめ返して、胸に顔を埋めて泣き続ける。
「うん……いまは泣いて。泣いて、泣いて、ナルちゃんの辛さ悲しさを全部追い出して……それから、ここを出よう」
「うん……」
今だけは。
今だけは。
あたしたちはこれから【世界樹】を倒しに行くのだ。
本当の自由のために。
本当の幸せのために。
「ぅあ―――――――っ!!」
今だけは泣いておこう。




