第四章:1 『妹の【鬼血症】』
「ヒナッ!」
路地裏の中空を、そこにいた者全員が見上げていた。
その中に、子どもたちも含まれていた。身長からして約6歳から10歳前後。このころの子どもというものは、親の愛に包まれて、平和に過ごしているはずだ。しかし、この子たちは違う。この子たちの身なりは、硫酸を掛けられた濡れ雑巾のようにぼろぼろで、赤いしみが妙に目立っていた。とてもじゃないが、恵まれているとは思えない。
路地裏に住むこの子たちは、親から愛されていない。その証拠に、この子たちの生きがいは『親の道具』になることなのだ。そんなことがあっていいはずがない。
だからあたしは救おうとした。この子たちの害となるものを排除するための魔法を設置し、大人どもがこの子たちに接触できないようにした。子どもたちの脅威――親を排除しようとした。しかし、現実はそううまくいってくれない。
子どもたちは空を見上げて叫んだ。辺りは薄暗い。油と埃で汚れた建物が周囲を囲んでいるからだ。そのせいで空気までも悪い。吸うのを躊躇うほどに異臭が漂うが、叫ぶためには致し方ない。あたしは思いっきり息を吸った。
「ヒナァ!」
ヒナは全身から血を噴き出している。それはもう全身から……口から頭から額から耳から目から首から胸から腹から背中から股から太ももからふくらはぎから足から爪から……これでは彼女は死んでいるだろうことは容易に想像できた。
しかし、そう思っていたのだが、必ずもそうではないかもしれない。
その根拠はヒナの口が痙攣していたからだ。それが意味することは『生』か『死』か……いずれにしても、この魔法を解除して少女を間近で見ない限りは確認のしようがない。もちろん意識がないので、こちらで下ろすしかない。
子どもたちはそんなヒナを見て言葉を失っている。自分たちは今まで虐待まがいのことをさせられてきた。しかし、目の前で仲間が死ぬのは初めてなのだろう。もちろん、あたしも初めてだが。
まるで死んでいるようだった。
本当に死んでいるようだった。
その事実に目を向けられず、地面に落ちた30センチほどのガラス片を首筋にあてているセピアを、子どもたちは押さえつけている。彼の悲鳴が痛くて、耳を押さえたい衝動に駆られた。
「ヒナ……ヒナ…………ヒナァッ!」
「止めろ、セピア!」
誰かが叫んだ。セピアの手は既に血に塗れ、地面に軌跡を残していた。
「……何で、こうなっちゃうかなぁ……」彼を横目に見ながら、あたしは小さく呟いた。
なんて非情な。
彼がこうして泣いていても、何もできない現実……過ぎたことはやり直せない、そんなことは今までの経験上で学んできたことだけれども……はぁ、やっぱり世界は面倒くさい。
ざけんな世界。
死ねよ、神様。
不幸にならず、
幸福に溺れて、
最後は死んで?
「あはは、はは」
「……なに笑ってんだよ」
「あはは……だってさ、これってどう見てもあたしのせいじゃん」
少女――ヒナを見上げる。
菱形の魔法陣の中心に、彼女は吊されていた。菱形の角が辺りの建物と地面を穿っている。その魔法陣から滴る血が、魔法陣を赤く染めている。血塗れのヒナは瀕死の状況だった。救う手だてはない。
この状況を見れば、魔法がヒナを殺したことは一目瞭然であり、そしてあの魔法を作ったのは信じ難くも、なんと自分なんだ。
数日前、この路地裏に訪れた時、あたしはある魔法をかけた。その魔法こそ、『子どもの害意の排除』だった。先も言った通り、あたしは大人共から彼らを守りたかった。だから魔法を使い、大人共を排除しようと考えたのだが、見事に失敗してしまった。というよりも、これはミスだ。取り返しのつかないミスを犯してしまった。
あたしは大人の排除を第一として考えていたせいで、子どもがその障害になることを考えていなかった。それを自然と排除してしまっていた。そのせいで、ヒナはあんな風になってしまった。
要は、あたしのせいでヒナがあんなになってしまったということ。
もう、戻れないよ。過去には。
あたしは子どもたちに向けた視線を正面に向けて俯かせた。瞑目し、己の罪について断罪する。まったく。どこまであたしはバカなのだろうか。
と、その時あたしの肩に手が置かれた感触がした。それが誰なのかは分かっていたので、無視をすると、そいつの――アスタの優しい声が聞こえた。この国には魔法技術士はあたししかいないのだ。魔法を作られる人間があたししかいないなら、あたしがヒナを殺したも同然だ。
目前の魔法は、数日前にあたしが放ったものだ。子どもたちを守るための魔法……それがなぜか子どもを殺した。
と。
左手に感触がした。振り返ると、アスタがあたしの手を握って苦々しく笑っていた。
「……とりあえず、ヒナを下ろしてあげよう」
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「ヒナは病気だったんだよ。それも、治せないほどの重病」
「それに、あたしたちは気づかなかったわけか……」
「はぁ? 何言ってんだ、ボサボサ。気づかなかったんじゃなくて気づかせなかったんだ。余計な心配かけたくないって、ヒナが言うんだよ」
「あら、優しい❤」
「その口調ウゼェ……」
セピアの頬は餅のように伸びました❤
あたしたちは、ヒナにかけられていた魔法を解除すると、ヒナを下ろし、すぐに王城へ向かった。王城にいるような医者ならヒナのことをどうにか出来ると考えたからだ。しかし、予想は裏切られた。
結論から言うと、ヒナは何とかその場しのぎだが、助かった。
それでも重体なのは変わりない。なにしろ全身から血が噴き出していたのだそうそう戻れるものじゃないし、その血も今も止まってない。噴き出す血を押さえるための手段はなく、ただ包帯を変え続けることしかできなかった。
その包帯を準備してくれたのも、医者ではない。そもそもこの国に医者などいなかった。そのスキルは全てメイドさんたちが持っていた。今いるのは一応医務室になっているようだが、散らばった服や小物などが妙に多いような部屋だった。ベッドの下にエロ本の一つくらいあるかも知れない。
メイドさんは純白のベッドの近くにイスを持っていき、その膝に医療箱を抱えていた。静かに座り、ヒナの脈を測っている。その向かい側で立ってヒナを見つめているのがセピアだ。やっと落ち着いたのか、一つため息を吐くと、口を開いた。
「ヒナの病名は【鬼血症】……知ってるか?」
「ぅん? …………いや、知らない」
考えてみても、そんな病気は聞いたことがなかった。情報など、世間すらも知らない引きこもりには酷なものである。
「あはは、ナルちゃん勉強不足。ちゃんと古書庫の魔導書に書いてあったよ。『全身から血が吹き出て頭が狂う』病気って」
セビアが首肯する。
「そう……昨日までは何ともなかったんだけど、今朝起きたらヒナが急に暴れ出して……俺もヒナが割った窓ガラスの破片で殺されかけた」
あの路地裏に窓ガラス片が散乱していたのはヒナのせいだという。これも病気の症状なのか。
ヒナが暴れるという情景がうまく想像できない。ヒナには大人しい印象があったし、華奢な体ではそこまでの力も出せないのだと思っていた。病気によって狂人と化した彼女には、それすらも関係なかったのだろう。
その時も、ヒナは苦しかったのだろうか。
「ナルちゃん、顔」
「……え?」
アスタの言おうとしていることが分からない。顔に何か付いているのだろうか? ……ふむ、ほっぺた触っても何もない。
その様子を見て、アスタは呆れてため息を吐いた。
「はぁ……ナルちゃんは考えすぎ。もっと肩の力抜いて」
「……そうかなぁ?」
「そうだよ。ヒナがこうなっちゃったのは、なにもナルちゃんのせいってわけじゃない」
「でも……むぎゅっ!」
アスタがほっぺたを指で挟んできた。話せなくなったあたしに、アスタはいつもの優しい笑顔を向けた。
「ナルちゃんは優しすぎるよ。でもナルちゃんは可愛いんだから、全部一人で悩まないで。この前も言ったよね? 俺たちは家族だって。なら、俺の前でそんな苦しそうにしないで」
「……」
「大好きだよ、ナルちゃん。返事は?」
あたしはアスタの腕を払いのけると、上目にアスタを睨みつけた。しかし、アスタの優しげに細められた瞳と目が合い、直視できなくて顔を逸らした。顔が熱い。アスタの目からは熱線でも出ているのだろうか。
そんな冗談を考えられるほどに余裕を持って、あたしは言葉を返す。
「大っ嫌いよ、あんたなんか」
「あはは、振られちゃった」
「でもね」
「?」
「………………………………何でもない」
熱くなった顔を冷ますように首を振ると、反目でこちらを見ているセビアに視線を向けた。
「っはん、バカらし」
「あはは、ガキだね」
ゲシッ!
蹴られました、痛いです。
「痛いよ、セピア……反抗期?」
「ちげぇよ! 何だよ、こんなときにっ!」
「あはは、こんなときだからこそ、だよ。落ち着こう、セピア」
「はぁ? 意味わかんねぇし」
「ガキですね、君」
「うわっ、ビックリした」
これまで一度も口を開かなかったメイドさん。まるで出番を伺っていたかのようです。
メイドさんは大きくため息を吐くと、セピアを指差し、口を開いた。
「慌てては冷静な判断を下せません。ヒナさんがこうなったとき、あなたは何をしていましたか?」
「っ! そ、それは……」
セピアが言い淀んだ。それもそうだ。だって、セピアはヒナがこうなったときに、命を絶とうとしたのだ。自殺は、決定的な逃げである。すなわち、セビアはヒナが傷ついたことから逃げようとしたのだ。
「あなたは兄失格ですね。妹から逃げたのです」
「い、いや……俺は……」
「はあ? この期に及んで、まだ言い訳を続けますか。愚か……はいはい、愚かですね」
「ちょ……す、ストォォップ!」
セビアとメイドさんとの間に入り込むと、メイドさんにキッと睨まれた。
「ナルティス様、あなたまで愚かであろうとするのですか?」
「今そんな話、どうでもいいじゃん! それよりも、今はヒナのことでしょ!?」
言うと、メイドさんははぁ、とため息を吐いてこめかみを押さえた。どこか呆れたような態度を見せた後、ゆっくり立ち上がり、医療箱を両手で前に持った。あたしの瞳を見ると、慈悲に満ちた瞳を向けてきた。
「やはり、あなたは優しすぎますね。現実を突きつけるのも、私たちの仕事ですよ?」
「いいのよ。何だかんだ言っても、結局みんな幸せに生きていたらいいんだから」
「平和ボケしてませんか?」
「生憎、あたしの人生に平和なんてなかったよ」
メイドさんの笑い声が部屋に響いた。あたしは自分が言ったことのどこがおかしいのか分からずに首を傾げた。すると今度はアスタからも笑い声が漏れた。本当になんなのだろうか、この人たちは。
「あはは。……まあ、私の治療が正しければ、ヒナさんは今のところは大丈夫です。しかし、これも時間の問題でしょうね」
ヒナの身体を見る。いまも血は止まっていない。変えた新品の包帯も、すぐに真っ赤に染め上げてしまうので、常に誰かが付いていないといけない状態だった。意識もなく、ただすぅという寝息が聞こえるだけだった。痙攣は止まりこそしたものの、油断ならないことに変わりはない。
「ヒナさんはいつ死んでもおかしくない……セピアさん、妹が大切なら、その時が来るまで一緒にいてあげてください。では、私はこれで」
メイドさんはそれだけ言うと、イスに医療箱を置いて部屋から出て行った。その医療箱を見ると、中には包帯がギッシリ入っていることに気がついた。これなら暫くはもつだろう。
セピアは何も言わず、ただヒナを見ていた。彼なりに考えることがあるのだろう。あたしが知ったことじゃないが、セピアはこれからヒナと一緒にいるのだろう。
その時が、来るまで。
「人間って、本当にもろいんだね……」
「はっ、いまさら気付いたのか? 本当に平和ボケしたんじゃねぇのか?」
「さっきも言った通り、あたしの人生に一度だって平和だったことは……ないとは言えないけど……」
「ほらみろ」
「うっさい! ……本当にどうしようか……」
誰かに問うたわけでもなしに、ただ呟く。ヒナを救いたい。ヒナを助けて、ヒナと一緒に遊びたい。けれど、今の状況じゃあ、いつまで経っても何も変わらない。何かしなければ、何か行動しなければ、何一つとして動かない。前に進まなければ……前に……。
「ナルちゃん」
「分かってるって……でも、考えないことなんてできないじゃん」
「そうじゃなくて、ナルちゃんにも出来ること、あるでしょ?」
「?」
アスタの視線を追うと、ヒナに向かっていた。半裸のヒナにぐるぐる巻きの包帯には血が滲んでいる。多分それを見ている。そして、あたしはアスタの言わんとすることに気が付き、あぁ、と頷いた。セピアは首を傾げているが、それを無視して、自室へと戻った。
数分後。
あたしは再びヒナの眠る部屋に来た。その手に一つを携えて。
訝しげな視線を送ってくるセピアを横目に、あたしは地面に巻物を広げた。すでに魔法陣は描いてある。あとはそこへ魔力種と魔法式を入れるだけ。
巻物と一緒に持ってきた羽つきペンを持つと、床にしゃがみ、ペンを走らせた。
これで作るのはヒナを救う魔法だ。
ヒナの延命にすぎない魔法かもしれないけれど。
延命というものは、される側の苦しみを続け、させる側の幸福を満たすものである。それは酷なことだ。こちらの幸せが、必ずしも相手の幸せになるとは限らない……そんなことも分からないのは人間としてどうかと思う。
けれど、延命によって救われる命があるのだとしたら……。
例えば、生きている間に幸福にも、治療法が見つかったり、病原菌が死滅したり……。
ゼロではない。それを信じてみるのも悪くないのかもしれない。
はてさて。
ヒナはどうなるのだろうか。
分からないけれど、ヒナを救うためならば、あたしはリスクを犯す。
魔力種を入れ、魔法式を計算……それだけで森羅万象さえも犯すことが出来る。全ての有象無象を操る力を得ることが出来る。
「……ふぅ、出来た」
巻物をいったん閉じると、ゆっくり立ち上がった。足が痺れてすこしよろけてしまったところをアスタに救われる。照れ笑いを浮かべながら手に持った巻物をセピアに渡した。
あたしはセピアに指示して巻物を開かせた。
巻物から光がほとばしり、ヒナの身体を包みこんだ。スライムのようにまとわりついたそれがうねうねと動くと、徐々にその色を白へと変化させていった。やがてヒナの姿も見えなくなる。
「な、なんだこれ……ヒナになにしたっ!?」
「落ち着いて、セピア。大丈夫だから。あたしがヒナを絶対に助けるから」
「信用できるか!!」
「信用してっ!」
セピアの顔に顔面を近づける。鼻と鼻が触れ合うほどに近づくと、その肩を掴んだ。
「セピアの心配は分かるよ。だって、あたしだって大人から散々いろいろさせられてきたんだ。大人が嫌いなのは、大人が信用できないのは、何もセピアだけじゃないんだよ?」
「その話も嘘かもしれねぇじゃねえか。なんだよ、信用って……そんなことしていても、俺たちは救われなかったんだぞ!! 大人を信用すれば、俺たちに被害が及ぶ……それなのに、なんで信じられるっていうんだよ!!」
セピアがあたしの手を払いのけた。セピアの眼光があたしに向けられた。
「俺は俺だけで生きていくしかねえんだよ! 仲間なんて信用できない……一度二度救われたぐらいで、信じられると思ったら大違いだ! 人間っていうのはなぁ、結局一人で生きていくしかねえんだよ!」
「それでも救うよ。これがあたしの思いだから」
「思い?」
「そ」
炯炯とした視線は変わらない。セピアの警戒心をどうやって解くか考えつつ、口を開く。
「思いは信用じゃない。別に信用されなくたって、必要されなくたっていいんだ。もちろん、それは大人に変えられるような脆いものだけど……セピアがヒナを救いたいのを変えられないように、あたしだってヒナを救いたい思いは変わらないんだ。セピアに信用されなくてもいい。あたしはヒナを救いたい。この思いは変わんないよ」
「もし、その思いさえも嘘だとしたら? ヒナを救うのが、何かのためにあるのだとしたら……」
「あはは」
訝しげな視線を向けられた。あたしは微笑んでセピアに視線を向けた――その時、ちょうど魔法も終わりを迎えようとしていた。
あたしは手をセピアの小さな頭に乗せた。ぐしゃぐしゃに頭を撫でてやると、今度はヒナを見た。
「大丈夫だよ、セピア」
「は……?」
ヒナにかかった魔法が解けると、再び半裸のヒナが姿を現した。特に変わった変化がないように見えたが、しかし決定的な違いを見つけ、セピアが息を呑んだのが伝わった。
「え……これって……」
「セピア」
名前を呼ぶと、ヒナに向かっていた顔がこちらに向いた。驚きに満ちた顔……その頬からは、一筋の涙が伝っていた。まるで信じられないというような表情のセピアに、やはりあたしは微笑みかけた。
――ヒナの身体からは、もう血が止まっていた。
「一度は人を信じてみるもんだよ?」
「うあぁぁ……ヒナァァァ!!」
慟哭したセピアからはいつもの落ち着いた様子は見られない。みっともなく、不細工に泣く姿は、妹思いのあにであった。
セピアはそのあとも泣き続けた。日付をまたいでも、ずっと、ずっと泣いていた。
それを微笑み交じりに見つめて、あたしたちは微笑んだ。
血が止まったことで、ある程度ヒナは救われた。
絶対に救われたというわけではないことに、セピアは気付かずに安心して泣き続けた。
……あぁ、胸が痛い。




