第三章:12 『部屋の色は白色』
捨てられた少女は泣くことを忘れた。言葉も忘れた。だから助けなんて呼べない。
そもそも、助けられる存在なのだろうか。
確かに親はいないし、友だちもいない。寂しくて虚しくてどうしようもない。でも、所詮はその程度のことだ。我慢なんていくらでもできる。
だからそんな自問自答を毎日繰り返す――なんてことはしなかった。
じゃあ、毎日なにをしていたかというと、ただぼうっとしていただけだった。これもなかなか粋なもので、飽きることはない。風の音は毎日のように変わるし、地面も指を添えてなぞれば絵を描ける。これがいわゆるナスカの地上絵、というものだろうか。違うけど。
少女はただそれだけをして、日々を過ごしていた。ただし、食事については辺りに何もなかったのでとっていない。試しに地面を食べてみたが、とても食べられるものじゃないことに気がついてやめた。少女が捨てられた時、こういったときには生活用品一式くらいは一緒にあってもよさそうだが、それすらもなかったので、自分で探すしかなかった。教えてもらうための人なんて、もちろんいない。
ただ日が過ぎるだけ。
無論、たったの一度でも誰にも会わなかったと言えばウソになる。数日前、馬を率いた軍が、遠くを走っていくのが見えた。さらにその数時間後には、同じ一団が来た方向に顔を青くして戻っていた記憶がある。
まあ、その時に助けを呼んでもよかったのだが――助けは要らなかったけど、せめて食事くらいは欲しかった――どうにもあの青くなった顔を見て、声をかけるのは憚られた。
何か世界に変革が起きていることは明白だったが、そんなことを一人の捨てられた少女が知っているわけもない。知っていても何もできないだろう。
世界の変革だとか、そんな小難しいことはひたすらどうでもよかった彼女は、再びあの軍勢が戻ってくるのを期待して待っていた。何日かかるか分からない上に、来る前に自分が餓死してしまえば、あとには犬の餌の価値しかない。犬すらも喰わないような栄養のなさそうな自分は、多分大丈夫だと思う。
とりあえずは餓死しないように頑張ってみることにした。あまり動かないようにしてカロリーの消費を減らそうとしたり、喰えない地面を食べたりもしてみた。たまに伸びてきた爪を切って食べたりもする。
するとなんと、再びあの軍勢が来たではないか。実に三日ぶりのことだった。
裕福そうな腹をしたものから、今の自分よりもやせ切った男の姿もあった。その格好はみんな同じで甲冑だった。
少女は彼らを一端見逃して、その先頭にいた人物に目を向けた。金髪で長身の男だった。その男の甲冑姿は全く似合っていなかったが、彼が先導をきっていたことから、それなりの地位であることが窺えた。その彼の隣には、同じく金色の髪の……しかしローブを着ていて、それが男なのか女なのかは分からなかった。
さらにその隣には長身で筋肉質の男が馬にまたがっていた。彼だけがこちらのことに気がついたようだが、すぐに視線を前へ向けた。さらに馬に鞭を打って速度を上げた。前回のこともあるから、しばらくすれば戻ってくるだろう。
しかしその予想は外れて、彼らは二日間戻ってこなかった。
すなわち二日後、さすがに食事をしなかったことが祟って倒れてしまった。朦朧とする意識の中、誰かが呼んでいるのが聞こえた。
走馬灯だろうか。
けれど、死ぬ直前で思い出すような記憶なんてない。
だからそれは空耳なのだろうと処理して、そのまま重くなった瞼を閉じた。それで苦しかったことから解放された。
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何日か時が経ったらしい。
それに気づかないほどに、眠りこけっていたらしいが、記憶は曖昧。自分は本当に生きているのだろうか。それすらも分からない。
しかし、目覚めたときの景色がすっかり変わっていたことだけは分かった。
大理石の真っ白な部屋だ。天井からは半透明のレースが垂れている。ほかには何もないような質素で簡素で安易な部屋だった。
でも、何もなくてもいい。
本当に何もなかった自分には、過ぎたことだ。
だって、部屋があるんだ。壁がある。天井がある。レースがある。命がある。
温かくて、外の冷たい空気に当たらない感覚は初めてで、不思議な感覚がした。気味が悪くて、最初は吐いたりもした。
しかし、それもしばらくするとその感覚には慣れた。そしてそのころ、記憶上初めての食事が出来た。初めての食事はよく分からない固いパン。そして水。なぜか食べ方だけは知っていた。
全て食べ終わるころ、眠気がやってきたので冷たい床で眠った。冷たかったけれど、荒野のように嫌な感じはしなかった。多分、ここが綺麗だからだろう。
何が起こったのか分からなかったけれど、特別気にしなくてもいいと思った。飢えていたところを助けてもらえたならそれでいい。そのあとのことなんてどうでもいいとさえ思っている。ただ一つ言えることは、もうあそこには戻りたくないということだ。もう、地面なんて食べたくないということだ。
それが叶ったのなら、助けてくれた人に尽くそうと、少女は思った。
少女が助けてくれた人に出会えたのは、あの部屋に来てから一週間後だった。その間はやはりボーっとしているだけの毎日だった。慣れていたせいもあって、ちっとも退屈はしなかった。
一人のメイドさんに連れられて、少女はある部屋に来た。その部屋は奇妙なことに、全面鏡張りの部屋だった。菱形の巨大な机のある部屋には、まだ誰もいなかった。
メイドさんに勧められて下座に座り、しばらくすると、二人の男が現れた。
方や筋肉質の巨躯の男。
方や金髪翡翠眼の男。
金髪の男が上座(ほかのイスとは違って大きかった)に座ると、その隣に控えるように巨躯の男が立った。それだけでこの人たちの関係性がうかがえられた。
二人を見ていると、金髪の男が話しだした。
『××××××? ×××××××××?』
言葉が理解できないので、何を言っているのか分からない。けれど、自分を心配しているような気がした。それも確信できないので、とりあえず首を傾げてみた。
『××××××××?』
何を言っているのか分からない。なので、そのまま運ばれてきたパンを頬張って、部屋に戻った。それからという日々は、あの荒野の日々を思い出さないように生きてきた。
言葉を勉強して、言葉を理解した。
人と話すと、人と話すことが出来た。
うれしいと、喜んだ。
それを教えてくれたのはエルミニだった。エルミニと初めて出会ったのはつい最近のことだった。彼女はガスタウィルのことを何でも知っているように話をしてくれた。その話が好きだったので、少女はエルミニの下へ入り浸るようになった。
笑えなかったけど、うれしかったことはいっぱいあったから、じゃあこのままでいいか、と思っていた。
しかし、そんな日々に亀裂を入れる存在が現れた。
それがナルティス・ミリンだった――。
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歌音の告白が終わった後は、日が沈んでしまっていたので、そのままそれぞれあるべき場所へ帰って言った。そんななか、あたしの足取りは重い。
歌音が話してくれた過去――どうやら、それを思い出させてしまったのはあたし――厳密にいえば、『【世界樹】に挑もうとするあたし』――らしい。
アスタは気に病むことじゃないと言ってくれたが、当事者からしてみればそれはどうだろうか。
歌音は確かに友だちだ。
でも、だからといって【世界樹】を諦めることなんてできない。
「だからあたしは……頑張ろうと思うの」
「うん。いいんじゃない?」
アスタの返事は、字にしてみると素っ気ないように見えるが、その中にアスタの愛情や優しさが詰まっていることは知っているからあたしは微笑んだ。
ちなみに今いるのは自室だ。
自分の部屋で、そこにあった魔導書をひっくり返すように読んでいる。
とはいえ、魔導書を読むのはなにも【世界樹】を倒すため、ただ一つではない。ほかにも目的はあった。
歌音は、『エルミニなら、ガスタウィルのことを全て知っている』と言った。そして、それが本当ならば、矛盾が生じる。
「すなわち……何でも知っているはずのエルミニが、なぜ建国神話について知らなかったのか」
予想の範疇でしかないが、あの建国神話を作ったのはガス……ガス……ガスクロマトグラフだ(いや、それは分析法だ!)。それもそうだろう。建国のことをよく知っているのは彼を置いてほかに二人しかいない。
おそらく【世界樹】を見に行ったガスタウィルと。
彼と同じ目的のために、危険を冒したニボシと。
フードを目深に被った謎の金髪の人物……。
フードは誰か分からないから探す余地はないので、話せそうなのは実質、二人。しかしそれも定かではない。さらにほかにいたのかもしれないし、すでに建国したあとにニボシやらが雇われたのかもしれない。そうだとすればニボシが知らないことには頷ける。
それでも、エルミニはガッテンデスの娘だ。何か知っていなければおかしい。きっと何か隠している。それはニボシも例外じゃないし、ガスなんとか王なんていい例だ。何を隠されているか分からない恐怖心があたしを襲っている。
「でもさ」と、アスタは疑問を口にした。「いくらなんでも国のことを知るためには魔導書だ……って安着だと思わない?」
「それでも、もしかしたら書いてあるかもしれないから。分かんない以上は調べてみるあるのみだよ」
そう言って、ページを繰った。
書かれた魔法、写真、履歴を眺めてそこにこの国の名前がないことを確認すると、次のページへ。
こんなとき、魔法に詳しくないアスタは役に立たない。このヒモめっ!! 言わないけど。言ったらきっと殺されちゃうからね! あはは、洒落にならない……。
「ま、手がかりがなくても、少なくとも【世界樹】を倒す資本くらいにはなるかもしれないしね。……あれ?」
棚に魔導書を返そうとした時、この本で全部の魔導書を読み切ってしまったことに気がついた。ふむ。ここの本だけではどうにも情報不足感が否めないのだが、ほかに本がないものだろうか。
「お話は察しいたしました」
「うわぉう! びっくりした」
あたしは急に部屋に入ってきた人物……言うまでもなくメイドさんの姿を見て、びっくりした。あたしの考えすらもお見通しされて、それにもびっくりした。周りの人みんな誰かの考えを察しているような気がするのはきっと気のせいじゃない。社会って怖い!
お話を察したメイドさんは、特にほかの用事もなかったのか、手ぶら状態だった。なので両手を前で組んでいる。
ゆっくりとした歩みであたしたちに近づき、やがて本棚の前へ立った。その中から一冊の魔導書を取り出し、メイドさんは続けた。
「この魔導書は、この国の蔵書のごく一部なのです。ですから、ほかの場所に大量の魔導書が保管してあります。ここにあるものは、どれもが一般市民に見せてもいいようなものばかりなので、そちらの魔導書でしたら、ここよりも詳しいことが書いてあるかもしれませんしね」
メイドさんが魔導書のページを繰った。よく見るとそれは建国神話についてのものだった。もしかして、あの本の文字が読めるのではないか、とも思ったが、メイドさんが難しげに眉間にしわを寄せているのを見て、期待するのをやめた。読めないなら読まなきゃいいのに、というのはエゴだろうか。
そんなメイドさんに応えるのはアスタだった。
「ふぅん。で、その蔵書ってどこにあるの?」
「城の地下です。もしも侵入された時、誰かに盗まれてはいけないのでセキュリティーは万全です」
「そんなことは気にしてないけどね」
「………(ぷくぅ)」
「あ~、はいはい、そうですね。すごいですすごいですワーシュゴーイっ!」
適当に感動すると、メイドさんは納得したようにふくれっ面を解除した。このメイドさんもこんな表情をするのか。
それはともかくとして。
「んじゃ、そこに行きましょ? 案内してくれる……よね?」
メイドさんは首を振った。
横に。
何でよっ!
拗ねた彼女を何とか説得して(今度一緒に魚釣りに行くことになった)、あたしたちはその蔵書が置かれているという部屋へ向かった。
正面玄関の奥にある部屋から地下へ行く階段は繋がっていた。真っ暗な階段を、メイドさんが先に歩いて手に持った燭台で前を明るくしていた。ほかには光と呼べるものはない。そのうえ、少し肌寒い。気味の悪さを感じるが、今更引き返せないのでそのまま進むことにする。
少し歩いて。
あたしたちは壁の前に立った。否。壁ではなく扉のようで、ノブのようなものを回して中へ入った。すぐに燭台に火が灯され、部屋の様子が見えるようになった。
あたしたちが普段生活していたあの部屋の二倍三倍ほどの大きさの部屋に、埃にまみれ得た本が所せましと置かれている。普段はだれも使わない上に、だれも読まないので、本一つ一つは埃と紫外線で汚れていた。あとカビ臭い。それを手に持って調べることも憚られたが、それを言ってはキリがないので、魔導書を手にとって読み始めた。




