第三章:10 『水にご注意を!』
「あ! 紅茶飲むの忘れてたぁぁぁっ!!」
絶叫。そしてどん底へ。
翌日。
歌音と一緒にお風呂に入ってからの翌日だ。
特に変わりない寝起きだったのだが、今朝はその様子が違っていた。何しろ、不覚にもあたしはアスタの腕の中で眠ってしまっていた。だから昨日メイドさんが持ってきてくれた紅茶ちゃんをすっかり忘れてしまっていた。
冷えきった紅茶に息はない。生きているわけもないし、心臓もないけれど、あたしの目からはそう見えた。
「紅茶ちゃんが……紅茶ちゃんがああぁぁぁっ!!」
「あはは、にぎやかだね……でも寝起きにそのテンションは正直辛い……」
「五月蠅い! 緊急事態なの、アスタ! 紅茶ちゃんが……紅茶ちゃんが……っ!!」
ご臨終ぅ~。
「うぅ……なんか、仏壇にある鈴の音が聞こえるよぉ」
「あはは。大げさだなぁ。もう一回淹れなおせばいいじゃん」
「それでも、この子はもう生き返らないの!!」
「いや、そもそも生きてないけど……ま、いっか」
よくない! と叫んでアスタを叩いた。アスタはまるで痛みを感じていないかのように、へらへら笑っているだけだった。むぐぅ……こいつに反省という言葉はないのか?
「第一、紅茶が生きていられるのは淹れてから10分以内なの! 蝉よりも短いんだから、早く飲んで呑まれてあげるのが礼儀ってものよ」
「呑まれちゃだめだよ」
それは……難しい相談だね。紅茶を飲んだら呑まれるのだから、仕方ないじゃんか!! あたしは酒癖の悪いおっさんか。サラリーマンか。あぁ、働きたくない。とりあえず紅茶が飲みた……っは!
「紅茶ちゃぁぁああん!!」
ち、違うんだ!
浮気をしたわけじゃないんだ! 君を忘れたつもりはないんだ……!
「ごめんよ……ごめんよ、紅茶ちゃん。君を、あたしの胃袋で消化してやれなくて……」
「わ~、ナルちゃんがバカだ~」
「むっ……あたしのどこがバカだって言うのさ」
「ん~……全体的に?」
「死ね!」
あたしは紅茶の入ったカップをアスタに投げつけた。しかし、アスタはすぐにそれに反応して、あたしの背後へ回った。
「っは! 紅茶ちゃんが……!」
「それよりも心配するのは背後を取られたことじゃない?」
「紅茶ちゃんッ!!」
あたしは紅茶ちゃんに駆け寄ったが、すでに息はなく、床に飛散しているだけだった。あう……思わず手が滑っちゃった❤
テへぺロ~☆
……。
「あぅぅ……なんか虚しくなっちゃったよ」
「もういいからナルちゃん、そろそろ行こうよ」
そう言って、アスタは背後からあたしを持ち上げた。そのために背後に回ったのか……というか、恥ずかしい。
「もうっ! やめてよ! 自分で歩けるもん!」
「昨日は泣きじゃくって可愛かったけど、今日は反抗期の猫みたいで可愛いね!」
「う、五月蠅いわボケェ!」
「ほら、高い高ーい」
「わーい……じゃないよっ! 子ども扱いすんな!!」
羞恥に顔を赤くさせながら叫ぶと、例の如く、アスタは笑った。ったく、本当にこいつは……。
「いいから離して。いくらなんでも、そんなにお子様じゃないから大丈夫だもん」
「泣きじゃくってたくせに?」
「もういいでしょ! その話は!?」
そんなこんなあって。
寝起きは最悪。
アスタの態度も最悪だった。
その上、アスタに弱みを握られてしまった。これまでに握られてきた数を数えると……うぅ、生きた心地しない。弱みだらけで、あたし完全に不利じゃん。
ま、アスタもあたしをいじる時以外にはそんなこと言ったりしないだろうけど。
「さて、エルミニのところに行こうか?(にやにや)」
……しないよね?
んん~。
言ったら言ったで、復讐が待ってるだけだから大丈夫だよね! 腕の一、二本くらいもっていくような魔法作ってもいいよね! これは正当防衛だ!!
報復という名の、ね❤
「うん……計画はばっちり。だから早くエルミニのとこ行こーっ!!」
「あはは……今何考えてたの?」
もちろん言えるわけがない。報復よりも恐ろしいことが起きることは、こんなあたしの小さくてバカな脳味噌にだって分かるのだ。味噌が脳から作られるわけじゃないことも知ってるんだからね! ホントだからね!!
……さて、そろそろ話を進めようか。
あたしたちはエルミニ宅へ向かう準備をするため、まずは朝食を取ることにした。今朝もパンの茶色一色に染まったテーブルを見つめて、深くため息を吐きつつ、いつもの席へと腰を下ろした。適当に近くにあったパンを貪りながら、ふと天井を見上げると、猫さんが天井に張り付いてこちらを見下ろしていた。それを華麗に無視しながらさっさと黙々と食事を済ませ、部屋に戻る。
部屋に戻ると、机の上に置いた巻物やらペンやらを持ち、アスタの準備が終わるのを待った。その間も猫ちゃんは、天井に張り付いていた。よく落ちてこないものだと感心したところで、アスタの準備が終わったようだ。
さて出発と、あたしたちはエルミニの家へ向かって歩き始めた。
もちろん、いや、もちろんというべきか分からないが、初めてエルミニのところへ行った時よりも短い時間で彼女の家に着いた。これももちろんというべきか否か分からないが、エルミニはいなかった。こうなっては行く場所は一つしかない。
あたしたちは下山を始めた。
そして数分後、あたしたちは湖へやってきた。今日は快晴で、遠くまでよく見えた。
そこに子どもたちの姿もあった。ニボシとはしゃいでいる姿を見ていると、どうにも癒されるものがあったが、アスタを見ると冷笑していたので寒気がした。問題起こさないでね?
ニボシがいたということは、もちろん彼女の姿もある。そしてここまで見事にバレバレの隠密行動をしていた猫ちゃんは、知ったかぶりを決め込むらしく、目にも留まらぬ速さで移動し、エルミニの隣で犬と化していた。何なの? ブームなの?
エルミニは仕方なし、と言わんばかりに歌音の……犬の頭を撫でていた。あたしたちは彼女の座る隣に腰を下ろした。そこは木陰で少し涼しい。
エルミニはこちらを見なかった。ここに来ることが分かっていたのだろう。
空は晴天で雲ひとつない……という月並みな表現をしつつ、かといって別段空を見上げるというわけではない。もちろん空に月なんて浮かんでいない。だから月並みというのがどの程度のものなのかは分かんない。
「……ミーちゃん」
「ん?」
エルミニの髪が揺れた。端正な顔だちが横から見ても蠱惑的だった。
「……平和、ですね」
「うん」
「とても平和です」
「うん」
「すっごく平和です」
「う、うん………で、何?」
「滅茶苦茶平和です」
「……はい」
答え方を変えてみた。意味はない。
「いつまでも平和です」
「……で、何が言いたいわけ?」
「ふふふ。やーね。ミーちゃんなら分かってくれると思ったのですが……」
残念、不正解。
ボッシュート。
エルミニは意味深に笑いながら言った。
「つまりは遊びたいわけなのです。まあ、わたくしはこんなですから動けないのですけれど、みんなが楽しくしているところを見ていたいわけなのです。要は、みんなと感動したいです」
「はぁ……」
つまりは、とエルミニは人差し指を立てて初めてこちらを振り向いた。
「釣りがしたいのです」
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当然、釣りなんてしたことがない。そういう知識もほとんどない。
そのため、釣りには何が必要で何が不必要なのかが分からなかったが、なんとこの場にプロフェッショナルがいてくれたため、なんとかなった。
「……」
ほかでもない。歌音である。
「なんか……何でここだけ猫っぽいんだろ」
猫らしく魚をくわえて某国民的アニメのキャラクターに裸足で追いかけられるのだろう。猫がみんなあんなだと誰が言った。そう。今あたしが言った。
あたしたち(子どもも含めて)は、歌音の前に整列。わーきゃーとはしゃぎながら歌音の指示を待っていた。それぞれに手作りの釣り竿が配られると、「ナニコレ」状態に陥った。
「ぼさりん、何これー?」
「あたしに聞かないで。あたしも分かんないし……というか」
釣りなんてやったことがない。
だから子どもたち……テラルトにシラルト、ピポル、イズ、カルタの五人に、あたしは何も教えてやれない。むしろ教えてくれ、と言いたい。
「ぼさりんぼさりん!」
「何? ピポル?」
「ぼさりんぼさぼさぼさりんりん! はい十回!」
「何で今この状況で唐突に!?」
あと、対して難しい早口言葉でもない。
ぼさりんぼさぼさぼ……。
まあいいや。
「……始める……」
「教えてくれないと、困るかなぁ?」
いや、困る。是非を問わず。
歌音は頷き、薄い桜色の唇を開いた。
「……魚釣りとは……」
その時、歌音の瞳がカッと開いた。
「芸術!」
「……ん?」
「魚釣りとは釣り針と釣り糸、釣り竿などの道具を使って魚を釣ること。その方法から魚釣りと呼ばれているので、網や罠を使って魚を取ることは、魚釣りとは言わない。魚釣りの魅力は、美味しい新鮮な魚を釣り上げることに他ならない。後々の楽しみを待って、魚がかかった時の勝負。それはまさに人間と魚と言う生物種の壁を越えた戦いであり、それは至高なりて他ならない。まさに芸術であり美学」
「あ……うん……」
「魚を釣る手段は簡単。釣り針に餌を付けて湖に沈める。魚がそれを食べるのを待ってうまく引っかかったところを引き寄せて捕獲。それだけ。その大きさが大きいほど英雄と称えられて、中には墨を魚に塗って紙に押し付ける『魚拓』もされていたりする。その感動は全米が泣くほど。ふふふ。魚拓を取るほどの大きさともなると、その美味さはまさに孤高にして至高。絶品を越えたものになること間違いなしで……」
「もういいよ! キャラ変わってるじゃん! 無口キャラどこに行ったのさ!!」
しかし、歌音は続ける。
何かに取り憑かれたかのように。
「この湖の大きさからして、いや、この湖がこれまで見つかっていなかったとしたら、きっと誰にも見つからなかった巨大な魚が取れるはず。それを取れば暫くの食事も問題なくなるし、美味しい塩焼きでも食べられる。故に、魚釣りはたんなる楽しみだけでなく、一つの食糧確保の手段であり、まさに一石二鳥三鳥の遊び。魚釣りを開発した人は神。まさに崇める存在であり、けれど魚釣りの歴史は長くて――」
「キングクリムゾン!!」
「……魚釣りが最初に行われたのは今から4万年前のことと云われて――」
「効かなかった!?」
そのあと。
約一時間ほど歌音の熱弁を聞いて、釣りが始まった。この人数からすると、釣り大会である。
さて、誰が一番大きな魚を釣るのか。
それとも、木に括りつけて猿轡をされた歌音が解放されるのが先か……。
まあ、どちらにしても、きっと釣ったほうが楽しいので、それぞれがそれぞれに、この広い湖を囲うように離れて行った。遠くから見ると、ニボシが子どもたちの釣り針に餌であるミミズを付けていた。なんて家庭的! なんて見惚れるわけじゃないけれど、あたしもミミズを付けてほしかった。
そこらを右往左往していると、アスタがやってきた。あれ? アスタはさっきまであたしの向かい側にいたはずなのだが、わざわざ来てくれたらしい。
「まずい。歌音が逃げ出して俺のところ占拠された」
「なんて暴れ馬だ……」
暴れ馬。いや、暴れ猫。むしろ化け猫。
どれもいい意味ではない。
穏やかじゃない。
「あれ? 釣り始めないの?」
「あ、いや……その……」
言い淀んでいると、アスタがああ、と呟いて得心いったようにあたしから釣り竿をひったくった。その釣り針に、手際良くミミズを刺した。針が隠れるように丸く刺さったミミズからは、微量ながらも体液を流していた。それがねばねばの正体なのかもしれない。知らないけど、生理的に受け付けないのが人間。
アスタから戻ってきた釣り竿を一瞥して、小さく「……ありがと」と言うと、アスタは笑った。
「どういたしまして。困ったことがあれば何でも言っていいんだよ。ナルちゃん、戸惑う姿も可愛いけどね」
「あはは。台無しよ、それ」
あたしは笑って、視界の端に映った少女を見た。
あ、そういえば。
彼女に聞きたいことがあったんだ。
「エルミニ!」
「はい、何でしょう?」
あたしは竿を持ったまま、エルミニの正面へと移動した。出来れば彼女とアスタ以外の人物に聞かれたくない会話だった。エルミニの頭には疑問符が浮かんでいたので、ストレートに聞くことにする。
「エルミニって、この国の建国神話って知ってる?」
エルミニは首をかしげて、やがて唇を開いた。
「ええ、知っていますけれど……それがどうかしましたか?」
「それって、9行程度の文章?」
エルミニは頭の中に知っている言葉を並べていき、やがて頷いた。
「ええ。9行……あの意味の分からない暗号のような神話ですよね」
「アレを書いたのって、誰か分かんない?」
エルミニは逡巡し、首を振った。
「わたくしには分かりかねます。詳しい話は、やはりガスタウィル様に聞いたほうがいいと……」
「うーん……それじゃあ意味ないんだよねぇ」
あいつに聞くと、嘘を教えられるかもしれないから。それだと困るので、できれば信用できるエルミニに聞きたかったのだが、知らないようだから仕方ない。
じゃあ次の質問。
「エルミニは、その9行の神話について詳しく知らないの?」
「詳しく……と言いますと、あの魔導書に書かれたものですか? ごめんなさい。あれはわたくしにも理解できない文字で書かれていますので、わたくしも分かりません。ただ、あの字はガスタウィル様のものだということは分かります」
やはり、親子ですから。その言葉を付け加えたエルミニの表情はどこか憂鬱げだった。
さて。これで手詰まり確定なわけなので、とりあえず今は釣りに集中しようと再び湖に近づいた。そこで初めて糸を垂らした……その時。
「「「わぁぁぁあああっ!!」」」
悲鳴が聞こえて、あたしは釣り竿を落とした。
「何!?」
「ナルちゃん、あっち!」
と、アスタが指した先にあったのは壁――否。あれはそう見えるがそうじゃない。だって……
――壁が生きているわけがないのだから。
「……本当にでかい魚いたね……」
わお❤
穏やかじゃなーい☆




