第二章:15 『傀儡のへーわ』
涼しいことが山の醍醐味なのだと思う。
七年間もの間共に過ごした森。鳥が囀り、虫たちがオーケストラのような美しいメロディを奏でていたあの森を思い出して。
「もう……歩きたくない」
軽く絶望していた。
ハイキングが好きだとか、登山は楽しいだとか言っている人の気持ちが分からない。何でこんな同じような景色をただひたすら歩くことに楽しさを見いだせるのか……。あたしは体力がないのだし、城に戻ってゆっくりと紅茶を飲んでいても罪にはならないと思うのだけれど、そう現実は甘くない。働かない人間は社会から追い出されて廃人になるのだ。そんなことになりたくないのはあたしだけではないだろう。
涼しいことだけが幸いしていたが、今はもうその涼しさでは紛れないほどに暑かった。運動するたびに体外へ熱が零れている。体外に出た熱を冷ますように汗は出るが、そのせいで変態が活発に活動を再開する。
ああ、やっぱり運動は嫌いだ。
「くんかくんか……可愛い子……イイニオイ……」
「はぁ……はぁ……あの……もうやめていただけませんか?」
「……嫌……」
そこは拒否してほしくなかったなぁ。嫌なのはあんただけじゃないんだよ、むしろあたしのほうが嫌だよ!?
なんだ……この状況。
あたしはただ歩いているだけなのに、アスタはニヤニヤ笑っているだけなのに、ニボシは先に立って歩いているだけなのに、歌音はなぜそう変態なんだ?
いや、理由は知っている。
彼女がコミュ障だからだ。
彼女はこうしてボディタッチでしかコミュニケーションを取れないという一種の変態病にかかっているんだ。だから彼女の態度には我慢を強いられるし、付き合っていかなければならない。
コミュ障は一朝一夕で治るようなものではないし……あぁ、早く離れてくれないかなぁ……。
歌音を背負って、あたしは山を登る。こんな力仕事はニボシにでも任せるべきなのだろうが、歌音はあたしを選んだ。ただでさえ体力がないのに、本当に勘弁してほしい。もう、帰りたい。
「あはは。ナルちゃん大変だね!」
「そう言っている割にはすっごく笑顔なのが気にかかるんだけど……そう思ってるなら、アスタがこれ背負ってよ」
「……嫌……」
「というわけ」
「もうっ! 何であたしだけこうなの!?」
あたしが何をやったというのだ!? あたしが女だったから悪いのか……。
あたしが男だったらこんなことにはなってないはずだ、と心の中でバカなことを叫んでいると、ニボシが足をとめた。やっと着いたかと思ったが、辺りを見渡しても家があるような雰囲気はない。
きょろきょろと見ていると、ニボシの前に城壁があるのが見えた。でも、その様子がおかしい。
茶色い壁は誰の侵入を拒むように高い。そこに兵士の姿はなく、完全に無防備だったのだが、上方を眺めていると、そこに大砲のようなものを確認できた。大砲は城壁の向こう側に向いている。城壁のどこを見ても入口はなく、間違えてここに来たんじゃないか? と思わせた。しかし、様子のおかしさはそこではない。
その城壁に、あたしの見知ったものが付いているような気がしたからだ。
「……魔法?」
そう。
城壁には魔法がかけられているようだった。それに、よく見れば光が屈折している。多分この先に道が続いているのだ。
「そうです。これは幻惑系の魔法……この先は国外ですから、襲撃されます。その時、外からの襲撃に備えて設けた魔法なのです。とはいっても、簡易的な魔法ではありますが……」
「でもこれじゃあすぐにばれるよ?」
ベテランの魔法技術士ならなおさら、こんな簡素な魔法はすぐに解かれてしまう。ここに敵国が来てしまえば、襲撃は免れない。
あたしの訝しげな視線に、ニボシは笑顔で答える。
「いえ、この魔法は人間相手のものではないのです。ばれなければいいのです………あいつらに」
「あいつら……?」
ニボシの言わんとすることを理解できず、あたしは首を傾げた。
そんな様子になんとも思っていないのか、ニボシは魔法に指を指して語り始める。
「で、これからこの一部の魔法を解除して穴を開けます。そこから国外に出るのですが……この先は危険地帯なので、私や歌音から離れないでください」
「俺は大丈夫だよ? むしろ自分の心配をしたら? ふとした瞬間に視線がぶつかって刺されるかもしれないよ?」
「名曲をそんな言い方して……胸はときめかないわよ?」
むしろ心臓が止まる。もちろんパステルカラーの季節に恋をしたりもしない。
「はは。大丈夫ですよ。私は負けませんから」
「もういいって。……で、何でニボシや歌音から離れたらいけないの? どんなに離れていても心はつながっているのなら、こんな密着しなくていいと思うんだけど」
「……嫌……」
「歌音、さっきからそれしか言ってないよね? 怒ってる?」
「……眠い……」
「ぐっ……何この愛玩動物❤」
子どもみたいなことを言って、歌音はあたしの首を抱いた。背中に強烈な弾力を感じるが、無視。でないと悲しみで心が折れてしまいそうだから。いっそのこと足でも折れてベッドライフを堪能……できるわけないか。痛いもんね。不謹慎なことを言ってゴメンナサイ。
そんなことを思っている間に、ニボシが手を掲げる。すると、目の前の魔法が解除され、穴が空いた。城壁に穴が開いたように見え、その先に木々が生い茂っているのが見えた。
「ニボシ……あんた何者?」
魔法をいじることができるのは魔法技術士だけだと思うのだが……ニボシが魔法技術士だとか……そんなわけがない。
あたしの質問に納得したのか、一つ頷いた。
「いえ……この魔法は魔力を持たないものでも解除できるので。とにかく、私と歌音から離れないように行きますよ?」
「はいはい。といっても、歌音のほうが離れてくれそうにないけどね」
愚痴をいいつつ、あたしは穴を抜け、再び山の中腹を目指して歩き始めた。
――幾許かして。
「はぁ……はぁ……」
「あはは。ナルちゃんの息切れ、録音して毎晩聞きたいな☆」
「……同感……❤」
「あぁ、変態が増殖してる……」
軽く社会が崩壊しながら、ゆっくりとあたしたちの脳は熱で侵されていた。ふやけて蕩けてばいばーい☆
そんなあたしたちに呆れを抱いたニボシはため息交じりに言った。
「あなたたち、よくこんな状況でのんびりできますね」
さて、ニボシがこめかみに手を当てて苦渋しているので、現実を見よう。
というか、辺りを見よう。
「ウゥ……ワゥリャェ……」「グモーキン! グモーキン!」「ウェー、ウェールッ!」
「何なのこいつら……」
あたしたちは異形の化け物に襲われていた。大きさは2頭身ほどで小さい。顔には三つの瞳、口は耳のところまで大きく開き、鋭い牙が生えている。耳は尖り、ピアスのようなものを付けている。手は片方が熊のようで、もう片方が触手のようになっていてとても気味が悪い。
そんな化け物が奇声を発し、じりじりと間を詰めてきている。目の前の異形の化け物は3体だけだったが、遠くの木々が揺れているので、多分もっといる。
あたしたちは完全に囲まれてしまっていた。八方塞がりである。
そこで、やっとニボシが言っていたことの意味が分かった。
「ま、ナルちゃんが知らないのも無理はないよね。ずっと【鳥籠】にいたんだし。それに、こいつらからナルちゃんは守られていたから、知らないのも当然だね」
「ちょっと待って。この化け物が世界中にいるの?」
その質問に、ニボシが答える。
「はい。【世界樹】が現れた1500年前、異世界から化け物がやってきて、世界中に跋扈しました。とはいっても大昔ですから、私たちには関係ない……というか、そんな話は後にしましょう。そろそろ、化け物が集まってきます」
あたしは目の前の化け物が何匹も集まったところを想像して、背筋が冷えるのを感じた。
こんな化け物が世界中にいるなんて知らなかった。それも1匹2匹というレベルではない。それにあたしが守られていたなんて……。
多分守ってくれたのはアスタだ。それならニボシとの戦いで見せた強さにも頷ける。
なら、ここで一番力がないのは目に見えているので。
「……ごめん。この中であたしだけ無力だ」
「いいよ。箱入り娘はいつまでも俺に守られていればいいんだから」
「もう箱入りしてない!」
「危ないっ!」
ニボシが叫ぶが早いか、異形の化け物に襲われるが早いか、あたしは後ろからの襲撃に気付かなかった。
「ひっ!」
気付いた時には、ものすごい速さで熊の手が振られていた。迫りくる恐怖に、あたしは目を瞑る
――が、
「りゃ」
背中の重みが消えると同時に、化け物が宙に浮かぶ。宙に浮かんだ化け物はその身を血の雨として細かく刻まれた。
顔を正面に向けると、歌音が目に追えない早さで動いていた。
「……可愛い子……守る……」
そう言って、残りの2匹の化け物の首を撥ね飛ばした。目の前の化け物がいなくなると、歌音は一瞬でニボシの隣に移動した。
「……全方向……30匹……以上……」
「分かった」
「すごいねぇ。無力なナルちゃんとは大違い」
「悪かったわね。っていうか、あんたも戦ってないじゃん!」
するとアスタは笑い、
「だって俺、武器持ってないもん」
「結局無力なんじゃん!」
そうこう言っている間にも、異形の化け物が視界に現れた。周囲に32匹……これ以上の増援がないのなら、歌音が言った通りになる。さすが猫人族と言ったところか。
「あぁ……ちょっと数が多いですね」
ニボシがその化け物たちを見て、呟いた。やれやれ、という態度で右手に左手を添えると、空に突き上げた。
「ちょっと本気出しましょうか」
ニボシの周囲の砂が右手に集まるように盛り上がる。
そして、ニボシは叫ぶように呪言を唱える。
「――巨人鎧、パーセント・5!!」
右手が赤く発光し、ニボシの右手にガントレットが現れた。手の部分には剣が挿さるように握られていた。肩まで伸びたガントレットに血色の炎が渦巻き、その炎に電気のようなものがバチバチと流れていた。その異形の姿に唖然とした。
それは魔法のようだったが、あたしが見ても魔法には見えなかった。
「何なの……これ……」
「では、行きますよ。歌音」
「……はい……」
歌音は疲れ知らずの早さで異形の化け物どもを蹴散らす。まさしく、蹴って首を宙へ。その首にさらに蹴りを加えて細切れに。パーンッと破裂したように、化け物の首は雨と化した。ザーッという雨とともに、歌音は地面に着地し、次の標的を見定める。
ニボシのほうは、
「ナルちゃんしゃがんで」
「え?」
ニボシが右手を一薙ぎ――
――そして、周囲の化け物どもが身体を真っ二つに裂かれてゴトリと落ちた。
ニボシはそれを確認するまでもなく、重厚そうなガントレットを振り上げ、再び薙いだ。そのたびに異形の化け物どもの身体が真っ二つに裂けて散った。
一撃でその威力……アスタとの戦いのときに、本気を出していないと言っていたことを体現しているかのようだった。それを見ているアスタは相変わらずにこにこ笑っていて余裕を出していた。その余裕がどこから出るのだろうか。不思議だなぁ、人間って……。
――本当に……。
「グ……グワーィリェ……」
異形の化け物どもは、二人の強さに気圧されて一歩身を引いていた。ま、その反応も当然だろう。あたしもここから立ち退きたい。
辺りを見渡すと、先ほどまでも平和そうな空間に血の海ができていた。吐き気を催す臭気が漂い、赤々しい色に目を瞬かせた。
「……こんなの……あたしが求めていた世界と違うんだけどなぁ……」
その声はアスタだけにしか聞こえていなかっただろう。
阿鼻叫喚、酸鼻を極めた光景――。
32匹いた化け物どもは全て雨に変えられ、その身を二つに裂かれ、壊滅した。
次第に血の雨は止み、立っているのが4人だけとなった。あたしは血で汚れた頬をぬぐい、歌音とニボシを睨みつけた。
「……こんなの、間違ってると思わない?」
しかし、二人は何を行っているのか分からない風で首を傾げた。その態度にイライラが募る。
「何で……何で殺さなくちゃいけなかったの? 何で、傷つけなきゃいけなかったの?」
「何で、ですか? ……私はナルティス様の言わんとすることがよく分かりませんが、私たちがあそこで対処しなければ、こちらが死ぬことになった……」
「そんなの聞いてない! あたしは、誰も傷つけたくないから【世界樹】を倒すんだ! 生物なら、人間の大人以外ならみんな救うつもりなの。それなのに……これじゃあ意味ないよ!」
ニボシの目が鋭く刺さる。いつもなら、その威光で足を竦ませてしまうが、我慢してを睨み返した。ニボシが口を開く。
「ならば、あなたならどうしたというのです? あなただって、魔法を……兵器を作っていたでしょ!?」
「その言葉、とても見過ごせるものじゃないね」
アスタが加勢するように、あたしの背を押した。
「ナルちゃんが兵器を作った……でもそれは、ナルちゃんが生きるためにしたことだ。今まさにお前等がやったことと何ら変わりない」
「それでもあたしが……あたしのせいでたくさんの命を奪っちゃったのは分かってる。その罪は確かに大きい。でも、ニボシや歌音がいましたことは、止められたこと。止められなかったのは、まだあたしに力がないから」
あたしは悔しくて拳を強く握りしめた。
「ニボシ、もし今の状況に、再び追い込まれたなら、あたしは和解を目指すよ」
「そんなの無理です。彼らは喋られません」
「なら、傷つけないような魔法を作るよ……」
そう呟いて、ニボシに近づいた。小さく耳元で、
「――クズヤローが」
言って、山を登り始めた。




